Danger Zone.
1
瞼を開くより先に目が覚めた。普段より明るい瞼の裏側が、仰向けに転がった私の遥か彼方に青空が満ち、新たな一日が訪れたことを知らせている。
左腕は持ち上がらなかった。だけど、それでいい。
目を閉じたまま手探りで左隣へと右手を伸ばす。私の身体の上を跨ぎ、左の二の腕の横へと手のひらを下ろした。
さらさらとほどける髪の質感……親指にひっかけて持ち上げようとしても音もなくこぼれ落ち……幾つかが私の二の腕に被さり、くすぐったさを覚えた。
決心して日差しを迎え入れた瞳は、眩い空の輝きを浴び、反射的に瞼を閉じようとしたが、ここで再び目を閉じれば二度寝は到底避けられないという経験則を得ていた私は、ぐっとその衝動を抑え込んで視界を慣らした。
眼前の風景を覆っていた白さは時間と共に端へと追いやられ、十秒ほどすると完全に払拭されて空を塗る青の全容をありのままとする。
左へと顔を転がし、私の腕を固定しているものを目視で確認した。
そこには天使が眠っていた。
すうすうと微かな寝息を立て、横臥した小さな身体が足並みを合わせるようにして膨らんでは戻る。左頬の上には先の手遊びでこぼれた髪のどれだけかが乱れている。その内の何本かが彼女の鼻と口の間に垂れていて、それをむず痒く感じたのか、ルナシーは私の左腕を一層強く抱きしめながら、ぐっと額を押し付け、また静かな眠りへと戻った。
昨日の出来事が夢ではなかったことをその目で確認し、私は鼻から抜ける大きな安心をひとつ漏らした。
※
人間界からルナシーを拾い上げた後、まず私はメトセラからの叱責に立ち向かうことになった。
メトセラの怒りは烈火のそれであり、どこか真剣さを欠くような平生の話し方からは一変した、彼女の骨戦車から想起される戦神そのものかの如く荒々しい言葉遣いは、激昂と呼んでまさに然るべきものであった。
斜め下から突き上げる上級天使としての威厳も働いたその剣幕に圧倒され、身じろぎひとつとれなくなった私は、ろくな言い訳も弁明も返せないままメトセラの熱が収まるのをただ待ち、彼女が自らの定位置へと戻ってゆく背中を呆然と見送ることしかできなかった。
さて、説教が終わり、突っ立ったままの私に鷹の目が声をかけてきた。彼女は私に、いつかは言おうとしていたという、とある話を始めたのである。
曰く、メトセラもまた、上級天使に昇格する前は、かつての私と同じように飛翔教官として新米天使の指導を行っていたらしい。ところが、ある時からぱたりと指南役から退き、次に皆の前に顔を出した時には、例の骨戦車に座った上級天使の姿だったそうだ。
それだけならば誰も気にも留めない話である。上級天使の外観がもとの姿からは大きくかけ離れることは皆が承知の事実であり、メトセラについてもその一例だとしか思わなかったのであろう。
ただ、それからずっと経ったある時、一人だけ違和感を覚えた天使がいた。それが当時まだ若い鷹の目であった。
何故……メトセラは決して取り回しやすいとは言い切れない車椅子の形状へとわざわざ相成ったのだろうか。
鷹の目は新聞記者の性として、真相のために飛び回った。そうして各所からかき集めてきた断片的な情報をまとめると、彼女はいつの日か次のような結論に至ったとのことだ。
メトセラは……天界から足を踏み外して目の前で落下した天使を追いかけ、自身を下敷きにする形で地面に脚を叩きつけたことで歩くことができなくなったらしい、と。
その話のどこまでが信憑性のある部分なのか私にはすぐに判断できなかった。
だが、記事の正確性には常に自信のある鷹の目自身の足が集めた情報であること……
カミサマがメトセラをわざわざ車椅子状に昇格させた事実の理由に足ること……
助けられた天使が、その時に同じく脚を悪くした昇格前のXOだということ……
鷹の目がこの内容を記事にする直前となって、皆には秘密にしてくれとメトセラから直々に頼まれていたこと……
