第1部(2) 第1話【 盟約の余韻と西より来たる影 】(下)
ソーレムの重装歩兵でもなければ、
ヴァルナの武僧でもない。
纏っているのは、
修道士のような黒い長袍。
だがその顔面は、目も口もない
「滑らかな白銀の仮面」で覆われていた。
「不浄の反応が……ない……!?」
カイは息を呑んだ。
これまで出会った
ソーレムの兵者や怪物たちは、
例外なく肌を刺すような
「冷気と腐敗臭(不浄)」を纏っていた。
だからこそ、輝石の光がそれを感知し、
打ち払うことができたのだ。
だが、目の前に立つ黒袍の人物からは、
生の吐息も、死の腐敗も、
邪悪な意図すらも感じられない。
まるで
「最初から何も存在しない空洞」が
立っているかのような気味悪さ。
「……見つけたぞ。
『未完成の理』を携えし子」
白銀の仮面の奥から響いたのは、
男とも女とも、老いも若きも判別できない、
無機質な重奏の声だった。
「誰だ! ソーレムの密偵か!」
カイは短剣を抜き、
ランタンを前方へと突き出した。
しかし、白銀の仮面は身じろぎ一つせず、
淡々と宣託のように言葉を紡ぐ。
「我らは審判の天秤を携える者。
……アシャニアの守護者よ。
お前がヴァルナの神霊を救い、
この地に光を戻したことは、
帝国の『法』において計算の範囲内である」
「なに……!?」
「世界は混交期を過ぎ、
完成期へと至らねばならぬ。
そのためには、古い神々も、
歪んだ聖火も、
等しく磨り潰されねばならぬのだ。
……お前が輝石を輝かせれば輝かせるほど、
世界の『二元』は先鋭化し、
終末の秤は傾く」
黒袍の人物が、ゆっくりと右手を掲げた。
その掌に浮かび上がったのは、
ソーレムの黒い律法呪印ではない。
——透き通るような、
純粋な【無色の結晶】。
「な……ッ!?」
カイの目が限界まで見開かれた。
その結晶が放つ波動は、輝石の光とも、
ソーレムの不浄とも異なる。
あらゆる感情、あらゆる意志、
あらゆる生命の色彩を「無」へと還す、
絶対の虚無。
カチ……
結晶が微かな音を立てた瞬間、
回廊を包んでいた風が止み、
サティの展開した神霊結界が、
ガラスが割れるような音を立てて
粉々に砕け散った。
「サティ様! ミーナ!」
カイは咄嗟に二人を背中に庇い、
胸中の「覚悟」を極限まで高めた。
(恐れるな! 立ち向かえ!
俺の『善き意志』で打ち払うんだ!)
かっ——!!
輝石から爆発的な純白の光が弾け飛ぶ。
不浄を焼き尽くす絶対の浄化光。
だが——
白銀の仮面が掲げた
「無色の結晶」に光が触れた瞬間、
眩い純白の光は
吸い込まれるように消失し、
何の効果ももたらさなかった。
「光が……吸われていく……!?」
カイの顔から血の気が引く。
不浄であれば焼き尽くせる。
だが、「何も存在しない無」に対して、
光は届かない。
「未熟なり、アシャの継承者」
無機質な声が静かに響く。
「お前が背負う光は、
まだ世界の半分に過ぎぬ。……西へ来い。
我が鉄と法の都【ソーレム・プリムス】へ。
そこでお前は知るだろう。
お前たちが守ってきた『真理』の、
惨めな正体を」
黒袍の影が、
まるで最初から幻影であったかのように、
黒い霧となって空気中に溶けて消えていった。
あとに残されたのは、静まり返る回廊と、
ショックで激しく明滅を繰り返す
ランタンの輝石だけだった。
「カイ……大丈夫ですか!?」
サティが駆け寄り、カイの肩を抱く。
「あいつは……一体何なんだ……。
不浄じゃなかった……光が、届かなかった……」
カイの手がカタカタと震えていた。
ソーレム帝国の裏に潜む、さらなる深淵。
単なる軍事国家の侵略ではない。
世界そのものを
「無」へと塗り替えようとする、
底知れぬ意志の存在。
ミーナが震える手で
カイの服をぎゅっと握りしめた。
「お兄ちゃん……」
カイは深く息を吐き、
自分の頬を強く両手で叩いた。
「……大丈夫だ、ミーナ」
怯えを押し殺し、
濁りかけた輝石に強い眼差しを向ける。
光が吸われたのなら、もっと強く、
もっと純粋な「意志」を込めるまでだ。
諦めた瞬間に、
あの無に呑み込まれてしまう。
「サティ様。
俺たちは予定通り、旅立ちます」
カイはまっすぐにサティを見つめた。
「ヴァルナの神々を
救っただけじゃ足りない。
ソーレム帝国の中心……西の果てにある
『法の都』へ向かいます。
あそこに、すべての元凶がある」
サティは息を呑み、やがて力強く頷いた。
「……わかりました。
ヴァルナの全神霊の加護を、
あなたたちと共に。
……決して、その光を絶やさぬように」
東の空から、新しく青白い
夜明けが訪れようとしていた。
宿敵であったヴァルナの地を背に、
カイとミーナ、そして
世界の命運を担う一粒の輝石は、
敵の本拠地たる西方の暗雲へ向けて、
新たなる長征の第一歩を踏み出した。
©2026 [風風風]. All rights reserved.
東方の神秘大国【ヴァルナ神国】の
青々とした樹海を後にし、
西へ向かって進むにつれ、
世界は色彩を失っていった。
かつて
アシャニア王国とヴァルナ神国の間に
横たわっていたのは、
自然の猛威たる竜脊山脈だった……
明朝、6:30 に、
第1部(2)第2話(上)を投稿します。




