提灯が落ちる夜
その村の祭りへ行くことになったのは、伯母から電話があったからだった。
「今年は人手が足りないのよ」
と伯母は言った。
「若いもんがみんな下へ出ちゃって、提灯を下げるのも片づけるのも、手が回らないんだわ」
伯母は母の姉で、山あいの村に嫁いでからずっとそこに住んでいる。私は子どものころに二、三度行ったきりで、もう十年以上その村へは入っていなかった。祭りの記憶もほとんど残っていない。石段の上に小さな社があって、夜になると提灯が並ぶ。それくらいだった。
正直、乗り気ではなかった。だが、伯母の家も高齢の夫婦だけになっていると聞いていたし、その年はちょうど仕事の切れ目で、断る理由もなかった。
祭りの前日の昼、私は車で村へ向かった。
県道から外れると、道はすぐ細くなった。山を巻くように続く道の片側は杉林で、もう片側は段々になった田だった。稲はすでに刈られていて、藁束だけがところどころ残っている。空は明るいのに、村へ近づくにつれて日陰の色が濃くなる気がした。
伯母の家は、村の入口から二軒目にあった。黒い瓦の平屋で、軒先にはもう祭り用の提灯が吊られていた。まだ火は入っていない。昼の提灯は妙に軽く見えて、風もないのに薄く揺れていた。
玄関先で伯母が待っていた。小さくなったな、と思った。腰が少し曲がり、声も前より細くなっている。それでも私を見るとすぐ笑って、「よく来たね」と言った。
荷物を置いて茶を飲んでいると、伯母は祭りの段取りをひととおり話した。夕方までに各家の提灯へ火を入れること、神社の石段と参道にも並べること、祭りそのものは簡素になったが、それでも夜までは人が集まること。私は言われたことを聞きながら、昔の祭りもこんなだっただろうかと考えていた。もっと賑やかだった気もするし、そもそも夜まで起きていた記憶がないので比べようもなかった。
「それでね」
と伯母が言った。
「提灯が落ちたら、参道の奥は見ないでよ」
何気ない言い方だった。
私は茶碗を置いて、
「提灯が落ちたら?」
と聞き返した。
「火が消えたらってこと?」
「そういうこと」
「なんで」
「そういうもんなのよ」
伯母はあっさり言った。
「昔から、あのときは見ないの。戸口からも見ないし、石段にも近寄らない」
「みんなそうしてるの」
「そうしてるよ」
「理由は?」
「知らない」
そこで伯母は笑ったが、その笑い方は曖昧だった。本当に知らないのか、知っていて言わないのかがわからなかった。
「太鼓が三度止まったら、提灯が落ちるからね。それまでなら普通に見てていいよ。けど、そのあとだけはだめ」
「提灯が落ちる、って言うんだ」
「みんなそう言うからね」
その言い回しだけが妙に耳に残った。
火が消える、ではなく、提灯が落ちる。
昼のあいだ、その言葉が何度か頭に浮かんだ。
––
祭りは、表向きにはごく普通の秋祭りに見えた。
村の真ん中を通る道の先に小さな神社があり、その石段の両脇に提灯が吊られる。参道の脇には竹を立て、注連縄を張り、社の前には赤い幕をかける。屋台は今では一台しか来ないらしく、焼きそばと甘酒を売る軽トラックが境内の脇に停まっていた。子どもの姿は少なく、代わりに帰省してきたらしい家族連れが何組か見えた。
私も夕方まで提灯を運んだり、火を入れる手伝いをしたりした。
提灯は思っていたより多かった。各家の軒先だけでなく、参道にも等間隔に下がっている。日が傾くにつれ、紙の白さが薄い橙を帯びはじめた。山の村は夕暮れが早い。社の上の空だけまだ明るいのに、参道の奥から先に暗くなる。石段の下で火を入れ終えた提灯を見上げると、灯りが連なって浮いているようで、昼間よりずっと祭りらしく見えた。
ただ、村の人たちは暗くなるほど口数が減った。
昼には笑っていた者も、夕方になると時刻ばかり気にしている。何となく皆、神社のほうを見ないようにして動いている感じがあった。参道の掃き掃除をしていた年寄りは、石段の上を一度も振り返らなかったし、提灯の位置を直していた男たちも、必要以上に奥へ目を向けなかった。
私が伯母に、
「そんなに気にすること?」
と聞くと、
「だから見なきゃいいの」
とだけ返された。
それ以上、尋ねる気にはなれなかった。
日が落ちるころ、社の前で太鼓が鳴りはじめた。打ち手は若い男が一人だけで、昔よりずっと簡素になったと伯母は言った。祭りにしては静かだった。太鼓の音と、提灯の火に寄る虫の羽音と、遠くで話す人の声だけが村に散っている。
そのうち、参道の脇で甘酒を配っていた女が、ふいに紙コップの手を止めた。