そのような過去の約束を破ってでも、今となって鷹の目が私に伝えたこと……
それらを総合し、私はこの話を信じるに至ったのである。
メトセラの怒りが監督不行届き――つまりは、私がルナシーから目を離したこと――以上に、衝動のままに人間界へとタンデム目的で飛び降りた無謀に対して向けられていたということを鷹の目から改めて聞かされた私は、年甲斐もなく――まぁ、天使としてはまだ若い部類に属するであろうが――純粋な気持ちで反省した。
私はつい五分ほど前に憤激を収めて立ち去ったばかりのメトセラの後を追い、でき得る限りの誠意と謝意を込めて頭を下げた。彼女は私を見つめてただ一言、「お前は脚を悪くするなよ」とだけ口にして、仕事へと戻っていった。
メトセラは話の内容が事実であるということを具体的な言葉で認めはしなかったが、だからと言って否定するようなこともせず、結局、真偽のほどはメトセラと、カミサマと、今は亡きXOのみが知るところに変わりはない。
ところで、ルナシーがどうして吹き抜けの渦から落ちたのか。
これについては誰が話したことではないが、おおよその見当が私にはあった。
メトセラの説教と過去が一段落し、私は鷹の目へと預けていたルナシーを迎えに行ったわけだが、その時のルナシーの手のひらには、潰れて硬くなり、色も濁った延々の大地のひとかけらが乗せられていたのである。
ルナシーはしょんぼりとした――傍目には殆ど変わりはしないものの、私にはそのように見えた――顔付きでその欠片の方を私の口元へと差し出したので、されるがままにそれを口にした。
お世辞にも良く出来ているとは言えないその団子からは、見た目通りなんとも言い難い味がした。延々の大地特有の甘みは確かに感じられるものの、じゃりじゃりと口内に残る粒状の食感は、砂を含んでいるかのようであった。
そこで、私は勘付いた。
砂の感触が混ざるということは、この塊は天界で作った後に、一度人間界へと持ち込まれたということになる。つまり、ルナシーは延々の大地からこの塊を作った後に、吹き抜けの渦から落ちたということになる。
脳裏にはルナシーと出会った初日のやり取りが鮮明に再現された。
「こうして手でほぐしたのよりも噴煙の丘とか、吹き抜けの渦の縁に自然にできたやつの方がもっとふわふわで美味しいんだけどね」と、語った覚えが。
私はうなだれるルナシーの頭を撫でながら、彼女が私のために上質な一塊を取ってこようとした過程を褒め、それによって導かれた結果を叱り、今度は二人で一緒に集めようと約束した。
私は今度こそルナシーを手放さないように、彼女の手を握り、延々の大地に潜った。
それが、人間界から引き返した後の話である。
※
私が目を覚ましてから暫くが経った頃合いに、遅れてルナシーの目が開いた。未だに眠気の残滓に苦慮している私とは違い、彼女は文字通り覚醒しており、身体の内側へと肩を丸め込むようにして全身の筋をほぐしている。ルナシーに抱きかかえられた私の左腕もその動きに巻き込まれ、マッサージに任せて揉まれているかのような圧迫感と心地好さに包まれた。
凝り固まった全身をほぐしたルナシーは横向きの姿勢をそのままに、背中から彼女の翼をはみ出させ、左の翼をぱたぱたと振るった。
根本が微かに黒く滲んだ羽ペン……
いつの間に使い切ったのか、すっかり内容物を失った目薬の小瓶……
次いで、延々の大地を伸ばしたものとは異なる、正真正銘の紙が一枚、こぼれ落ちた。
ルナシーは他の荷物を再び翼へと戻し、人間界から持ち帰ってきたのであろう二つ折りの画用紙を手に取ると、私の目の前で広げてみせた。
白い紙の真ん中には球体が描かれている。しかしながら、円と呼ぶには些か扁平であり、上端は緩やかに尖り、下端は平たい弧を描いている。さながら起き上がりこぼしのような形状だ。曲線で縁取られたその円錐には、中腹の左右から伸びる一対の線が描かれている。それらの先端は更に複数の線へと分岐し、トウモロコシのひげか、ススキの穂のようにも見える。
