光り輝く、あの日のことを。
1
夕焼けが去り、黄昏の中に町が浸っていた。黒と青と赤が滑らかに繋がる水平線がこの後の夜を予感させる。乾いた砂浜は風に吹かれ、空気の温度よりかはどれだけかひやりと冷たい。
ざんざんと波が押し寄せては引く様子を海岸に座って眺めていた。膝の上にルナシーを乗せて、そのルナシーはミィを乗せて。
まさか、こんなところでミィに出会うなんて思ってもいなかった。人の顔と名前を覚えることが得意な私でも、さすがに猫のそれぞれを正確に区別できる自信はない。それでも、傾く陽を浴びながら小走りに近寄る銀と黒の影を見間違えるつもりもなかった。
ミィが常日頃からこんなに遠くにまで散歩に来ているというのなら感心のひとつもするけれど、時間も深いところに入りかけなのだから、仮にここで私たちと出逢わずにいたならば無事に帰ることができたのかどうかの方が心配になってしまう。
……いや、心配することはこれだけじゃなくて、まだ沢山残っている。
昼頃、ミィと一旦別れた後、私とルナシーは交番へと戻らず、隣町へと電車で移動した。
隣町と言ってもカラオケだったり大型デパートだったりが立ち並ぶ栄えた方向ではなく、その逆側。海岸沿いを伝って一駅移動した先の、私の家が建つ町よりほんの少しだけ賑やかな程度の静かな隣町だ。
僅かばかり活気があるが大差はない。中学生の目からすればこれといった施設も見所もないと総括して、それで終わりくらいの。
ただ、それでも整備された海岸は立派なものだ。毎日、こじんまりとしたコの字型の海辺ばかり見ている身からすれば、横幅も縦幅も比較にならないほど広いこの海岸沿いからは圧倒的な解放感を感じ取ることができる。
昔はおじぃと一緒にここによく水浴びをしに足を運んだものだけど、海に入るとなると髪の毛がパサパサになるし、砂だらけになるし、着替えやらなんやらも最低限は持って歩かないといけない。潮風に当たりたいのであれば、例のコの字型のミニチュアで十分に事足りるとあれば、ここをわざわざ訪れる機会は減る一方だった。
それでもここに足を運んだのは、ルナシーが頑なに主張する幾つかの手がかりを総合した結果だった。
ルナシーが描いて見せてくれた、楕円の両側からギザギザの波線が伸びたような謎の図形。誰かの似顔絵にしてはアバンギャルドが過ぎるあれは、おそらくモニュメントや記念像の類の何かだろうと考えた。
そんな中でこの海岸に整備された堤防の存在をふと思い出すに至ったのである。
この堤防が完成した際に安全を願った石造りの記念像がひとつ寄贈されている。中央が複雑にくり抜かれた楕円状の彫刻だ。この像に日の光が差し込むと、午前中は太陽を象った影が、午後は三日月を象った影が地面へと伸びるように工夫されている。日が昇って沈むまでの一日中、海岸を見守ってくれるという、そういう思いが込められているとのことだ。タイトルは「太陽と月」らしい。考え抜かれたデザインの割にはあまりに直球なネーミングだとは思うが、偉い人のセンスというのは往々にしてそういうものなのだろう。
その辺りの経緯はどうあれ、私はルナシーの描いた絵がこの記念像にどことなく似ているということに気が付いた。一人になる前にこの像を見ていたのか、それともこの像のそばで人とはぐれたのか。
それに、SHELLという単語も後押しした。これもルナシーの印象に残った何かを示しているに違いない。おそらく、SHELLというのは二枚貝のことだろう。時期さえ合えばこの海岸で小規模ながらも潮干狩りができる。
となれば、それらの条件に迎合したこの海岸が有力な候補に挙がるだろうと考えて、はたして何年かぶりにこの砂浜に足を踏み入れることになったわけだ。
だが、私の名推理がものの見事に外れを掴んだという哀しい現実は、正午を少し過ぎた頃合にはもう既に露呈してしまった。案の定、この記念像のそばに来たところで事態が好転することもなく、しばらく海岸沿いを行ったり来たりして手がかりでもないか探していたが成果は何も得られなかった。
次に、今度はこの町の幼稚園や保育園を片っ端から訪問して、ルナシーという名前に覚えがあるかという旨を聞いて回ったが、これもまた見事なまでに全て空振りに終わった。
今度こそお手上げだと認めてオっさんの待つ交番へと引き返そうと駅まで戻ったが、そこでもまた面倒なことが起きた。いや、起きていた。