「そろそろだね」
誰に言うでもなく、そう言った。
それを合図にしたように、人の気配が少し変わった。家の前にいた者は軒の内側へ入り、石段に近かった者は自然に下へ下がる。私は提灯の列の端でぼんやりそれを見ていたが、周囲の動きがあまりに揃っていたので、かえって立ち尽くしてしまった。
太鼓が、ふっと止んだ。
それから、もう一度。
間を置いて、三度目に止んだ。
その瞬間、誰が消したわけでもないのに、参道の提灯がいっせいに暗くなった。
本当にそう見えた。一本ずつ消えるのではなく、灯り全体がすとんと落ちたように暗くなったのだ。家々の軒先の提灯も同じだった。村じゅうの灯りが、息を合わせたみたいに消えた。
誰も騒がなかった。
それがいちばん異様だった。
暗くなった、というより、そこにあった明るさだけが抜かれたような夜だった。空にはまだ少し色が残っている。山の稜線も見える。なのに参道だけが、口を開けたみたいに黒い。
私は反射的に神社のほうを見た。
石段の上も暗かった。社の輪郭だけがうっすらある。参道の入口から奥へかけて、提灯の白い紙だけが火を失った殻のように浮いている。
「見ないで」
すぐそばで伯母の声がした。
だが、その言葉を聞いたときにはもう遅かった。私は顔を背けきれず、参道の奥を見ていた。
最初は、白いものがいくつか見えただけだった。
提灯の名残かと思った。消えた灯りの紙が風に揺れているのかと。けれど位置がおかしい。提灯の列より奥、石段にかかる手前の暗がりに、白いものが低く並んでいる。高さが揃っていない。三つか、四つか、もっとあったかもしれない。暗さに目が慣れるほど、数はむしろ曖昧になった。
私はそれを、祭りの面だと思った。
誰かが持っているのか、社の前に掛けてあるのか、その程度に考えた。白い面なら祭りにあっても不思議ではない。だが、すぐにその考えは崩れた。
白いものは、少しずつこちらへ寄っていた。
歩いているとは見えなかった。提灯の消えた参道の暗がりの中を、ただ位置だけが前へ移ってくる。浮いているのでもない。地を踏んでいる音もしない。ただ、暗い奥から手前へ、同じ速さでいくつかの白いものが並んだまま近づいてくる。
そのとき、横から伯母に腕を強く引かれた。
「だめだって」
囁くような声だった。怒っているのではなく、本気で怯えている声だった。
私はようやく目を外しかけたが、ほんの一瞬、白いものの細部を見分けてしまった。
顔だった。
そうとしか思えなかった。だが、顔にしては平たすぎた。頬の厚みがなく、紙を水で濡らして貼りつけたように薄い。白粉を塗った面にも見えたが、面ならあるはずの張りや丸みがなかった。目の位置には黒い窪みが二つある。穴ではなく、濡れたような暗さで、わずかに光を返していた。口のあたりには赤いものが見えたが、唇ではなかった。細い糸みたいな赤が何本も下へ垂れていて、風がないのに揺れていない。
いちばんおかしかったのは、顔の下だった。
首がない。白い顔のすぐ下から、黒い帯みたいなものが何本も落ちている。髪か、布かと思ったが、見るほどにそれは左右で太さが違っていた。何本かは途中で折れ曲がっていて、ひじのような節があるようにも見えた。
その一つが、遅れてこちらを向いた。
顔ではなく、暗い窪みのほうが。
私は息を呑んだ。
伯母が私の肩を抱くようにして、家のほうへ引いた。周りを見れば、村の人たちはみな戸口か軒の下で、伏し目がちにじっとしている。誰も神社のほうを見ていない。子どもが泣きかけると、母親が口をふさぐように抱き寄せた。誰も騒がない。ただ、提灯が落ちたあとの短い暗さを、やり過ごすように息を潜めていた。
私は振り切ってもう一度見たい気持ちと、二度と見たくない気持ちの両方で立ち尽くしていた。
けれど、伯母はそのまま私を玄関の内側へ押し込み、戸を引いた。
「火が戻るまで、外見ちゃだめ」
それだけ言って、伯母自身も戸口に背を向けた。
暗い玄関の中で、私は自分の鼓動ばかり聞いていた。外は静かだった。太鼓も鳴らない。人の話し声もない。その静けさが長く続いた気がしたが、実際は一分か二分だったのかもしれない。
やがて、外でぱち、と小さな音がした。
次に、もう一つ。
それから、提灯の火が戻った。戸の隙間から橙の明るさが差しはじめ、誰かが小さく息をつく気配が村じゅうに広がった。
伯母はしばらく動かず、そのあとでようやく戸を少し開けた。
