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「では、いって参ります」


「ああ、ご苦労さまです」


 姉弟の間で、毎朝交わされるこの言葉。

 それを聞き終えた使用人が、朔也を乗せた板に手を掛けた。

 その板は、朔也を運ぶために工夫を凝らされたもので、帝が幼少期に使っていたという胡床が打ち付けられている。

 

「何度乗っても、畏れ多くて慣れませぬよ」


 もともと朝成が受け継いだものだったが、朔也に良いだろうと下賜されたものだ。

 胡坐を組んでも、背もたれと肘掛けがあるので疲れにくい。

 板の四隅には、持ち手が作られており、運ばれる朔也の体も然程揺れずに済む。


「さもあろうが、兄さまのお心遣いゆえなぁ」


 少しだけ口角を上げた朔也が困ったように眉を下げた。

 座したままこれで運ばれるたびに、朔也は嫉妬と羨望の視線に耐える必要がある。

 朔也は、諦めたようにホッと小さく息を吐いた。


「では、姉さま。つくよ、頼んだよ」


「畏まりました」


「青野もな」


 青野は言葉にせず、正座のままひれ伏した。

 使用人たちのすり足の音が、ゆっくりと遠ざかってゆく。

 千世が手を合わせて呟いた。


「無事に戻られませ」


 空は青く、風は涼やかだ。

 どこかの女御が着物に香を焚きしめているのか、うっすらと甘い香りが漂っている。


「さあさあ、千世さまも頑張ってくださいませ」


「うん」


 馬酔木毒が粥に混ぜられてからというもの、千世の食は細くなるばかりだった。

 食べようと匙を運ぶが、恐怖からか、なかなか口にすることができない。


「ああ、そうだ。今日はヤマボウシの実を甘く煮ておりますよ」


「え? ヤマボウシ?」


「ええ、お好きだったでしょう?」


「ああ、そうじゃな。しかしあれは、藍丸の好物であったろう? 届けられたら良いのじゃがなぁ」


 すっと千世の頬に影が浮かんだ。


「届けてきましょうか?」


 振り向いた三人に笑顔を向けたのは、若い男子を二人従えた春尚だった。


「届けてくださいますの?」


「お安い御用ですよ。それに、今日はもともとお伺いする予定でした」


 その言葉に、千世の眉がぴくっと揺れた。

 座敷の中に吹き込んだ風が、少しだけ肌寒さを運んでくる。

 妙な気まずさが、その風に混ぜられて外へと抜けた。


「結さまに干菓子をと思いましてね。藍丸さまには書物を」


「ああ、そうでしたか」


 千世が大きく息をついた。


「千世さま。お二人は大丈夫です。ただ、寂しがっておられますね」


「寂しがって……そうですか」


 千世が小引き出しから懐紙に包んだものを取り出した。


「春さま、これも一緒に」


 春尚が伸ばした手に、それを乗せる千世。


「これは……栞ですか?」


「ええ、あの桜花で作りました」


 春尚がにっこりと微笑んだ。


「必ずお届けいたしましょう」


 千世が嬉しそうな顔で頷いた。


「その代わりに」


 春尚がつくよの手から盆を受け取る。

 薄味に整えた粥は、まだほんのりと温かった。

 春尚の意図を察した千世が、困った顔をつくよに向けた。

 同じような顔をしたつくよの横で、青野がゆっくりと声を出す。


「この粥の後で、お薬湯を。その後でございますよ、ヤマボウシの甘露煮は」


 淡々としてはいるが、愛がないわけではない。

 それがわかっているからこそ、千世は頷くしかないのだった。


「承知しています」


 千世は春尚から盆を受け取った。

 それを確認した春尚が、独り言のように言う。


「そういえば、藤の間の女御殿が、暇をとられたそうでございますよ」


「藤の間の?」


「ええ、左大臣の遠縁の女です」


「まあ!」


「厨房のものも幾人か代わりました」


「厨房も?」


「ええ。使用人も少しだけ。これで当分は大人しいはずです」


 つくよの鼻の奥で、馬酔木毒の甘い香りが甦る。


「それならば……安心ですね」


 千世は、諦めたように粥を一口掬いあげた。

 遠くで雲雀が囀っている。

 春尚が青野に顔を向けた。


「青野、君も一緒に」


 三人が同時に顔をあげる。


「あちらが少し手薄になっているようでね。手を貸してほしいと文が届いたんだ」


 青野は返事をしない。


「この者たちも連れて行く。お子たちの遊び相手だ」


「それほどまでに?」


「うん、そうみたいだよ」


 青野が千世の顔を見た。

 小さく頷いたのを確認して、今度はつくよの顔を見る。


「こちらはお任せください」


 今度は青野が頷いて見せた。

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