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22、悪魔の笑み、聖母の微笑み

 薄暗い路地を所狭しと木の根や枝が縦横無尽に伸びている。それらに躓かないように、慎重に、しかし、止まらずに素早く一巴は駆けていく。

 朝光と別れて逃げてから、既に十分は過ぎた。時折ちらちらと背後を確認するが誰も追いかけてくる様子はない。

 マリアは朝光の方を追ったのだろうか。彼女の狙いはハナから朝光だったようなのでその可能性は高いだろう。一巴は走り続けた脚をようやく止めた。

 相手が追ってこないのであれば、朝光に加勢に行った方がいいかもしれない。あっちには負傷した伊三もいるのだ、いくら朝光が強いとは言っても伊三を庇いながらでは厳しいだろう。

 一巴が踵を返して来た道を戻ろうとした時、足音が聞こえてきた。とっさに一巴は打ち捨てられたごみバケツの中へと隠れる。長い間雨風に晒されていたためか、悪臭などはしないことが幸運だった。

 暗く空間の中、一巴は息を潜めて耳を澄ます。足音は徐々にこちらへと近づいてくる。カツカツという音が大きくなるにつれ、心臓がバクバクと煩い。

 どうか裏路地に入らずにまっすぐ表通りを進むよう懸命に心の中で祈る。しかしその祈りも虚しく足音は、裏路地へと入って来た。

 ドキリと心臓が跳ねる。今の一巴にはあの足音が悪魔が徐々に迫ってきているように感じられた。

 裏路地へと入って来た足音は、ゆっくりと一巴に近づいてくる。息を止めてじっと通り過ぎるのを待つ。

 一定の速度を保って歩いていた足音がふいに止まった。それは一巴が隠れているバケツの真ん前だった。

 まさかバレたのだろうか。いや相手は心が読めるのだ、バレないわけがない。このまま外から銃を撃たれ、某樽に入った海賊のゲームのように手も足も出ないまま殺されてしまうのではないかと、嫌な想像が頭をよぎる。

 しかし今目の前にいる相手がマリアだとは限らない。偶然通りががった別人だという可能性だって捨てきれない。むしろそうであってくれと一巴は強く思った。

 うるさい心臓の音を相手にも聞こえているのではないかと不安になる。心臓が口からまろび出そうだ。

 何事もないまま止まっていた足音がまた、聞こえてきた。再び歩きだしたのだ。足音の主はマリアではなかったのだ。マリアならば、心の声で一巴の居場所などすぐに特定できたことだろう。

 詰めていた息をホッと吐き出す。ほんの数秒だったが一巴にとても長い時間に感じられた。

 もう立ち去ったと安心した一巴は、ゴミバケツの蓋からチラリと顔を出した。足音がまた聞こえなくなっていたことにも気が付かずに。


「残念、私なのよ」

「うわ――!!」


 一巴の視界に広がったマリアに驚き、腹の底から叫び声をあげる。


「隠れてても心の声は丸聞こえよ」


 にこりとマリアは笑う。彼女が魔女で、ここが東京の路地裏で、今命の危険が迫っているという状況でなければ、彼女の微笑みは聖母マリアの様に映っていたのかもしれない。

 しかし一巴にとって彼女はただの死神だった。視界の端で鈍く光るものがあった。ハンドガンだ。これで頭を打ちぬかれるのだと思うと、恐ろしくなり、きつく目を閉じる。訪れるだろう死の痛みを想像し、震える。

 しかしいくら待っても何も起こらない。銃口を押し付けられる感触も、鈍い銃声も何もない。

 不審に思った朝光はそろりと目を開く。目の前には驚いた表情で一巴を見つめるマリアだった。


「なんで女の子がこんなところにいるの? あいつらに脅されたの? ……そう、違うの。自分の意志で華胥を出たの」


 一巴が口に出さずとも、心の声を読んでいるのかマリア一人で会話が進む。未だ解けぬ恐怖と異常な光景に、一巴はただその様子を見つめていた。


「異能力が一度も発現したことない、なんて聞いたことないわ……。きっとあなたが気が付いてないだけで、絶対あなたにも異能力が備わっているわよ」


 先ほどとは全く違う優しそうな微笑みに、一巴は戸惑うばかりだ。黙り続ける一巴に気にすることもなくマリアは話し続ける。


「これが終わったら、私と華胥に戻りましょう? 信頼できるお医者さんを紹介するし、異能力に詳しい専門家の知り合いにもあたってみるから、ね?」

「……僕は、もう華胥には帰らない」


 先に言われる前に、一巴が思っていることを口にした。マリアは一巴の思いをわかっていただろうに、少し傷ついた表情をした。

 しかしそれは一瞬だけのことだ。すぐに笑顔へと戻る。だがその笑顔は、先ほどの優しそうなものとは違い男たちを追い詰める悪魔の笑みへと戻っていた。


「一巴ちゃんは、渡会朝光たちに騙されているのよ」


 思ってもない言葉に、一巴は呆気にとられた。


「大丈夫、すぐに私があいつらを殺して呪縛から解き放ってあげるからね」

「違う! 朝光も伊三も何も悪くない、いい奴だ! 僕は騙されてなんかない、全て自分の意志でここにいるんだ。あんた、心が読めるんだろ? ならあいつらが悪い奴じゃないことも、僕が自分で決めたってことも、全部わかるんだろう! なら……」

「ええ、一巴ちゃんが嘘を言っていないことはよくわかるわよ。でも私が読めるのは心の声だけ、過去まではわからない。だから一巴ちゃんがマインドコーントロールされて騙されている可能性もありうるの。だって、男にいい奴なんている訳ないもの」


 必死に説得するものの、マリアは斜め上の解釈を述べる。一巴の言葉はマリアには一ミリも届かない。

 何が原因で頑固なまでに男を嫌悪するのかは知らないが、この人には何を言っても意味がいないと一巴は悟った。


「すぐにあいつら殺して戻ってくるから、大人しく待ってて」

「待って!」


 踵を返したマリアを、引き止めようと一巴は縋る。そんな一巴の頭をぐずる子ども相手にするように優しくなでると、マリアは表通りへと戻って行った。


「マリア! ……うっわ!」


 彼女を止めようと、慌ててゴミ箱から出ようとするものの、バランスを崩してゴミ箱ごとその場に転がってしまう。


「いてて……」


 ぶつけた頭を擦りながら、ようやくゴミ箱から這い出た。慌てて頭をあげるも、既にマリアの姿はそこにはない。


「……マリアを止めないと!」


 マリアの後を追うように一巴も表通りへと駆けだした。

 彼女のことを残虐な魔女だと思っていたが、優しい面もあるのだと知った。そして、マリアに朝光を殺してほしくないという思いを胸に一巴はひた走る。

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