外は何事もなかったようだった。提灯はまた灯り、参道も石段も、さっきまでの暗がりが嘘みたいに普通に見えた。村の人たちも静かに動きはじめ、甘酒を配っていた女はまた紙コップを手に取っていた。けれど誰一人、いまの数分について口にしなかった。
––
祭りが終わるまで、私はひどく落ち着かなかった。
神社へ上がる気にはなれず、伯母の家の前で提灯の火を見ていた。さっき見たものが本当に参道を上がってきていたのか、それとも暗さの中で提灯や幕を見間違えただけなのか、自分でもわからなくなりそうだった。だが、見間違いにしては細部だけが頭から離れなかった。平たい白さ、濡れた黒い目、口の下の赤い糸。顔の下にぶら下がっていた黒いもの。
祭りが引け、人が少しずつ家へ戻りはじめたころ、私は伯母に聞いた。
「あれ、何だったの」
伯母はすぐには答えなかった。提灯をひとつ下ろし、火を吹き消してから、ようやく言った。
「見たの」
「見た」
「どこまで」
「白い顔みたいなのが、いくつか」
伯母はそれ以上聞かなかった。
「だから見るなって言ったのに」
「何なのか、知ってるの」
「知らないよ」
その言い方は、前と同じだった。だが今度は、本当にそれ以上を言いたくないのだとわかった。
「昔から、提灯が落ちたら見ないの」
「みんな知ってるんじゃないの」
「知ってても、見ないからいいんだよ」
伯母はそこで口をつぐんだ。
あとから、近所の男が提灯を取りに来た。私が「参道のほうに何か」と言いかけると、その男は私の顔を見て、
「見たのか」
とだけ言った。
「何だったんですか」
「見たなら、なおさら聞かないほうがいい」
それだけだった。
村の人間は、説明を合わせることさえしなかった。ただ、見たか見ていないかだけを気にしているようだった。
––
翌朝は、よく晴れていた。
祭りの翌朝らしく、村のあちこちに片づけの気配があった。社の前の幕は外され、参道の提灯も順に下ろされている。昨夜の暗さが信じられないほど、空は高く明るかった。
私は伯母に頼まれて、下ろした提灯を社務所脇の物置へ運んだ。
提灯はどれも似たようなものだった。白い紙に黒い骨、下の房。いくつも重ねると、湿った紙の匂いがする。私はそれを抱えて運びながら、昨夜のことを思い出さないようにしていた。だが、物置の中で最後の束を置いたとき、壁に立て掛けられている祭りの面が目に入った。
狐、翁、女面。全部で五枚。
そのうちの一枚だけ、見覚えがあった。
白い女面だった。頬の薄い面で、目は細く切れ長く、口は小さい。祭りで使うには古すぎるように見えた。白粉はひび割れ、口の赤も褪せている。昨夜見たものに似ている、そう思ったのは最初だけだった。
近くで見ると、違った。
面にはちゃんと丸みがあり、頬にも鼻にも厚みがあった。目の穴はただの穴で、濡れた暗さではない。口元も塗りの剥げた跡であって、赤い糸のようなものではなかった。
私はその面をしばらく見ていた。
似ていたのは、白いということだけだった。
背後で足音がして、振り返ると、社の世話役らしい老人が立っていた。私が面を見ているのに気づくと、その老人は少し眉を寄せた。
「それじゃなかったろう」
と、ぽつりと言った。
私は言葉を失った。
老人はそれ以上何も言わず、別の提灯の束を抱えて出ていった。
その一言だけで、昨夜見たものが祭りの面ではなかったことが、かえってはっきりしてしまった。
––
村を出る前、伯母は土産だと言って饅頭を持たせてくれた。
「もう祭りの日には来ないほうがいいかもね」
と、冗談みたいに言った。
私は笑えなかった。
車へ荷物を積み、最後に村のほうを見た。昼の村は、どこまでも普通だった。黒い屋根、細い道、刈り終えた田。神社の石段も、昼の光の中ではただの石にしか見えない。昨夜あの暗がりに何がいたのか、今となっては自分の記憶のほうが疑わしく思えるほどだった。
それでも、思い出そうとすると、細部だけは妙に鮮明だった。白さの薄さ、目の湿り、顔の下の黒いもの。
村を離れてから何度か、昨夜のことを夢に見た。
夢の中では、参道はいつも提灯が落ちたあとの暗さで、白いものはまだ奥にいる。こちらへ来る前の距離にいる。それなのに、夢が進むほど細部だけがはっきりしていく。最初は面に見え、次に顔に見え、そのたびに面でも顔でもないところが増えていく。
いまでも、あの夜のことを伯母に聞き直してはいない。
何を見たのかはわからない。ただ、ひとつだけ確かなのは、あの村では、提灯が落ちたあとに参道の奥を見ない理由を、みんな昔から知っているということだった。
暗くなった参道の奥に、白い顔がいくつか見えた。祭りの面に見えたのは、最初だけだった。