上り線の方面で電車の事故があったらしい。それもかなり大きな脱線事故で怪我人も出ているとのことだ。原因はまだ明らかになっていないけれど、上下線ともにしばらくの間運行が取り止めとなっていた。
打つ手も帰る足も失って呆然となった私は、ルナシーと共にとりあえずこの海岸へと戻ってきた。そうして当面の間うろうろとその場を徘徊したりしていたが、その内に虚しさに気付いてそれすらもやめた。
そうこうしていると見慣れた猫が一匹、どこからかふらっとやってきて私に体当たりを仕掛けてきて、寂しい海岸に三つの影のマトリョーシカが完成したという、そういう流れだ。
「――……それじゃあ、シェルっていう人にお世話になってるんだ」
「……………………」
「で、別にお母さんもいるわけかぁ」
「……………………」
「いいねぇ。私はおじぃだけだよ。ひょっとして早死にの家系なのかもね」
「…………」
「まぁ、寂しくはないけどさ。ウメおばあちゃんも、オっさんも、学校も……あるし」
「…………」
「……ごめんね。私じゃ送り届けてあげられなかったよ」
目の前の後頭部に顔をうずめて、そう呟いた。
私の投げたコインは全て裏を向いた。少しでも早く送り届けようだなんだの意気込んでおいて、振り返ってみれば私がいなくても問題はなかった。いや、力になれないだけでなく、これでは無意味に連れ回しただけだ。
おじぃにはちょっと出かけてくるとしか伝えていないのに、帰りが遅くなってしまった。
オっさんは私がルナシーを連れて戻ってくるのを待ち続けているだろう。
ウメおばあちゃんはいつもより広いベンチを前にどう思うだろうか。
面倒事に巻き込まれたんじゃあなくて、私が巻き込んだことに、ようやく気が付いた。
結局、私が的外れな策を弄した結果は、皆のためになる選択とはかけ離れていたんだ。
唯一の幸運は、下手な推理ごっこに付き合わせて、上り方面の電車に乗らなかったことだけだった。もしもこれで逆方面に乗り込んでいて、そのまま事故に巻き込まれていたら……それでルナシーが怪我でもしていたら……悔いても悔やみきれなかっただろう。
最悪の分帰点を振り返ると、潮よりもなお冷たい悪寒が背筋をなぞって震わせた。失敗の底から、更に下へと落ちる階段を踏み外さなかった現実を確たるもので留めようと、ルナシーの腰に回していた腕にぐっと力を込めてその身体を引き寄せた。
その腕に小さな手のひらが重なって握った。真夏に吹く涼風の冷たさと、真冬に降り注ぐ日光の温かさの両方がやってきたかのような、そんな心地よさが私を慰めた。
「……もう、代理の電車も動き出してるかな。戻ろっか」
ルナシーはただ首を横に二度振って、水平線を望んで静かなままだった。
どうして、安全で確実なところを頼ろうとしないのだろう。
それでいて、裏目を引いてばかりの私のそばから離れない。
だけど、私に出来ることは、何も……
ルナシーの髪にもう一度顔をうずめて、波に耳を傾けた。
目の前が煌めいた気がした。
少し顔を持ち上げると、ルナシーの髪がきらきらと輝きを放っている。
いや、それだけじゃない。腰かけている砂浜の粒も、押しては戻る波の泡も、夕陽の光を眩く散らせていた。
見渡せば、付近は薄暮とは思えないほど明るくなっていて、私たちの周りだけが白昼の中に浮いているかのようだった。
ルナシーの膝から飛び降りたミィが私の背中の陰に隠れた。それに合わせてルナシーも立ち上がって、正面の海際へと一歩近付いた。
光の球体が……空から降りていた。
両の腕を広げたよりもなお大きな直径を持つ、白い光を放つ球体。
まるで、太陽が目の前まで来たかのような。あまりに現実離れした光景をそうとしか形容できなくて、半開きになった口を閉じられないまま、逆光で縁取られたルナシーの背中を、ただ視界の真ん中に置いておくことしかできなかった。
波に混ざりながら微かに届く衣擦れの音に、機能しているようでしていなかった焦点を合わせると、ルナシーは慣れない手つきでせっせと服を脱いでいた。その上下が砂浜にぱさりと横たわると、ちょうど二十四時間前の光景が目の前に再現された。
ガラスのように透き通った印象を受ける、私の住んでいる世界とはどこか異質で、思わず呼吸を取りこぼしてしまうような存在。
逆光ではっきりとは分からないが、ルナシーの背中からは一対の何かが小さく広がって影を伸ばしていた。
その姿は、まるで、本当の……
正面の白い光がもうひとつ強くなった。
