第1部(1) 第3話【 竜脊(りゅうせき)の誘惑と影 】(上)
【竜脊山脈】。
アシャニアとヴァルナ神国を隔てる、
死の天険だ。
守るべき仲間を得た青年と、一粒の光。
彼らの往く手には、更なる過酷な試練と、
ソーレム帝国の容赦なき罠が待ち受けていた。
天を突き破る猛峰の群れが、
眼前に立ちはだかっていた。
【竜脊山脈】。
かつてアシャニアと東方の国々を分かち、
今や人類の通行を拒む死の天険である。
標高が上がるにつれ、
緑豊かな森林は姿を消し、
ゴツゴツとした黒泥の岩肌と、
鋭い吹雪が
カイとミーナの肌を打ち叩くようになった。
「ミーナ、大丈夫か? 寒くないか?」
「うん……!
お兄ちゃんの光のそばにいるから、
寒くないよ」
ミーナはカイの腰にしっかりと抱きつき、
ランタンの光の輪の中に身を寄せていた。
【原初輝石】が放つ光は、
不思議なことに熱を持たない。
それなのに、
光の届く範囲(半径およそ三メートル)の
中だけは、不浄な極寒の風が和らぎ、
春の陽だまりのような温もりに
満たされていた。
不浄を退ける光は、
自然の猛威すらも和らげるのだ。
だが、カイの表情は固い。
(山に入ってから、
輝石の光が小さくなっている……)
ガラスの向こうの輝石は、
まるで
目に見えぬ重圧に押し潰されるかのように、
先ほどから
チカチカと不吉な瞬きを繰り返していた。
理由は分かっている。
この竜脊山脈には、
何百年も前にソーレム帝国が打ち込んだ
「律法呪印の杭」が
各地に打ち込まれており、
山全体が巨大な
「不浄の領域」と化しているのだ。
気を抜けば、足元の影から闇が這い上がり、
肉体と精神を腐敗させようとしてくる。
「……ハァ……ハァ……」
カイの呼吸が荒くなる。
一歩踏み出すごとに、
脳裏に嫌な声が響き渡るのだ。
『無駄だ。諦めろ』
それは、カイ自身の弱さが生み出す幻聴か、
それとも山に充満する闇の囁きか。
『お前一人で何ができる?
王都は滅び、父は死んだ。
ミーナという足手まといを抱えて
山を越えられるはずがない。
石を捨てろ。逃げ出せ。楽になれ……』
(黙れ……!
俺は、父上の遺志を継いだんだ!
この光を絶やしはしない!)
カイは歯を食いしばり、
必死に「善き考え」を保とうとする。
だが、肉体の疲労と死の恐怖は、
じわじわとカイの精神を削り取っていく。
心が揺らぐたびに輝石の光が陰り、
外側の吹雪と冷気がミーナの肌を晒した。
「くっ……! ミーナ、ごめん……!」
「ううん、大丈夫……
お兄ちゃん、顔がすごくつらそう……」
ミーナが小さな手で
カイの煤けた頬に触れた。
その手が、あまりにも冷たい。
(俺の心が弱いからだ……!
俺がしっかりしないと、
ミーナまで冷たくなってしまう!)
焦りが焦りを呼び、
輝石はさらにくすんだ灰色へと変わっていく。
その時だった。
「——ほう。若き守護者よ、
精神の『歪み』に苦しんでいるようだな」
吹雪の向こうから、
重々しい足音が近づいてきた。
険しい岩場の影から現れたのは、
黒ずんだ甲冑を纏った
ソーレム帝国の追撃隊長・ヴァルツ。
その背後には、
数十名の鉄機兵がズラリと立ち並び、
逃げ場のない崖際へとカイたちを追い詰めた。
「ヴァルツ……!
こんな山奥まで追ってきたのか!」
カイはミーナを背中に庇い、
短剣を構えた。
しかし、長旅の疲労と光の弱まりによって、
カイの膝はガクガクと震えていた。
「追うまでもない。
この竜脊山脈は、
我らが帝国の『法』によって
塗り替えられた不浄の領域だ」
ヴァルツは静かに歩み寄り、
カイを見下ろす。
「お前の持つ『輝石』は、
持ち主の心を映す鏡。
死と恐怖が支配するこの山で、
お前のような未熟な子供が
『純粋な善き心』を
保ち続けられるわけがない。
……見ろ、その石の無惨な姿を」
ヴァルツの指差す先——
ランタンの中の輝石は、
今や虫の息のような
淡い灰色にまで光を落としていた。
周囲の闇が物理的な黒い霧となって、
カイたちの足首に絡みついてくる。
「うあ……あ……っ!」
不浄の冷気がカイの体内に侵入し、
血を凍らせていく。
視界が急速に狭まり、思考が麻痺していく。
「カイ、諦めろ」
ヴァルツが長剣をゆっくりと抜いた。
「お前が苦しむのは、
自らの『意思』で
光を守ろうとするからだ。
意思などという不安定なものを持つから、
人は恐れ、迷い、絶望する。……
石を差し出せ。
そして帝国の『法』に従え。
さすれば、お前もその小娘も、
思考を奪われた
『平和な肉塊』として生かしてやろう」
(法に従えば……楽になれる……?)
カイの意識が遠のく。
意思を捨てれば、絶望もしなくて済む。
恐怖も感じなくて済む。
父の死を背負い続ける重圧からも、
解放されるのだ。
「ダメ……! お兄ちゃん、ダメえぇっ!」
ミーナの叫び声が、吹雪を切り裂いた。
ミーナは前に飛び出すと、
カイの膝に必死にしがみついた。
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不浄の冷気で唇を紫色に腫らしながら、
ボロボロと涙を流してカイを見上げる。
「お兄ちゃんは……私を助けてくれた!
優しくて、温かい光をくれた!
そんなの……偽者なんかじゃないよっ!」
ミーナの小さな温もりが、……。
本日、18:30 に、第3話(下)を投稿します。




