18
「では、いって参ります」
「ああ、ご苦労さまです」
姉弟の間で、毎朝交わされるこの言葉。
それを聞き終えた使用人が、朔也を乗せた板に手を掛けた。
その板は、朔也を運ぶために工夫を凝らされたもので、帝が幼少期に使っていたという胡床が打ち付けられている。
「何度乗っても、畏れ多くて慣れませぬよ」
もともと朝成が受け継いだものだったが、朔也に良いだろうと下賜されたものだ。
胡坐を組んでも、背もたれと肘掛けがあるので疲れにくい。
板の四隅には、持ち手が作られており、運ばれる朔也の体も然程揺れずに済む。
「さもあろうが、兄さまのお心遣いゆえなぁ」
少しだけ口角を上げた朔也が困ったように眉を下げた。
座したままこれで運ばれるたびに、朔也は嫉妬と羨望の視線に耐える必要がある。
朔也は、諦めたようにホッと小さく息を吐いた。
「では、姉さま。つくよ、頼んだよ」
「畏まりました」
「青野もな」
青野は言葉にせず、正座のままひれ伏した。
使用人たちのすり足の音が、ゆっくりと遠ざかってゆく。
千世が手を合わせて呟いた。
「無事に戻られませ」
空は青く、風は涼やかだ。
どこかの女御が着物に香を焚きしめているのか、うっすらと甘い香りが漂っている。
「さあさあ、千世さまも頑張ってくださいませ」
「うん」
馬酔木毒が粥に混ぜられてからというもの、千世の食は細くなるばかりだった。
食べようと匙を運ぶが、恐怖からか、なかなか口にすることができない。
「ああ、そうだ。今日はヤマボウシの実を甘く煮ておりますよ」
「え? ヤマボウシ?」
「ええ、お好きだったでしょう?」
「ああ、そうじゃな。しかしあれは、藍丸の好物であったろう? 届けられたら良いのじゃがなぁ」
すっと千世の頬に影が浮かんだ。
「届けてきましょうか?」
振り向いた三人に笑顔を向けたのは、若い男子を二人従えた春尚だった。
「届けてくださいますの?」
「お安い御用ですよ。それに、今日はもともとお伺いする予定でした」
その言葉に、千世の眉がぴくっと揺れた。
座敷の中に吹き込んだ風が、少しだけ肌寒さを運んでくる。
妙な気まずさが、その風に混ぜられて外へと抜けた。
「結さまに干菓子をと思いましてね。藍丸さまには書物を」
「ああ、そうでしたか」
千世が大きく息をついた。
「千世さま。お二人は大丈夫です。ただ、寂しがっておられますね」
「寂しがって……そうですか」
千世が小引き出しから懐紙に包んだものを取り出した。
「春さま、これも一緒に」
春尚が伸ばした手に、それを乗せる千世。
「これは……栞ですか?」
「ええ、あの桜花で作りました」
春尚がにっこりと微笑んだ。
「必ずお届けいたしましょう」
千世が嬉しそうな顔で頷いた。
「その代わりに」
春尚がつくよの手から盆を受け取る。
薄味に整えた粥は、まだほんのりと温かった。
春尚の意図を察した千世が、困った顔をつくよに向けた。
同じような顔をしたつくよの横で、青野がゆっくりと声を出す。
「この粥の後で、お薬湯を。その後でございますよ、ヤマボウシの甘露煮は」
淡々としてはいるが、愛がないわけではない。
それがわかっているからこそ、千世は頷くしかないのだった。
「承知しています」
千世は春尚から盆を受け取った。
それを確認した春尚が、独り言のように言う。
「そういえば、藤の間の女御殿が、暇をとられたそうでございますよ」
「藤の間の?」
「ええ、左大臣の遠縁の女です」
「まあ!」
「厨房のものも幾人か代わりました」
「厨房も?」
「ええ。使用人も少しだけ。これで当分は大人しいはずです」
つくよの鼻の奥で、馬酔木毒の甘い香りが甦る。
「それならば……安心ですね」
千世は、諦めたように粥を一口掬いあげた。
遠くで雲雀が囀っている。
春尚が青野に顔を向けた。
「青野、君も一緒に」
三人が同時に顔をあげる。
「あちらが少し手薄になっているようでね。手を貸してほしいと文が届いたんだ」
青野は返事をしない。
「この者たちも連れて行く。お子たちの遊び相手だ」
「それほどまでに?」
「うん、そうみたいだよ」
青野が千世の顔を見た。
小さく頷いたのを確認して、今度はつくよの顔を見る。
「こちらはお任せください」
今度は青野が頷いて見せた。




