第1部(3) 第1話:灰色の聖域と至高の天秤
【灰塵の荒野】の終着点。
そこには
「国」という言葉からかけ離れた、
異様で無機質な「構造体」が
聳え立っていた。
ソーレム帝国首都——
【ソーレム・プリムス】。
外壁は巨大な灰色の死鋼で覆われ、
城門も、監視塔も、
幾何学的な直線のみで構成されている。
草木の一本、
装飾の一欠片すら存在しない。
空を突く巨大な巨塔の中央には、
二つの皿を模した超巨大な鋼鉄の建造物——
『至高の天秤』が鎮座し、
都市全体を見下ろしていた。
「これが……帝国の都……?」
ミーナが息を呑み、
カイの服をぎゅっと掴んだ。
都市を取り囲む大気に、
かつてのような「不浄の腐敗臭」はない。
代わりに漂っていたのは、
一切の生活臭や生の匂いを脱ぎ捨てた、
無菌室のような「完璧な無臭」だった。
「……気をつけるんだ、二人とも」
レノが
鋼鉄の義手の指先をカチカチと鳴らし、
苦々しく吐き捨てた。
「不浄のエネルギーをかき集めていた
第4補給廠までは、
まだ『前哨基地』に過ぎなかった。
この都に満ちているのは、
不浄すら通り越した『完全な無』だ」
カイは
胸元の手提げランタンへ視線を送った。
ガラスの向こうの【原初輝石】は、
激しい危機感を告げるかのように、
青白く鋭い光を放って
明滅を繰り返している。
荒野や砦で立ち向かってきた
「不浄(悪意や呪い)」とは異なり、
この都全体が
「人間の意志や感情そのものを拒絶する領域」
と化していた。
「行こう。……引き返す道はない」
カイを先頭に、
三人は開け放たれたままの
巨大な第一城門へと踏み込んだ。
城門を潜った先に広がっていた光景に、
カイたちは言葉を失った。
碁盤の目のように
整然と区切られた大通り。
そこを行き交う
無数の「帝国市民」たち。
彼らは仕立ての揃った灰色の服を着て、
均等な歩幅で整然と歩いている。
だが、誰一人として会話を交わさず、
笑いもせず、怒りもしない。
その瞳は完全に光を失い、
まるで操り人形のように
決められたルートを往復していた。
「おい……街の奴ら、
どうなっちまってんだ……?」
レノが声を潜めて呟き、
歩行者の一人の肩を掴んだ。
「おい、あんた。ここは何なんだ?
皇帝はどこにいる?」
肩を掴まれた男は
ゆっくりと振り返った。
その顔には、
感情の起伏が一切存在しなかった。
まるで精巧に作られた石像のようだ。
「……質問は不要。
『法』はすでに満たされた」
男は機械的な声でそれだけを呟くと、
レノの手を払い、
再び均等な歩幅で歩き去っていった。
「市民たちの『感情』や『意志』が
……抜き取られているんだ」
カイの顔から血の気が引いていく。
この街には、
戦いも、飢えも、犯罪もない。
だが同時に、喜びも、愛も、
希望すらも存在しない。
ソーレム帝国が目指していた
「絶対の法による平和」とは、
人間から心そのものを削ぎ落とし、
ただの「機能する肉体」へ
変え尽くすことだったのだ。
その時、
都市の真ん中に聳える巨塔の頂点から、
重重しい鐘の音が響き渡った。
ゴオオオオン……ゴオオオオン……
音とともに、
空を覆う雲がうずを巻き始める。
巨塔の中央に掲げられた
『至高の天秤』が、
ゆっくりと
ギチギチと音を立てて傾き始めた。
天秤の左の皿には、
これまで
帝国が世界中から奪い尽くしてきた
「不浄と怨念」が
黒い泥となって溜め込まれ、右の皿には
……何もない「虚無」が置かれていた。
「ようこそ、アシャニアの最後の光よ」
大気を揺らして届いたのは、
あの無機質な重奏の声。
カイたちが振り返ると、
大通りの広場の中央に、
黒い長袍を纏い、
目も口もない「白銀の仮面」をつけた
人物がひっそりと佇んでいた。
「白銀の仮面……!」
カイは短剣を構え、
ランタンを前方へと突き出した。
「恐れることはない」
仮面の男は両手を広げ、静かに言葉を紡ぐ。
「お前たちが目撃しているもの……
これこそが、世界の到達すべき
『完成された秩序』である。
争いも、憎しみも、
悲しみも存在しない、完璧なる平穏」
「ふざけるな!」カイは激昂した。
「心を取り上げて、人間を
置物に変えるのが平穏なわけがない!
父上たちが守ってきた『善き心』も、
ヴァルナの神々も、精霊たちの命も……
お前たちは全部踏みにじってきたんだ!」
「『善』があるから『悪』が生まれる」
仮面の男の声には、
微かな感情の揺らぎすら存在しなかった。
「お前たちが『善き心』を叫ぶたび、
世界にはその影として
『悪意』と『不浄』が湧き出る。
善悪二元論の限界だ。……だからこそ、
我らは両者を等しく天秤にかけ、
相殺し、世界を
完全な『無』へと還すのだ」
仮面の男が右手を掲げると、
その掌に浮かび上がったのは、
あらゆる色彩を吸い尽くす【無色の結晶】。
シュンッ……!
結晶が放つ「無の波動」が広がった瞬間、
カイの手の手提げランタンの光が、
まるで強い風に吹かれた蝋燭のように
激しく揺らぎ、消えかけた。
「くっ……!?」
「お前の持つ『輝石』は、
世界の『善』の象徴。
お前が
その光を強く輝かせれば輝かせるほど、
この『至高の天秤』は完成へと近づく。
……お前自身が、世界を終わらせる
最後の鍵なのだよ、カイ」
「な……に……!?」
カイの思考が凍りつく。
自分が「善き意志」を貫き、
輝石を光らせてきたこと自体が、
敵の狙い通りだったというのか?
「さあ、示してみせるがいい。
お前の抱く『光』が、
この絶対の『無』の前に
どこまで抗えるのかを」
白銀の仮面の影が、
風に溶けるように静かに消え去った。
あとに残されたのは、
不気味に傾き続ける『至高の天秤』と、
意思を失った市民たちが徘徊する灰色の街。
「お兄ちゃん……」
ミーナがカイの手を握りしめた。
その手は、冷たく震えていた。
「……罠だろうと関係ない」
カイは強く歯を食いしばり、
消えかけたランタンを抱き直した。
「俺たちが諦めたら、
世界は本当に『無』になっちまう。
……行くぞ、レノさん、ミーナ。
あの巨塔の頂上へ!」
世界の命運を賭けた、本当の最終決戦が、
灰色の聖域で幕を開けた。
明朝、8:10 に、投稿します。




