第136話 恋と憧れ
「私にはすでに婚約者がいてね」
ラベンダはそう前置きして、話を始めた。
「卒業後に結婚が決まっているの。でも父は私を大切にしてくれていて、私が他の方を選ぶなら、それでも良いとおっしゃってくれているわ。
私は今、十六歳よ。この学園にいる間に、素敵な人に出会って、恋をしてみたいの。エスコートだって、その方にお願いしたいわ。デートだって……」
「まあ。素敵」
「エスコートもデートも憧れるわよね」
双子は楽しそうに相槌をうつ。
ブナは首を傾げる。
「婚約者がいるなら、恋もエスコートも必要ないのでは?」
「まあ、ブナってば」カレンが可愛らしく笑う。
「仮にお付き合いしなくても、男性にエスコートしていただくことは、貴族女性として格が上がるのよ」
「そう。パーティーのパートナーはもちろん、日常的にも」
ビオラも両手の指をそっと合わせて目を細める。
「結婚はしないのに、他の男性にエスコートしてもらっていいんですか?」
「もちろんよ。むしろエスコートもしてもらえない女性なんて品位が落ちてしまうわ」
「そういう……ものですか」
「市井の人たちはもっと恋が自由なんでしょ? 恋愛をしてから結婚をすると聞いたわ」
「貴族の女性は家と家の繋がりのために嫁ぐ文化がまだ主流だから。変わってきた家も多いけれど」
「そうですね。市井は割と、自由ですかね」
とはいえ、ブナの知識はアイビーから勧められた漫画から来ている。
ブナの育った地域では女性はもっと縛られていた。結婚に女性の発言権など無いに等しかったと記憶している。
双子は十七歳。三人は年頃の女性らしく恋に憧れを抱いているようで、恋愛小説の話で盛り上がっていた。ブナは茶菓子を頬張りながら、耳を傾ける。
市井の文化は恋愛面だけでなく、自由な個性や創造性、内面世界の表現——小説、詩、劇、音楽、料理など——どれも若い貴族の子息令嬢に、大いに興味を持たれているようだった。
三人の話題は、今度はどんな男性が素敵かという方向へ流れていく。
「アランは性格が穏やかで良さそうだけれど、家門の経済的基盤が衰退しているのが気になるわ」
さらっと、酷いことを言っている……。
この国にかつて存在した制限選挙制度は廃止され、法的には市民も貴族も平等である。
だが、長年の名声と人脈はすぐに消え失せるものではない。社交界や伝統、経済界などで、引き続き敬意をもって扱われ、今も貴族は特別な地位が保たれている。
その一方で、ラベンダの家門のように確固たる地盤がなければ、特権が無くなった今、経済的に困窮し始めている貴族が多いのも事実だった。
有望な男性と結婚したいのは、仕方のないことなのだろう。
ブナはそう理解した。
「ラムサムはどうかしら? 家柄も申し分ないし、誰にでも公平で紳士的で、既に大人気みたいよ」
「でも、婚約者がいらっしゃるのでは?」
「それがいないらしいのよ! 本人は恋愛を経てご結婚されたいそうよ。ロマンチストよね。大衆音楽もお好きだとおっしゃっていたし、革新的だわ」
他にも——と、三人はブナの知らない名前を次々に挙げていく。知らない名前が出てくると、ブナは途端に会話が頭に入ってこなくなる。
アイビーも大層な話し好きだったが、本という共通の話題だった。
ブナは一人、絵本の中のお姫様の日常を覗いているような、のんびりした楽しさを味わう。
「先生方も素敵な方が揃ってらっしゃるわよね」
いつの間にか、話題は教員の方へ派生していた。
「皆さん見目麗しい先生方ばかりですよね」
「私はライ先生の実技にとても感動しました。早く燃焼の魔法を覚えたいわ」
「お姿は清冽だけれど、お心は情熱的で素敵よね。まさに炎の魔法がお似合いだわ」
「でも、先生といえば……」
「やっぱりキング先生よね!」
三人の声が揃う。
「もう、あの方の美しさと言ったら!」
「神がお造りになられた彫刻のようよね」
「物語に出てくる王子様のようよね」
「ぜひともお話ししてみたいわ」