それらの歪な円と無数の線が黒色のクレヨンによって紙に引かれているが、ルナシーが衝動と感性だけに頼ってこれらを描いたとは思えず、何かを伝えようとしていることだけは私にも想像できた。かと言って、この図形が何を示そうとしているのか見当がつかず、うんうんと二、三分ほど唸ってみたが、やはり思い当たるところはなかった。
この一か月で……私はやはり変わったらしい。
少し前の私であれば、気にかかる事柄が心の天秤の片方に乗せられたとしても、それを面倒に思う気持ちが分銅の代わりとして反対側の皿に居座ることで、まずは平衡を作り出していたことだろう。そうしてつりあった行動力の天秤だが、興味の事柄の側だけが時間を経るにつれて段々と昇華していき、いずれは怠惰を乗せられた皿がその底を地面につけることが常であった。
しかしながら、ここ最近の私は誰に言われたわけでも、また強いられたわけでもなく、自分とルナシ-のために積極的であった。
XOの急逝と遺言に触れ……
メトセラの過去に触発され……
鷹の目との親交に励まされ……
ルナシーと共に過ごすことを当たり前のように認めた今、その日常に影響を与えるであろう事柄は無視できなかった。
だからこそ、鷹の目や他の新聞記者の真似事をするつもりでもないが、私はルナシーの描いた絵を手掛かりに、これが何を指しているのか、二人で探し求めることを決めたのである。
とは言え、そこは今までの生活態度や関心の差があるらしく、ぶんぶんと忙しなく天界を飛び回ってはずばりと目当ての情報を引き当てる鷹の目のようにはいかなかった。私とルナシーは大したあてもなく工場の周りをぐるりと散策し、時折すれ違った天使に件の絵を見せては、さっぱりわかりませんといった返事を毎度のように受け取ることを繰り返していた。
それでも進展が全くないわけではなかった。
私が聞き込みを初めてから七人目か八人目だったか、その天使はまだ起床していなかったのか、それとも二度寝の最中だったのかはわからないものの、工場の木陰の端の方で延々の大地を捲りあげた毛布に包まれて横になっていた。
この天使に声をかけたことに対した理由はない。午前の七時半だということもあり、素直に寝床から腰を上げている天使の方がまだ少ない時分だったので、活動中の誰それを探して追いかけようにも、動くものがまず絶対的に少なく、近くには殆ど見当たらなかったためである。
寝ているのか起きているのか判然としないその天使も、やはりルナシーの描いた絵からはピンと来るものがなかったようだが、礼を述べて私が立ち去ろうとしたその背中に向けて一言、「ちょっとだけ、マザーに似てるね」と言い残したのである。
マザーとは何か、あるいは誰なのか。どこかで耳にしたような気もしたが、生憎思い出せそうになかった。
詳しく聞こうとした時には、その天使は既に深い眠りに落ちていた。私としても彼女の安眠をこれ以上邪魔したくはなかったため、絵のことは一旦脇に置いて、まずはマザーについて誰かから聞き出そうと思い立った。
その時……実に素晴らしいタイミングで私の親友の影が足元を通過したのである。
「おっと、珍しいね。こんな時間に起きてるなんて」
そう言って鷹の目は空中で急停止した。かなりの速度が出ていたのか、彼女は慣性に引っ張られて私たちの少し後方にて動きを止め、今度は逆に枯葉が落ちるようにゆっくりと降下した。
ルナシーは鷹の目のポニーテールが気に入っているらしく、彼女と会うたびにその一本へとじゃれつく。さながら猫じゃらしに甘える仔猫のようであった。くすぐったそうにする鷹の目に、私は尋ねた。
「丁度良かった、聞きたいことがあるんだけど」
「へぇ、これもまた珍しいね。前までは何があろうとどこ吹く風って感じだったのに」
「少し変わったね、って言い出したのはそっちでしょ」
