現代編3
(11.02.20~14.04.29)
書き直し:15.12.15
本ばかりが並ぶ場所で、彼女は本に埋もれていた。埋もれながら、眠っていた。
彼女の中に居るもう一人の彼は、意識をはっきりとしていた。そして本をどけず、ただじっとその場から動かなかった。
彼の頭の中で叫んでいた少女の言葉が頭によぎる。
「どうしてこうなった」
何度も何度も問いかけられて彼は答えることができなかった。できるわけがなかった。
自分だってこんなことを望んだ訳ではない。自分だってできるのなら彼女の体から出て行き、彼女を自由にさせてあげたかった。
しかしそのことは彼女には伝えていない。
どう伝えればいいのかわからなかったし、伝えたところで彼女が信じるとは到底思えなかった。想像できなかった。
自分の役目はただ何も言わず何も感じず、生きるしかない。
でも、彼女を救ってあげたい
あれだけ憎んだ一家だったのに、あれだけ憎まれているのに、自分がわからなかった。何故救いたいのかと。
「もう無駄だよ」
その時、瞬時に彼女の意識が浮かび上がってきて、彼女の感情が爆発しそうなのを感じた。
また責められる、そう思い覚悟した時
「無駄なんだね」
と返事が返ってきた。
それが彼女の言葉だと気が付くのに、数分かかってしまった。
「無駄なんだ」
もう一度彼女が言った。
そう、無駄なんだ。
このドッペル・デュールはかけられたら二度と解くことなんてできないんだ。
そのはずだったのだ。
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誰かが泣いている。大声をあげて泣いている。
ああ、うるさいな、そんな大声をあげないでくれ。そう思いながら目を擦り起き上がった。
そして目を開くと辺りは血の海だった。
むせ返るほどの臭いに気が付き、フィルは慌てて立ち上がった。
一体ここはどこなのか、必死に頭を巡らせたが、わからなかった。
そうだ、ウェイトに触った途端に目の前が真っ暗になったんだ。
ではここはどこなのだろう。再び周りを見渡す。
ふと一人の少年がしゃがみ込んで泣いていた。
この大声の主はこの子だったのか、そう思い近づくと
「触るなよ」
と低い声でフィルの行動を阻止した。
振り返ると、真っ黒の髪に真っ黒な目、そして服装さえ真っ黒の男が立っていた。
「触るなよ」
もう一度男は言った。何のことかと思い、もう一度少年の方に目を向けると、自分の手が少年に伸びているのに気が付いて、手を引っ込めた。
「この世界の者には絶対触るな」
「どうして?」
「どうしてもだ」
「じゃあ質問を変えるわ。あなたは誰?」
「ウェイト」
その答えにフィルはやはりと思う。
「じゃあこの子は?」
「そいつもウェイト。いやまだウェイトと名乗る前の姿だが、けれどもお前が知っているウェイトと同じ存在だ」
「くどい言い方をするのね」
「一度、名前を変えているからな」
「どうして?」
「昔の自分を捨てるために。誰にもわからない様にさせるため。つまりは隠れるためにだ」
「昔の名前は?」
「それはお前が知る必要はない」
「どうして?」
「俺はお前に忌々しい名前を知られたくないからだ」
「わかった。ならここはどこ?」
「ここはウェイトの精神世界だ。記憶と言う奴もいるがな」
「記憶の中、と言う訳ね。外では獣の姿のあなたが苦しんでいるの。
どうすればあなたを助けることができる?」
必死に問いかけるフィルにウェイトが低い、酷く小さな声で言った。
なにを言われたのかわからず、聞き返すと、彼は眉間に皺を作り、忌々しく聞き返した。
「何故、俺を救いたいなど思う?」
「私はあなたの力が必要だから」
「俺は必要ない。それに俺でなくてもいいだろう。他に優秀なソーサリーはたくさん居る」
「私はウェイトが必要だ」
「俺はもう不必要な人間だ」
その言葉にフィルの頭に血が上った様な感覚があった。だから叫んだ。
「何故そう思う?!」
「俺は生き過ぎた。だからもう俺は必要ない」
「ならどうしてあなたはあの時あの話をしたの?どうして私の信頼を得るようなことを話したんだ!」
その問いかけに相手は何も言わなかった。その態度が、無言が腹立たしくてフィルはただ叫んだ。
「なら何故生きたようともがくの!生きたくなければただ何もしなければいい!私を助けなければいい!何もかも無関心でいればいい!
けれどあなたは私に、ロウディット様に、そしてハーリッド様にも干渉をしてしまった!それは人間として他者と関わっていたいと言う意思表示ではないの!
死ねない体でも死ぬ方法ならいくらでもある!
