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 その夜はことのほか静かだった。

 十三夜月がのうのうと夜空に浮かんでいる。

 

「あと二日頑張っていただけたら、全部を月に返せたのに」


 縁側に座ってぼんやりと夜空を見上げるつくよの頬に、少し冷たくなってきた風が触れた。


「あと二日か。それで事を急がれたのかもしれないな」


 つくよの横で同じように月を見上げる春尚がぼそりと言った。


「え?」


「千世さまは、己の毒で父帝に引導を渡されようとなさっておる」


「それは……」


「千世さまがなさらねば、私がしようと思っていたんだ」


「春さま?」


 朝成と朔也は、千世の亡骸に付き添って薬師詰め所へ行っている。

 結界のお陰か、この部屋に酷い損傷はなく、ただ夢ではなかったと思い知るほどの焦げた匂いが漂っていた。

 焼け残った建具は取り外され、代わりに御簾が掛けられている。

 拭き清められた畳の上には、薄木を編んだ敷物が置かれた。


「何事であろうか」


 廊下を走りくる足音に、つくよがふと声を出した。


「陰陽師さま」


 春尚に声がかかる。


「慌ただしいな」


 御簾の横から顔を覗かせたのは、若い薬師だった。


「陰陽医が居りませぬ。かの方が居られぬと……」


 春尚が片眉を上げる。

 陰陽医である土御門家当主は、すでにこの世にはいない。

 わざわざ教えることでもないと春尚は知らぬ顔を決め込んだ。


「居ない? 陰陽院にも?」


「はい、ご自邸にも控えの間にも」


「居ないと何か不都合があるのか? 帝の生薬であれば薬師の管轄であろう?」

「それが……我らは腑分けはできません。あれは陰陽医の……」


「陰陽医の仕事は、物の怪由来のものだけのはずだが?」


 若い薬師が泣きそうな顔を向けた。


「申し訳ございませぬ」


 このまま知らぬ存ぜぬを通すとなると、千世の命を無駄にすることになる。

 

「これは困ったな」


「千世さまは?」


 つくよが鋭く聞いた。


「すでに……」


 庭から吹き付けた風が御簾を揺らし、ギシッと嫌な音をたてた。


「陰陽医ならここに居るぞ。ちと若いが腕は良い」


 真っ青な顔をした隆正を横抱きにした忠尚がのそりと縁側に立った。


「兄上、ご苦労様でした」


「ああ、少々手こずった」


「首尾は?」


「上々。あとはこ奴の心根次第じゃ」


 隆正が薄っすらと目を開ける。


「春尚……兄さま」


「ああ、ここに居るぞ。まあ……なんというか。お前も大変だったな」


 隆正の目から涙が一筋溢れ出た。


「で? なぜ陰陽医を探しておる?」


 忠尚が隆正を降ろしながら薬師に聞いた。


「生薬を取り出すお役目をお願いしたく」


 隆正の瞼がヒクついた。


「元来はそちらのお仕事です。そちらでなされよ」


 力はあると言えど、自分よりも遥かに若年の陰陽師に言い捨てられ、薬師の額に血管が青黒く浮き上がった。


「確かにその通りでございます。なれど、それを買って出て、金子を受けとっていたのは、そちらでございましょう?」


 言い終わるより早く、薬師の体が弾き飛ばされた様に転がった。


「過ぎる口は災いを呼ぶぞ」


 春尚の指先から、薄水色の霞が漏れだしていた。

 口から泡を吹いて白目をむいた薬師は、ピクリとも動かない。


「おいおい、やり過ぎじゃ」


「いいえ、そもそもこ奴らは気にくわなんだのです。偉そうにしやがって。毒は作るくせに、解毒は作れぬなどと抜かしやがる」


「ははは! 薬師とはそんなものよ。親が偉けりゃ子も偉いとは限らぬのにな」


 忠尚の言葉に、隆正の指先がピクリと動いた。


「何用でございましょうか。父ほどではございませぬが、お役目とあらば……参じましょう」


 隆正が力ない声で言う。


「千世さまが身罷られた。腑分けをせねば……」


 まるでこの世の全てを呪うような低い声で春尚が言った。


「千世さま? なぜ急に?」


 春尚がつい先ほどの出来事を搔い摘んで忠尚に伝える。


「それはまた……幼きながらもあっぱれなご覚悟だ。救って貰ったな、春尚」


「……はい」


「私もお前を罰するのは嫌だ」


「はい」


「急げばその女御の放った呪いも全て、かの方のお口にはいるだろうよ」


 春尚が顔を上げた。


「いけるか? 隆正」


 隆正が無表情のまま頷いた。


「拾っていただいた命でございます。何なりとお申し付けくだされ」


 月が雲に隠れた。

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