「まぁね。随分と変わったね、って言い直した方がいいかな」
私たちの会話に反応したのか、すぐ隣の足元で眠っていた先の天使が、うぅんとむずがるような声と共に、ごろんと寝返りをひとつとった。
彼女を起こさないように、私たちはそっとその場から離れて十分な距離を確保し、私はそこで改めて鷹の目に質問を投げかけた。
「マザー、って聞いたことがある?」
「英語だと『母親』だとか、そういう意味だけど、それがどうしたの」
「いや、ルナシーの描いた絵がマザーとやらに似てるって話をさっき聞いたんだよ。似てるってことは、形のあるもののことだと思うんだけど」
私は朝のルナシーがやったように、例の画用紙を広げて鷹の目へと示した。
「……ひょっとして、あのマザーのことを言ってるの?」
「あのとかそのとか付けられても私にはピンと来ないから困ってるんだけど」
「冗談でしょ。まさか、マザーを知らないなんて」
「それは知ってて当然の知識って感じ?」
「知ってなきゃおかしい知識って感じ」
そう言うと鷹の目は信じられないといった様子で私の無知に驚いた。
曰く、マザーとは夜露の大樹に所属する上級天使の一人だとのことだ。
それを聞いた私の感想の第一は、この工場ではない別の大樹に所属する天使のことなんか把握していないほうがどれだけか一般的ではないかというものだったが、そうだとしてもマザーの名くらいは耳にしたことがあって当然だと鷹の目は譲らなかった。
このマザーと呼ばれる上級天使は、そもそも上級天使としての素質を持たずに生まれたらしい。
上級天使にはどのような天使でもなれるというものではなく、カミサマによって生み出されたと同時に、将来そうなるか否か、既に決まっている。ちなみに、私も鷹の目もその素質は有していない。天界に生れ落ち、名付けられたと同時に、その有無ははっきりと自覚できる。
上級天使の素質を有した天使は、いずれ機会が訪れるとカミサマの手によって昇格する。姿形は今後に適したものへと変化し、下の名は取り払われ、他の天使を取りまとめる存在となる。XOやメトセラ、エリオットなどが例として挙げられる。そうなりたいと願う天使もいれば、別段なりたいとは思わない天使もいる。
マザーとやらは、素質を持たずして上級天使へと相成ったとのことだ。そしてその契機は単にカミサマの気紛れからではなく、彼女がそれまでに残した多大な功績によってもたらされたとのことである。
顔も知らず、話したこともないその上級天使について、鷹の目はマザーが達成した偉業を熱心に語ったが、その辺りについて私は大した興味を得られなかった。
重要なことは、なぜルナシーがマザーらしき存在を知っているのか、その一点である。
「夜露の大樹はどのあたりにあるか、知ってる?」
「吹き抜けの渦の向こうだよ。丁度、ここから向かって対岸になるかな」
ここから吹き抜けの渦まで行き、20kmと8mmの直径の向こう側。しかも、それは最短経路の話であり、吹き抜けの渦の内側には突風の柱が貫く以上、安全のためにも外周をなぞった方が無難であろう。そうなるとかなりの距離となる。
先の天使も鷹の目も、この絵がマザーとやらに似ていると認めただけであり、実際にそうであるという保証はない。確証とまでは言わずとも、もう少しくらいは関連性を裏付ける情報が欲しかったが、ルナシー自身の見聞を考慮すると、これ以上の確度の補強は難しいように思えた。
だったら、直接出向いて本人を拝むしかあるまい。
「わかった。今日の予定はこれで決まり」
「夜露の大樹まで行くつもりなの? やめておいた方がいいんじゃないかな」
「どうして」
「前に言ったでしょ。マザーは隠居中なんだから会ってくれないかもしれないよ」
「……そんなこと話してたっけ」
「んもう、やっぱり聞いてなかったんじゃない」
そう言われると、確かにルナシーを鷹の目に紹介した日に、そのようなことを話題として挙げようとしていたような、していないような。