何も干渉しなければいい!
そしたら人間の脳は次第に衰えていき、何も考えないただの物体化とするでしょう!そう生きればいいんだ!」
フィルの叫びに相手は俯き、低い声で答える。
「それができれば悩まない。やっとこれで死ねると思えた。
けれども違う自分が、ロウディットを見捨てられない。そしてハーリッドを放ってはいけない。
そして何よりもフィルを置いて行ってはいけないと、悩み始めるんだ。
本当は、俺は、死にたいはずなのに、どうしても死ねない」
「なら生きればいい」
「無理だ」
「何故」
「ドッペル・デュールの寿命は知っているか?」
フィルは昔必死に調べてきたことだ。力強く頷いた。
「精神体で百年。体は一般寿命の半分。つまり四十年程だと禁書には書かれていた」
禁書とは、皇帝が一般の目に触れてはいけないと決めた書籍だ。
「既に俺は精神体で百六十年は生きている」
「百六十年前と言えば、戦争時代…」
「そうだ。俺はその時の生き残りだ」
彼がそう言った瞬間に後ろで水が弾ける音がして、フィルは振り返った。
そこに倒れているのは、少年だった。
「この子も、ウェイト…?」
「それも俺だ」
意識を失ったのかと思ったが、倒れ込んだウェイトは小声で言った。
「死にたくない」
「さっさと死ねばよかったんだ」
「嫌だ」
「俺は存在してはいけなかったんだ」
「生きたい」
「生きてはいけない存在だ」
二人のやり取りが見ていられなくて、フィルは思わず振り返って、ウェイトが居る方向へと足を向ける。
彼は何故彼女が自分の方向へ向かっているのか理解することができず、一歩後ずさっただけだった。
一瞬の出来事だった、フィルが彼に抱きついたのだ。
彼は何が起こったのか、わからずただ呆然と立っていた。
そして我に返る。
「おい、離せ。俺に触るな。やめろ」
そう言ってウェイトは暴れるがフィルは決して彼から離れることはなかった。
「やめろ。お願いだ!とりかえしのつかないことになるぞ!」
「それでも、いい」
「なに?」
「もう私はあなたに関して、後悔しないと、あの時誓った。とりかえしのつかないことでも、それが私の命に関することでも、後悔はしない」
彼女がそう言った瞬間、声が聞こえてくる。
「本当にすまなかった」
最初で最後の謝罪。あれ以来彼女には一度も謝ったことが無い。
そして座って俯いている自分の姿が現れた。
「仕方がない?俺がハーリッドに斬りかかったことが?」
自分は驚いた様子で、高い声で聞き返す。
「俺のことでもう後悔しないってどういうことだ?今まで俺がお前の体に入ったことでお前は苦労を強いられてきただろう?
苦労していると思うからだめなんだ?何を言っているんだ…?
大丈夫って…俺を受け入れるってそんなこと言ったのお前が初めてだよ。フィル」
自分は嬉しそうだった。笑っていた。
それを見て、その時フィルが言っていたことを思い出す。
『私はもう捨てられるものはもう無い。だからドッペル・デュールされたことももう後悔なんてしない。ウェイトが私の体の中に入ってきて、うっとおしいなんて思わない。
だって今までウェイトは私の味方だったもの。
なら私もウェイトの味方で居るから、もう好きなことお互いにしていこう。お互い好きなことをして、もしそれが失敗したとしても、お互いに後悔はしない。修正できることは修正し、直せないことは、まぁそのままでいいんじゃないかな。
そこまで難しく考える必要なんか無かったんだ。
難しく考えるからこそ難しくなる。世の中そんなものでしょう。
ドッペル・デュールされたからってその法則は変わりはしない。
だから私はウェイトがすることに後悔はしない』
嬉しかった。
だから今思い出しても笑みが出る。
涙が出る。
「フィル」
擦れた声でウェイトは呼ぶ。彼女は「ん」と短い返事をする。
「ありがとう。
何度お前に救われてきたことか」
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「父上、俺が居ながら役に立てず、申し訳ありませんでした」
ヒューウェイは父親の前で、頭を下げた。
「今回で自分の力の至らなさを痛感いたしました」
「まぁそんなことは、ないんだけどね」
父上と呼ばれた相手は椅子に座り、肘掛けに肘を置き、口に手を当てていた。
「まさかナーザイナがこんな所で出てくるなんてね。彼はなんて言っていたって?」
「ウィーアリーを再建し、五大貴族を崩壊させる。そして平等の世界を作ると言っていました」
それに、とヒューウェイは続ける。
「フィルの中に居る、ウェイトと言う人物が、本当の名がクエートで、そしてロウディットがヘルトに似ているとも話していました。そしてウェイトの方もナーザイナ様を自分の知る人物によく似ている為、協力することはできないと」