そこでブナもようやく提供したい話題ができる。
「ヨウム先生も! ヨウム先生も、地母神が遣わした絵本の王子様のようですよね!」
ラベンダが椅子を後ろに引く。双子は視線を落とす。
「……すみませんでした。そう思うのは……私が市井の出だからなんですよね」
貴族の方々の審美眼は厳しいのだった。
「ブナ……。言いづらいのだけれど、それは市井とは関係ないと思うわ」
「とりあえず、ブナが人を外見で判断しない素晴らしい精神の持ち主だということはわかったわ」
カレンの言葉に、ビオラが、少し困ったように、優しく言い添えた。
「そうですか。私は……美しいものが好きなんですが」
容姿というものに限定するなら、確かにヨウムの独特の風貌は、貴族の女性達には奇怪で恐ろしく映るのだろう。
双子もアランも授業の翌日から早速、後方の席へ移動した。ラベンダはブナの背後に隠れてヨウムの姿を見ないようにして座っている。
それでも、ブナはヨウムの美しさを疑うことはなかった。
「そう。ブナ、私も美しいものが何より好きよ。そして、それは多くの人がそうだと思うわ」
ラベンダの涼やかな声が静かに落ちる。
「ラムサムは、今も必ずブナの隣の先に座るわよね」
「確かに。いつも、柔らかな笑顔でブナを見ているわよね」
カレンの言葉にビオラが静かに同意する。
ラムサムだけはその後も変わらずブナの隣で授業を受けていた。ヨウムを見る表情も消して崩したりしない。
「ねえ。ラムサムって、もしかして……ブナのことを」
ブナの過去は、ブナにとって苦しいものだった。
親の愛情など知らず、気がつけばその魔力量の多さゆえ、売られ、贄にされ、死を待つだけだった。
愛情とは縁遠い過去で生きた彼女にとって、恋とは、どこか他人事のお伽話のような話に感じた。
ゆえに、自分の名前が上ったにもかかわらず、ブナにはあまりに馴染のない話題に、遠い記憶が浮かぶ。
*
雨の降る暗い夜だった。
「お母さん。今日は月明かりがないから、蝋燭をつけて食べてもいいですか?」
「蝋燭?! なんて図々しいの。《《エバ》》のくせにっ。
淺ましいお前が使っていい物なんてこの家にはないのよ。
あと、半年。早く経てばいいのにっ」
そう言い放つと、母は力強く扉を閉めきった。
エバと呼ばれた少女は一人、台所に残される。
扉が閉まると、台所はいよいよ真っ暗で深々と冷える。
手元は暗く、皿の中の食事がどこにあるのか分からない。
少女は、スプーンを置き、あかぎれだらけの自分の指で探るように皿の中を触る。
手に触れたものを必死にかき集めて口に運んだ。
扉を見つめる。
隙間から暖かそうな光が漏れ出ている。
近くに行けば、皿の中にも灯りが届くかもしれない。
だが、それをすれば、父と母が怒って蹴るだろう。
「エバのくせに」と。
痛いのは……嫌だ。
少女は諦め、手で食事を掬う。
傷にしみて、ずきずきと痛む。
隙間から溢れる光の先から、母が物語を聞かせる優しい声が聞こえる。
妹と弟の幸せそうな笑い声がその光に包まれる。
いいな
私も……あの中に入ってみたい
エバ――エバン。奴隷の意。
「あと半年。売られたら……売られた先で、あの光の中に入れてもらえるのかな」
少女は微かに呟いた。
父の穏やかな「おやすみ」という声が光の中から零れ、光はふと消えた。
*
恋愛など、よく分からない。
いつか、こんな自分にも訪れるものなのだろつか。
それでも……いつか。
いつか、私にも。
私だけの、幸せな家族が出来たらいい……。
ふと、ブナは自分の手に視線を落とした。
「あら? ブナってば、何をそんなに嬉しそうに笑っているの?」
「もしかして、好きな人がいるの?」
「いえ。恋は、よく分かりません……それでも、憧れます」
ブナはそっと手首をさする。
名前もなく、ただエバとだけ呼ばれていた自分。
あの人が名前をくれた。枷の痕から解放してくれた……
ブナは静かに目を細めた。
白い綺麗な手首だった。
指は傷もなく美しかった。