……あぁ、そこで「マザー」という単語を耳にしたのか。今、思い出した。
「その偉大な上級天使サマが、どうしてまた隠居なんてしたの」
「さぁ……? 噂程度の話だから記事にはしてないけど、何かやらかしたんじゃないかな」
「まぁ、その辺りもついでに聞けばわかる話か」
「土産話、期待してるよ」
鷹の目は次の予定があるのか、そこでふわりと高度を上げた。彼女のポニーテールの代わりに私が片手を差し出すと、ルナシーは少し名残惜しそうな様子を見せながらも私と手を繋ぎ、これからの予定に意気込んだように見えた。
手を振りながら工場の幹の方角へ飛び去る鷹の目を見送り、私とルナシーは随分と離れた「別の工場」への旅に赴いた。
2
鷹の目から聞いた話によると、円周というものはその円の直径に円周率と、中心角の割合をかけ合わせることで導き出すことができるらしい。
今回の旅路の場合、目的地は対岸であるから、右回りでも左回りでも中心角は180度で変わらないのだから、直径に対して360度の内の180度が占める割合、即ち、二分の一をかければいい。つまり、結局のところ半径ということになる。ここまでは私にも理解できた。
だが、そこに円周率とやらを更にかけ合わせなければならないと聞いて、私は混乱した。
確かに……半円の弧を糸か何かに置き換えたとして……それをピンと一直線状に伸ばせば……長さは半径よりも、直径よりも大きくなる……それは間違いないだろう。だから、円周率は2よりかは大きな正の値であることもわかる。
しかし、何故3を少し上回る数なのであろうか……
これがどのような公式とやらに出現する円周率であっても共通で使えるのは何故か……
この値が綺麗な数にまとまることなく、延々の大地のように果てなくその桁数を伸ばしていくのはどうした理屈か……私の小さな脳みそはそれ以上の理解を拒んだ。
鷹の目には人間界の観察のついでに学んだという数学の知識が身についており、この円周率と呼ばれる奇妙奇天烈摩訶不思議な定数についても詳細を説明してくれたが、私は手ごたえのないままに納得を放棄した。
要は、円の対岸までなぞって行くには半径の三倍程度の距離が必要になる、それだけわかれば実用の面からして満足であった。
私とルナシーは二時間と少しを費やして、先日の失踪事件現場でもある吹き抜けの渦の縁までたどり着き、そこから「半径の三倍程度の長さ」だと推測される距離をまた飛んだ。
さすがにこの距離は私にもこたえた。ルナシーにとっては尚更のことであり、もう翼の羽ばたきひとつも厳しいという状況に陥らぬよう、適宜休憩を挟みながら、せっせと超長距離飛翔に励んだ結果、とりあえずの目的地にたどり着いたのは正午を遥か以前に通り越して、空に赤みがかかり始めるよりかはまだもう少しばかり早いかといった、そのような頃合いであった。
夜露の大樹……鷹の目はこの工場の正式名称をそう呼んでいた。
外観は私たちが所属する工場である霧雨の大樹とさほど変わらない。端から端までの間にどれだけの数の天使が横になれるかもわからない距離を有する幅広の木陰に、それらを作り出す膨大な枝と葉を支える強靭な幹がそびえ立ち、延々の大地に深々と根付いている。
正午を境とした前後は、真上から注ぐ日の光を避けるために多くの天使が工場の木陰へと集まる。この夜露の大樹も例外ではないらしく、私とルナシーが訪れた時点では日は頂点から大きく外れていたものの、一度移動した後に再び場所を変えることを面倒に感じたのであろう、この工場に所属する大勢の天使たちが適当なところでごろごろと寝そべっては、各々が雑談や昼寝に興じていた。
せっかくの超長距離遠征ではあるが、眼前に広がるは私たちの工場とさして代わり映えのない光景ばかりであり、その退屈な変化が疲労に追い打ちをかけたのか、ルナシーは木陰の端にぺたりと座り込んでしまった。