「なるほどね」
「俺にはそれが理解することができずに聞いているだけしかできなかったのですが」
「いいやそれだけでも収穫はあるよ。我々は守らなければならない人物がはっきりしたのだから」
そう言って相手は立ち上がる。
「それは誰のことでしょう?」
「ロウディット・メルシリアだよ」
「ロウディットを?」
「私は直接彼に会ったことはないけれど、ナーザイナが似ている、と言っている人物は恐らく、我々にとっても、彼等にとっても重要な人物となってくる。
ナーザイナの所へ行ってしまえば、我々は滅ぼされると考えても過言じゃないはずだ」
「ロウディット・メルシリアとは、一体何者なのですか?」
ヒューウェイの質問に沈黙が流れた。そして言葉を選ぶ様に口を開く。
「彼の家系は、特別優れた者が生まれた家系だったな」
「確か百六十年前の英雄もメルシリアだったとか」
「それにナーザイナは彼を攫ったんだ。あいつが無意味なことをする人物ではないことは私が良く知っているよ」
そう言えば、とヒューウェイは口を開く。
「ナーザイナ様は一切歳をとられておりませんでした」
その言葉を聞いた父親は部屋を出て行こうとして、一瞬止まった。
そして一言「そうか」と言って部屋から出て行ってしまう。それについて行く。
「ドッペル・デュールでしょうか?」
「そうとしか考えられないな」
「一体どんな能力を」
手を口に押えながらヒューウェイが独り言を言っても彼は返事をしなかった。
「少し彼と話してくるよ。ヒューウェイは彼女の様子を見て行ってくれ」
「わかりました」
そう言って父親は部屋へ入って行った。ヒューウェイはフィルが寝ている部屋へと足を運んだ。
「目を覚ましましたか」
女性の声が聞こえてきて、フィルは起き上がった。少し頭痛がする。
「いきなり起き上がってはいけません。あなたは一週間ほど寝ていたのですから」
彼女の言葉にフィルは驚く。
「一週間もですか?」
「けれども仕方がないことです。ドッペル・デュールを無理矢理解除されて、さぞかし体への負担は大きかったはずですから」
その言葉にフィルは思い出す。
「そう言えばウェイトは?それに私が寝ていた間に何か変化はなかったのでしょうか?ロウディット様やヒューウェイ様は御無事なのでしょうか?」
大声で言うと部屋の扉が開かれる。
「ロウディットも俺も無事だ。お前が主に重症だっただけで」
「ヒューウェイ!」
彼が入ってきて、彼女はヒューウェイの所まで早足で近づく。そして彼は一歩後ろへ下がった。
「あなたは全く女性に対して礼儀がなっていませんね。女性に対してお前と言うなんてもっての外です。使用人にもお前など言っているみたいですね」
彼女に言われ、ヒューウェイは押し黙る。
「あなたは昔からそう!言葉遣いがなっていないわ。
言葉遣いは人を表わすものと何度も言ったはずですが。言葉が悪いとあなたの品質まで疑われてしまうのですよ。あなたがあなたの価値を下げるのですよ」
「わかりました。わかりました。申し訳なかったです姉上」
「姉上?」
フィルが聞き返すと、彼女はフィルへ向かい、一礼をした。その動作に無駄が無かった。
「これは失礼いたしました。私はウィアディリー家が長女、ノルワール・ウィアディリーと申します。
愚弟がお世話になっております」
「こちらこそ失礼した。まさかノルワール様とは存じ上げず」
そう言ってフィルも立ち上がり、一礼する。
「いいえ、最後にお会いしたのは私が幼い時のこと。面影があったとしてもお分かりにならないのも致し方ありません」
「姉上はフィルと会ったことがあるのですか?」
「ええ、十五年前程前でしたね」
「そろそろ話してもいいのではないかな?」
また部屋のドアが開かれる。そこにはロウディットと、ヒューウェイの父親が立っていた。
「まぁ父上。親子そろって女性の部屋にノックもなしに入って来るなんていささか失礼ではありませんか?」
そう言われ、彼は苦笑いをする。
「なんだヒューウェイもノックをしなかったのかい?いけないじゃないか。もし彼女が着替えをしていたら一体どうするつもりだったんだい?」
「それは父上も同じです」
とノルワールが言った。
「さて、本当に久々だね。フィル」
唾が悪そうにしているフィルに声をかけ、そして決心した様に口を開いた。
「ええ、本当にお久しぶりでございます。サーレテス様」
「ロウディット君も我々とフィルが面識があることに疑問に思っているに違いない。
でも説明をする前にもう一人、会ってはくれないか?」
「どなたでしょう?」