眩しくてじっと見つめてはいられないが、球体は互い違いに組み合わさった細長い面の集合で作られているように見えた。丁度、両手の指を組んでお祈りをしている時のような形だ。その正面の結びつきが解けて二枚貝の殻のように左右に広がる。大切なものを受け入れるときの手のひらのように。
二つの考え方ができた。
私のお迎えが来たのか、ルナシーのお迎えがきたのか。
直感で後者のような気がした。
それも、婉曲表現としてではなく、文字通り本当の意味合いでのお迎えのような。
……あぁ、そうか。今、分かった。
保護されることを拒んでいたんじゃなくて、もう既に保護されていたのか。
迎えの者が拾い上げやすい環境に身を置いていたかったんだ。
だから、大人でも交番でも施設でもなく、私を選んだんだ。
振り返ったルナシーは私の後ろから顔だけを出していたミィの頭を撫でて、次に私の頭も撫でた。何か言おうと唇を結んだり開いたりしていたが、やはり声が出せないのか、きゅっと結んでその場に屈んだ。
そうして、腰を抜かして座り込んだままの私をぎゅっと抱きしめてから、再び背を向けて光の中へと抱かれていく。
「ねぇ、ルナシー! その……えっと……」
「……………………」
「……っ、また! 会える、かな?」
最初に会った時と同じで、ルナシーはやはり一言も話さなかった。
だけど、その口元はほんの少しだけ上向きの弧を描いていて。
それを見届けると同時に貝殻は閉じて球体へと戻った。
光は次第に眩さを増して直視できなくなった。
海岸は真昼を通り越した。景色は白飛びし、砂浜と海水の境界線も同化して判別がつかなくなった。その白一色の景色に薄暗がりだったはずの空も溶け込み、目の前が何も見えなくなる。
強烈な光刺激の衝撃で、私は気を失った。
――……どれだけか経ったのだろうか。
頬を撫でるざらざらした感覚で目を覚ました。
薄暮に染まる砂浜に、静かな波の音。
空に赤がまだ僅かに残っていて、ほんの一瞬しか刻が過ぎていないことが理解できた。
開いた瞼の視界を占領していたミィを抱きかかえながら、ゆっくりと上半身を起こす。
ミィの唾液でしっとりとした左頬と砂粒の付いた右頬はそのままに、腕の中でもぞもぞと姿勢を整える地域猫と共に、辺りをもう一度見渡した。
なんの変哲もない、ただの日常が広がるばかりだった。
2
「――……結局、原因はなんだったわけ?」
「朝のニュースで、レールの老朽化だって言ってたよ」
「怖っ。一昨日にしといてよかったね」
「そうそう。しばらくは遠出を控えた方がいいかも」
「えぇぇ、退屈じゃない?」
「大人しく受験勉強しろ~って、野田センが朝会で言い出しそう」
「ここら辺の高校なんてどれも大同小異だっていうのにね」
「あっ、それ前の小テストで出たやつじゃん。インテリ~……――」
いつも賑やかなクラスだけど、今朝は普段の五割増しくらいに感じる。
主に昨日の脱線事故の話だ。巻き込まれなくてよかったといった話もあれば、これでこの片田舎は陸の孤島だなんていう地元への強烈な自虐なんかも聞こえた。
まぁ、さすがに後者は誇張が過ぎるところはある。電車は上下線ともに当日中に復旧したし、私もその電車に乗って自宅に帰ったわけなのだから。
……うん。たしか、そうだったはずだ。
昨日の夕暮れには、妙な頭痛を抱えながら隣町の海岸で目が覚めた。
隣には、これまた妙なことにミィもいて、私の頬を舐めて起こしてくれたらしい。目の前には私の服と靴の一式が置かれていた。それも、最近のものではなくて、私が幼稚園だったかそこらの頃に着ていたものであった。
ぐわんぐわんと歪んでは鳴る頭をどうにか抑えながら、その服にミィを包んで最寄りの駅まで向かい、復旧したばかりだという電車に乗って引き返した。
ミィを駄菓子屋に送り届けて帰宅すると、オっさんが探していたという話をおじぃから聞いて、「あの子はどうなったんだ」という伝言を頼まれたことを知った。
その一言を聞いてパッ!……と記憶がフラッシュバックでもすればよかったものの、暗い部屋で映画を見続けたかのような頭痛の方が上回っていたこともあって、肝心なことが霧の中に埋もれてどうしても掘り起こせなかった。
そう。肝心なことが思い出せなかった。
黒と銀の長い髪。透き通った肌。静かな瞳。
そういう誰かと出会ったということだけは、確かに覚えている。
だけど、いつ出会って、いつ別れたのか、彼女が何者だったのか、それが思い出せない。
