第1部(1) 第1話【 崩亡の夜と小さな不滅 】
冷たい夜風が、
灰の匂いとともにカイの頬を叩く。
手の平の中で、命のように優しく、
けれど力強く脈動する一粒の光。
カイの、そして世界の命運を賭けた、
長き逃避行が始まった。
その夜、空は病んでいた。
白亜の塔が立ち並ぶ
【アシャニア王国】の王都・アシャラド。
数千年にわたり、
不浄な闇を寄せ付けなかった
聖なる都の上空を、
今夜はねっとりとした
鉄臭い暗雲が覆い尽くしている。
「逃げろ、カイ!
前を見るな、走り続けろ!」
怒号と剣劇の音、
そして肉が灼ける嫌な匂いが
大気になだれ込んでいた。
「父上……!
しかし、寺院の聖火台が……!」
「聖火台はもう終わりだ!
奴らは『火』を奪いに来たのではない、
この国の『真理』を粉砕しに来たのだ!」
守護一族の長である父の手は、
煤と血で黒く汚れていた。
父は
激しい火の粉が舞い散る大寺院の回廊で、
半ば
崩れ落ちた石柱の影にカイを押し込むと、
その手に
粗末な金属性の小ランタンを握らせた。
ランタンのガラスの奥には、
煤けた灰の中にひっそりと佇む、
指先ほどのいびつな鉱石があった。
「それは……原初輝石の欠片……?」
「そうだ。
王都に鎮座していた
『大いなる原初輝石』は、
ソーレム帝国の鉄機兵に打ち砕かれた。
だが、この砕け散った最小の欠片にだけは、
まだ命が残っている」
父の目が、
切迫した光を宿してカイの瞳を射抜く。
「カイ、聴け。この石は熱を産まぬ。
燃料も乞わぬ。この石が光を放つのは
ただ一つ——それを携える者が
『善き考え、善き言葉、善き行い』を貫く
時のみだ。
お前の心が恐れや悪意に屈すれば、
光は死に、お前は不浄の闇に食い殺される」
「俺が……? そんなの、無理だ!
俺はまだ守護者として認許されてもいない!」
「できる! お前の魂は清らかだ。
ゆけ……東へ!
竜脊山脈を越え、ヴァルナ神国へ向かえ!」
「ヴァルナ……!?
あそこは我が国の敵です!
あの者たちは我らの聖石を
『神々を貶める悪魔の石』と
呪っているのですよ!?」
「それでも行け! 世界に光の種を遺すのだ!」
重厚な金属音が回廊の闇を裂いた。
黒ずんだ鋼鉄の全身鎧に身を包んだ
ソーレム帝国の兵士たちが、
無数の槍を揃えてなだれ込んでくる。
彼らの兜の隙間からは、
一切の感情を排した
無機質な「法」の気配が漏れ出ていた。
「——異端の残党を確認。
『原初』の欠片を回収、
不可能な場合は消滅させよ」
大きな声が響くと同時に、
父が太刀を構えて跳躍した。
「行け、カイーーーッ!!」
それが、父の最期の言葉となった。
刃が交錯し、激しい火花が散る。
カイは叫び出したい衝動を
歯が噛み切るほどに耐え、背を向けた。
走った。
がれきを乗り越え、血の海を渡り、
燃えさかる王都の抜け穴を目指して。
しかし、
恐怖は津波となって
カイの精神を飲み込んでいった。
父が殺された。
母も、兄も、仲間たちも皆、
あの鋼鉄の悪魔たちに
踏みにじられたのだ。
自分だけが生き残って何になる?
どうせ追いつかれて、
惨めにお仕置きされるのだ。
(恐ろしい……嫌だ、死にたくない……!)
カイの胸に絶望と恐怖が渦巻いたその時。
抱え込んでいたランタンの中で、
微かに灯っていた
透き通るような黄金色の光が、
どろりと濁り始めた。
光量が落ちる。
一歩、また一歩と走るごとに、
ガラスの向こうの輝石が
暗い灰色へと変色していく。
「あ……が……!?」
光が失われると同時に、
周囲の「闇」が質量を持って
カイの足首に絡みついてきた。
ソーレム帝国が
戦場に満たした「不浄の術」だ。
光という防壁を失ったカイの肌に、
氷のような冷気が刺さり、
精神が内側から腐敗していくような
感覚が襲う。
視界が急速に狭まり、膝が折れそうになる。
「邪教の小僧を見つけたぞ!
光が消えかけている、殺せ!」
背後から、追撃隊の足音が迫る。
闇の中で、
黒い鋼鉄の刃が頭上へと掲げられた。
(終わりだ……俺の心が弱いから、
石の光を消してしまった……)
カイは泥の中に伏せ、目を閉じた。
死の冷気が首筋を撫でる。
だが、その冷たさの向こう側に、
脳裏に焼きついて離れない
父の最期の顔が浮かんだ。
『お前の心が恐れに屈すれば、光は死ぬ。
世界に光の種を遺せ!』
父は、命を捨てて自分を逃がしてくれた。
自分がここで諦めれば、
父の死は無意味になる。
アシャニアが
数千年間守り続けてきたものすべてが、
ただの歴史の屑として消え去ってしまう。
(死にたくないから走るんじゃない。
俺が……この光を守るんだ!)
カイは泥を噛み締めながら、
心の中で固く、強く命じた。
(恐れるな。憎むな。
ただ、
なさねばならぬ『善きこと』を思え!)
絶望を振り払い、
ただ一筋の「覚悟」を胸に宿した、その瞬間。
かっーーーーーーーーーたたつ!!
ランタンのガラスを突き破らんばかりの、
圧倒的な「純白の光」が弾け飛んだ。
「ぐああああああっ!?」
振り下ろされようとしていた鋼鉄の剣が、
光の波動を受けて弾き飛ばされる。
カイを襲っていた兵士たちは、
両目を押さえて地面に転がった。
彼らの
漆黒の甲冑に刻まれていた律法呪印が、
聖なる光を浴びてパチパチと嫌な音を立て、
激しい煙を上げて消滅していく。
「ヒカリが……!?
バカな、
薪も油もないのだぞ!
なぜ輝く!?」
「逃がすな! その石を砕けええっ!」
兵士たちの叫びが遠ざかる。
カイは
光を取り戻したランタンを力いっぱい
胸に抱きかかえ、立ち上がった。
ランタンの中の小さな鉱石は、
まるで生き物のように、温かく、
力強く脈動していた。
熱はない。
だが、その光はカイの全身を包み込み、
恐怖で凍りついていた心を
優しく温めていた。
「これが……『善き考え』の光……」
カイは一度だけ振り返り、
燃え落ちる故郷の空をその目に焼き付けた。
向かう先は東。
天を突く竜脊山脈の彼方にある、
神々と幻術の国【ヴァルナ神国】。
そこが自分を「邪教」と蔑む
宿敵の地であろうとも、もう迷わない。
手の中にある一粒の光とともに、
カイは漆黒の夜の闇の中へと疾走し始めた。
©2026 [風風風]. All rights reserved.
夜の静寂を破り、
足元で枯れ枝が爆ぜる音が響く。
王都アシャラドを脱出したカイは、
闇雲に東へ走った。
街を囲む広大な国境の森林地帯。
木々の隙間から……。
明朝、6:30 に、第2話(上)を投稿します。




