第137話 深閑と無音
「はあ」
ヨウムは珍しく溜息を漏らす。
子どもが巣立った後の父親の気持ちとは、こんな感じなのだろうか。
ブナを送ってから二度目の休日、ヨウムは一人、質素な朝食を食べながらそんなことを思った。
「まずいな。まだ二週間しか経っていないのに……」
テーブルに並んだ朝食はスープとライ麦パンだけ。
以前なら何かしら他に並んでいたであろう、ヨーグルトもチーズも、果物も、ハムもオムレツもない。それでもスープを作った分だけ、ましだった。
先週から火を使う回数が極端に減り、ついに食料棚には食材自体がなくなった。
研究室をもらってからというもの、昼も夜も食堂でサンドイッチや弁当を包んでもらって研究室で食べるようになったため、家での食事は朝だけになった。
「一人しか食べないのに料理を作るのは、張り合いがなくなるな。昔は一応、毎朝、毎晩作っていたのに」
独りごちると、ヨウムは家をぐるりと見渡す。
「広い家だ」
部屋が有り余っている家は、閑散として、しんと静まり返っていた。
ヨウムは以前より早く家を出て仕事に行き、遅くまで仕事をして帰るようになった。
研究室があれば授業や研究に必要なものを置けるため、家で仕事をする必要もなくなった。
あまりの自身の生活の変化に、ヨウムは自分が急に堕落したような気分にさえなっていた。
食事を早々に食べ終えると、コーヒーも淹れずに新聞を手にしたまま長椅子に転がり込む。
誰もいないと気が緩みすぎるな。
今まではブナがいた。
なるべく見本になれるよう、所作や挙動には自然と気を配っていた。
朝食を食べてすぐ長椅子でだらだらする姿など、ブナには見せたことがない。
なぜかピアノを弾く気分にもなれなかった。
最初の一週間は、誰にも気兼ねなくピアノが弾けると四六時中弾いていたのに。今はピアノどころか、手の中の新聞を読む気にすらならない。
ヨウムは家の音に耳を澄ます。
深閑としている。
足音がしない。
料理を作る音も、本を捲る音も、鉛筆を走らせる音もしない。
謎の奇声も聞こえない。
「質問があります」と話しかけてくる声も、もう聞こえてこない。
「あの生活音が好きだったんだけどな」
独特の視点を持った豊かな質問も楽しみだった。
ブナと新聞の話をしたかった。先日読んだ本の話もしたかった。
学習意欲の高いブナは短い間にぐんぐん知恵をつけ、ヨウムが解説をすればよく理解し、自分なりの考えをしっかり表現できるようになっていた。そのやりとりが、ヨウムの知的好奇心を満たしていた。
ヨウムは遂に新聞を長椅子に放り、足元のラグマットに目を落とす。そして、ブナがよくやっていたように、ラグマットに横になった。
ブナはよく床に寝そべっていた。身体が冷えないようにと、買ったものだ。
ブナはこのラグマットをいたく気に入っていた。
『ラグマットを持っていっていいですか?』
『置いていきなさい』
別れる前日のやりとりが、ふと蘇る。
巣立っていく背中を押してやりたかった。
羽ばたこうとするその翼の重荷になるものは、囚われるような心残りは、置いていくよう伝えた。
しっかり前だけ向いて、未来をつかみ取れるようにと。
彼女の新しい道が例え困難に満ちたものであったとしても、彼女が必死に身につけた強さと智慧があれば、きっと乗り越えていける――ヨウムはそう信じている。
ただ、その道のりをもう傍で見守ることはないと、分かっていた。
今後の自分にできることは、一教員として補助するだけだ。
ヨウムは十本の指でラグマットの毛の、滑らかで温かい触り心地を確かめる。
実際には、すっかり過去に囚われてしまったのは、自分の方だったな。
日に日に、中身が減っていく食料棚とは裏腹に、ヨウムの中に寂しさが積もった。
「足りない……」
ヨウムは今の生活に欠けてしまったものを、静かに思い出す。
足音が、生活音が、声が。
「ブナが、足りない」
そこまで考えて、自分の思考に驚き、咄嗟にむくりと起き上がった。
……落ち着け。
感傷に浸りすぎだろう。
慌てて頭を振り、胸の空虚感を静かに抑え込む。
代わりに、やるべきことを頭の中に並べていく。
コーヒーを淹れて、新聞を読んで、掃除をして、ピアノを弾いたら食料の買い出しに行こう。