伝言にあった「ルナシー」という名に記憶の欠片が結びつかなかったことを、その日の内にオっさんへと連絡した。オっさんは大層訝しがったけれど、私が本当に要所を覚えていないと判断したのか、何か思い出したらすぐに教えるようにと言って電話を切った。
そうして私はところどころが抜け落ちた創立記念日を過ごして、代り映えのないいつもの学校に、いつものように通学して自分の席に座り、朝会が始まるまで昨日のことをぼうっと回想していたわけだ。
「――……ねぇ、あなたも大丈夫だった?」
後ろの席からの声掛けが私宛だということに気が付くまで、一瞬要した。
「んっ? なんの話?」
「ほら、昨日の事故のこと」
「あぁ、うん。へーきへーき。でも、どうして?」
「創立記念日は映画にでも行こうかなぁとか言ってたし、もしかしたらって」
ゆかりんは八の字に傾いた眉毛で心配そうな表情を見せた。そういえば少し前にそんな独り言を口にしていた……かもしれない。本人ですら話したかどうかあやふやな一話題をよく覚えていられるものだ。クラスで一番気遣いのできる女子、という彼女の肩書は名ばかりのものじゃあない。
「昨日は行かなかったんだよ。反対の町には行ったけどね」
「あっちにわざわざ行くなんて、変わった用事だね」
「そう。変わった用事、だったと思うんだけどなぁ」
「えっ? それってどういう……」
「よう。今、ちょっといいか」
また別の声掛けが割り込んできた。
誰だかは容易に予想がついた。人が話し終えるまで待つという選択はないらしい。
専ら体育服姿しか見ないものだから少し新鮮な、制服姿のヨッシーが私の机の横に立っていた。一時限目の始業前という特別密度の高い他所の教室ともあってか、いつもより若干控えめな声の張りようだ。
少し待ってもらうようにゆかりんに手を合わせて、今度はヨッシーの方に身体を向ける。
「来週もまたバスケをやるんだけどさ、それに参加できないか」
「よくやるねぇ。でも、わざわざこのタイミングで誘いにきたの?」
「前回解散するときに伝え忘れてたんだよ」
ヨッシーが言うには、最近は集まりが悪いから早めに呼びかけているらしい。
まぁ、そうだろうな。受験勉強に特別精を出している子は当然のこと、そうでない子でもわざわざ身体を動かしてストレス発散に勤しもうなんて考えたりするのは、前々から興味でもない限りそうはないと思う。何かきっかけでもあればともかく。
さて……どうしようか。
私は勉学に全てをかけるタイプではないし、身体を動かすことも好きだから断る理由はない。
二つ返事で了承してさっさと話を切り上げてもいいけれど……
私の取れる選択肢は二つあって、いつもはこのまま決定ボタンを押している。
でも今は、十字キーにも指がかかっている。
いや、やめておいた方が無難じゃないかな。
登校するまでは憂鬱だったけど、クラスの居心地は前と変わってなかったし。
ここで余計な冒険心を発揮しなくても、ね。
でも……おじぃがいつも言ってるじゃあないか、「先が予想できない方を選べ」って。
現にそのおかげで私は不思議な体験をひとつ手に入れたじゃないか。
天使と手をつないだという、思い出を。
「うん。それじゃあ次も参加しようかな」
「わかった、サンキューな。それじゃあ俺はこれで……」
「ちょっと待った。メンツは沢山いた方がいいんだよね?」
「そりゃあ、まぁ、それに越したことはないが」
そうか、それは結構だ。
椅子ごと身体を振り向けて、待たせていた相手の顔を真正面に捉えた。
そのまた後ろの席にも、その隣の席にも、その隣にも、視線が通るように。
「ねぇ、ゆかりんも一緒にやろうよ、放課後バスケ!」
「へっ? 私も……?」
「そう! 一回やってみると面白さに気付くよ、きっと! るぅ子もさ、来なよ!」
「えぇっ、なんで!? ってか体育の授業でちょっとしかやったことないんだけど」
「関係ないよ、楽しんだもん勝ちなんだから! さぁやも、エリーも、ミミリンも!」
「どうしたの、急に張り切っちゃってさ……」
「そうだよねぇ。突然すぎてビビるよ、マジで」
「でも、ウチはいっぺんやってみたいかも。授業だと何をどこでやってもほら、不完全燃焼感あるし」
「ん、まぁ……たまにはそういうのも、いいかもね」
「うわぁ、部活でもないのに放課後にスポーツするなんていつぶりだろ~」
「決まりだね! よし、他にもやりたい人はいない? 遠慮しないでさ……――」