それも無理はない。実際、私も朝一番にあったはずのやる気のどれだけかが削がれてしまっている。加えて、背中の両翼もいい加減に休ませろと文句を告げるようにして、せめてもの反発として痙攣のような微振動を肩甲骨下部あたりに押し付けていた。
……少し、休憩ついでに聞き込みでもしようか。
吹き抜けの渦からは多少離れてはいるものの、それでも他の大樹と比べれば近い立地であるためか、時折吹き抜ける微風の数は、私たちの工場よりかは頻度が多いように感じられる。
その風を浴びて涼んでいるルナシーを視界の片隅に置きながら、この辺りの事情について詳しい天使でもいないか探すためにぐるりと周囲を見渡した。顔見知りがいるとは思えないため、この行為に本質的な意味はなかったが、それでも何かしらのきっかけくらいは掴めるのではないかと期待した。それは、木の棒を放り投げてこの後の行き先を任せるような、子どもの衝動と似ていた。
そのようにして決めた手近な天使の一人に声をかけると、彼女もまた麗らかな天候に眠気を誘われた一人だったのか、大きな欠伸といい加減な相槌を返しながら、私の質問をとりあえずは聞いたらしい。彼女はこくりこくりと舟を漕ぎながら、吹き抜けの渦の方角を指さすと、その先でマザーは定期的に講義を行っているという旨を、寝ぼけ半分の様子で答えた。
幾らか元気を取り戻したルナシーが私の隣に駆け寄ってきたので、私たちは彼女の案内通り、吹き抜けの渦の縁を背にした講堂へと向かうことにした。
さて、夜露の大樹から少しばかり歩いた先に「講堂」が見えたが、大穴を背後としているにもかかわらず足元は平坦で見晴らしはよく、それでいて煩わしいまでに風が吹き付けるようなこともなく、確かに上級天使が講義を繰り広げるにはうってつけの場所のようではあった。
とはいえ、指定された一角にはただの一人も天使の姿が見当たらず、講義の際にはどれだけか賑やかであろう雰囲気もやはり感じられず、しんと静まり返っていた。
そこで、小さな山なりに気が付いた。延々の大地に自然と浮かび上がった起伏ではなく、もっと人工的な一か所が、講義室でいうところの教壇にあたる部分に、ぽこりと浅く飛び出している。
よく見るとその膨らみの一端からは、延々の大地とほとんど同じ色合いの髪の毛がはみ出しており、注視しなければ分からないほど微かに上下している。周囲の起伏と色に完全に同化しているものの、どうやらそこには随分と小柄な天使が一人埋まっているらしい。
私はその天使に声をかけた。眠っている彼女への声掛けは気が引けたが、他に誰も居そうにないのだから仕方ない。
「……んっ……んん~……」
うつ伏せだった天使は丁度眠りの浅いところに入っていたのか、私の声掛けに反応して面を少しだけこちらに向けたが、やはり眠気が勝っているのか、両目ともぴったりと閉じたままである。
「お休み中のところごめんね。尋ねたいことがあるんだけど、いいかな」
「ぅうん……手短にねぇ~……」
「この辺りでマザーって呼ばれている上級天使を探しているんだけど、何か知らない?」
「と、いうと……あなたはこの辺りの天使じゃあ……ないってこと……?」
「そう。ずっと遠くの大樹から来たから、こっちの事情があんまり分かってなくて」
「……へぇ~……物好きな天使も……いたものだねぇ~……」
彼女は目を閉じたまま欠伸をしたかと思うと、ごそごそと身をよじり、身体の下に敷いていたであろう一枚の紙切れ――これはルナシーの持っていた人間界産の紙とは異なり、延々の大地を薄く伸ばしたものだ――を取り出した。
ソルエルによる毎週火曜と金曜の講義は当面の間中止されます……
再開時期は未定です……
用事がある場合は、夜露の大樹から北西にある最寄りの釣鐘の洞窟までどうぞ……
桃色頭の天使が、何も知らずにこの場所を訪れる客に対する毎度の説明を面倒に思って自作したであろう、その紙にはかのような内容が刻まれていた。
ソルエルとは誰のことかと目の前の天使に聞くと、マザーの本名だと答えた。
状況がなんとなく読めてきた。
おそらく、ソルエル――多くの天使たちからはマザーと呼ばれているらしい――という上級天使は、鷹の目がどこからか聞きつけた噂の通り、本当に何かをやらかしたらしい。
釣鐘の洞窟とは、人間界から吹き上げる突風によって延々の大地が一方向へと圧縮されて生成された地形の事だ。人間界からの塵や埃を巻き込みながら練り固められたその洞窟は、まさに釣鐘に使われる金属のように、堅牢かつ冷ややかな感触となっている。
そのような釣鐘の洞窟は専ら天使の謹慎処分の際に用いられる。その最たる例が、人間に寿命を教えることだ。これは天界における禁忌に触れる行為であり、如何なる理由があったとしても許されない。
しかし、天使たちと彼女たちの仕事の管理が主たる業務である上級天使が人間界へと出張することはまずない。従って、上級天使が人間にその寿命を教えるという大罪を犯すこともないと言える。
とは言え、上級天使が釣鐘の洞窟へと向かったということは、かなりの大事であると予想できる。勿論、謹慎に相当するほどの重度の違反は他にもあるだろうが、今すぐに想像できるどれもが敢えて上級天使を収容しなければならないほどの大罪だとは思えなかった。
だからこそ、一体どのような内容だったのか……純粋に興味が湧いた。
私が状況の整理に勤しんでいる間、ルナシーの興味は案内役の天使に向けられていたらしい。寝癖でくしゃくしゃと跳ねた薄桃色の髪をわさわさと弄っては、それらを好き勝手に押したり引いたりして独特なヘアアレンジを施している。
案内役の天使はルナシーの強襲に耐えるべく毛布を頭の先まで被って避難したが、今度はルナシーがその上から覆い被さるように乗り上げたため、「きゅっ」という小さな悲鳴が毛布の下から溢れた。
マザーの、ソルエルの居場所が判明した今、後は当人に直接聞けば済む段階にあった。それに、ソルエルの使いとしてここを任されている彼女の安寧をこれ以上乱すわけにもいかない。
私はまだ物足りなさ気なルナシーを連れて、ソルエルの待つ釣鐘の洞窟へと進路を向けた。
3
釣鐘の洞窟もまた、霧雨の大樹の最寄りにあるものとさして見た目は変わらなかった。
灰色にくすんだかまくらとでも言い表せばよいのか、そのような三角錐状の監獄がこの一帯には散見される。もっとも、それぞれの出入口は開け放たれており、扉もなければ見張りの一人もいない。金属光沢だけが無言で広がるこの一帯をわざわざ訪れる酔狂はそうそういないことだろう。
私はルナシーの手を取って歩みを進めていた。足元は徐々に硬くなり、延々の大地がたたえる温もりはひやりとした冷感へと置き換わっていく。ぺたぺたと、天界ではまず聞くことのない足音というものを立てながら、林立する洞窟をひとつ、またひとつとのぞいてまわった。
そして、五つ目の洞窟をのぞき込み、そこで遂に私は目当ての天使と対面した。
その洞窟の奥には卵型の球体が鎮座していた。私よりも一回り以上大きな全体の表面は艶やかな質感に覆われており、釣鐘の洞窟の内壁をそっくりそのまま反射している。身体の中心にあたる一点は内側から白く発光しているようだが、その灯はぼうっと淡く、弱った心臓の拍動のように、儚げな明滅を繰り返している。さながら、薄暗い室内の片隅に置かれた、接続不良を起こしたランプシェードのようだ。
卵型の側面からは木の枝のように細長い棒が飛び出し、その先端には関節を挟むようにして更にもう一本の枝が伸びている。前腕の先からは糸のような指が無数に枝分かれしているが、どれもが枯れ果てた白髪のように光沢を失い、項垂れている。
そうして足元へと垂れた指先は、どうやらただ重力に任せて下を向いているわけではないらしい。彼女の身体と指との間には、白濁したガラス片のような何かが小さな山の形に積まれており、それを抱きかかえているかのような体勢であった。しかしながら、彼女が怖ろしいまでに身じろぎひとつとらないものだから、まるで、そこまで含めた形状にデザインされた精巧な置物のようにも、私には見えた。
そのような様子であるから、一目見た限りでは彼女が上級天使だということも、もっと言うならば、そもそも天使であるかどうかさえも疑わしかった。
中身の抜け落ちた抜け殻か……電源を落とした機械か……物体と称した方がまだ近いように思えたのである。
「……………………!」
完全な無音空間である洞窟内へと躊躇なく飛び込む影があった。
ルナシーは洞窟の奥で機能を停止しているその上級天使へと歩み寄ると、やはり声は出せないものの、身振り手振りを交えながらその周囲をうろつき、何かしらの反応を期待しているようであった。
やがて、明滅は少し強くなった。先ほどまでは入り口から得られた僅かな日の光だけが床に反射して釣鐘の洞窟内を微かに照らしていたが、彼女自らの発光がその明るさを増強し、屋内は全体的に鮮明に映った。
「あなたが、ソルエルですか?」
「……いかにも、その通りです」
澄んだ声が内壁に反射しながら広がる。これほどまでに純粋で綺麗な声を、私は聞いたことがなかった。だからこそ、彼女の気の落ちようというものが、初対面である私にもひしひしと伝わった。
「ご足労おかけして申し訳ありません。何か、仕事に関する御用でしょうか」
「いや、その、そういう話ではないんです」
「と、言いますと」
「実は、聞きたいことがあって……」
そこまで私が話したところで、遂に衝動を抑えきれなくなったのか、ルナシーは突然ソルエルの側面へと抱きついた。そこで彼女は私以外の来客に気付いたらしい。
ソルエルは少しばかり驚いたようだが、そこは上級天使であるが故か、すぐに順応し、糸のような指の何本かをそっと伸ばしてルナシーの頭を撫でた。さわさわとした感触がくすぐったかったのか、ルナシーはもぞもぞと位置を変えつつも、それでも身体は離さんとばかりに、更に身を寄せた。
私がルナシーの様子から顔を上げると、ソルエルの驚愕は――もっとも、彼女には顔も表情もないため雰囲気だけの印象ではあるが――先とは別種のものとなっているように見えた。
彼女の指先はルナシーの頭を撫でる手つきから翼を確かめる動きへと移り、瞼を持ち上げて瞳を観察し……喉元を触診したり……つまるところ、目的を有した行動へと遷移した。
「失礼ですが、あなたの所属はどちらですか。夜露の大樹ではなさそうですが」
「霧雨の大樹です。吹き抜けの渦を挟んだ向こう側なんですけど」
「この子とは、どこで出会ったのですか」
「えっと、一か月ほど前です」
「正確な日付は覚えていますか」
「九月の……二十四日の朝には私の寝床に潜り込んでいました」
私がそこまで答えるとソルエルはぴたりと動きを止めた。情報の処理に追いつかずにフリーズしたコンピュータのように。
「この子は、眼が機能していないのではありませんか」
「はい。視力強度も、透視強度も、とても実用には届いていません」
「話すことも、できないのでは」
「……その通りです」
私の頭には疑問が浮上した。
何故、こちらの事情を知っているのだろうか。
「それに、空も飛べないのでは」
「いえ、飛翔はできます。現に、霧雨の大樹からここまで私と一緒に飛んできました」
「あなたがタンデムした、ということですか」
「いえ、ルナシーは単独で空を飛べます」
「そんなことが……いえ、そう、ですか……」
ソルエルはまたも固まり、動きを止めた。
……もういいだろう。
……次は私が質問する番だ。
「まるで、答えが予想できているかのような尋ねかたでしたけど、その理由を聞かせてはもらえませんか」
ソルエルはやはり沈黙を続けていたが、暫くしてようやく落ち着いたのか、彼女は過去の話をぽつりぽつりと語り始めた。
それは、説明ではなく、懺悔であった。