「ほら、隠れていないで」
そう言われ背中を押されながら入ってきた人物に目を疑った。開いた口が閉じないとはこのことだ。
「ウェイト?」
「ほらほら恥ずかしがらずにもっと近くに寄りなよ」
「恥ずかしがってなどない!お前は何故そう茶化す!」
「だって顔に恥ずかしいです~って書いてあるんだもん」
その二人のやり取りを見てノルワールは「何故仲良くなっているのかな?」とヒューウェイに小声で話しかける。
「いや俺に聞かれても…」
「どうしてこんなことに…?」
今までウェイトが自分の体から出てくることなどなかった。どういうことなのか、彼女は理解できなかった。
彼の記憶の中で話したあの姿。自分を否定していた彼が目の前に居る。
「フィルが混乱している様だ。最初から話そう」
そう言ってサーレテスは近くにある椅子に座る。
「さ、ウェイト話すんだ」
「俺が?」
「だってずっとフィルを見ていたんだろ?全て知っているのは君しかいないじゃないか」
「俺はお前にも説明をしたはずなんだがな…」
大きなため息をついて、話し始める。
「最初に言っておく。何故この様なことになっているのかは、俺にもわからない。
あの時一瞬で光に包まれて、目を開けた時は外に居たんだ。俺の精神ではなく、この世界にな。
獣の姿になった時のことは覚えている。精神が空気に触れるたびに激痛が走り、どうしようもできなかった。あの時何をするべきなのか、判断ができなかったのだ。
けれどもこの人の姿になって、空気に触れても痛みは走らない。そして俺はお前の体に戻ることもできる。実際お前の体を動かして、ベットに寝たのも俺だったからな。
その辺りは前と同じ様にすることができる。
そしてこうして二人に分離できたことによって、ツオバーとソーサリーが同時に使うことも可能になったと言う訳だ」
「本来ドッペル・デュールは別々の精神を一つの体に保有させる術のはずだよね?けれども一度強制的に解除させることによってより精神が混ざり合うと言った感じなのかな?」
「けれどもそれだと俺がここに存在できる原因がわからない。それなら一つの体から出ることはできないんじゃないのか?」
「結構この術は不明な点が多いからね。
さてフィル、いいやフィルチェイナ・アルヴィナル」
ロウディットサーレテスの言葉を疑った。アルヴィナル家とはドッペル・デュールを発明した、五大貴族の中の一つだったからだ。
「君の身に一体何があったんだい?」
その問いかけにフィルは目線をそらす。できれば…
「できれば話したくないのは私もわかっている。君がそして君の弟ツヴェルクが何も申告なしにアルヴィナルから去るなど、我々にとって信じられないからね。
けれども五大貴族が辛いからと言って何も言わずに出て行っていいものでもないことは、君でもわかっているだろう。
いや辛い言い方をしてしまったね。君だからこそわかっているだろう?」
「いえ申し訳ありません。どこから話せばいいのか迷ってしまっただけです」
そう言ってフィルは口を開いた。
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アルヴィナル家はドッペル・デュールを発明した貴族だ。
また他にもベルジゲルと言うツオバーとソーサリーの能力を封じてしまう、術も開発している。そのため五大貴族まで上り詰めたと言われている。それ程二つの術はこの国にとって繁栄をもたらしたのだ。
開発したのはアルヴィナル家の初代の当主だった。
しかし誰もがその正体を知っている者は居ない。ただわかっているのは名前だけ。
ブルート・アルヴィナル
それがフィルの家系だった。
フィルの本名はフィルチェイナ・アルヴィナル。アルヴィナル家の長女であり、そして彼女には弟が居た。
母は穏やかで優しく、そして父は厳しく威厳があった。異常なまでに。
物心ついた時からフィルもその弟も剣術を訓練していた。父が満足する剣術を取得するまで許さなかったからである。だから日々剣術の訓練をしていた。
その中でフィルの弟は体力が劣っていた。だからいつも父に厳しく叩かれていた。
「こんなことでへばっていてはアルヴィナルを名乗る資格など無いぞ!」
「も、申し訳ありません」
誰が見ても彼が限界であることはわかっていた。しかし父親は止めなかった。
「父上、御手合わせをお願いします」
そんな時いつもフィルが父親の意識を彼女に向ける様にしていた。
そうすることで彼の負担を軽くさせようとしていたのだ。
けれどもいつも一緒に訓練をしていた訳ではなかった。そのため弟一人で訓練している時は、血も涙もない程厳しくしつけられていたのだ。
これが貴族として生まれてきた者の宿命なのだ。
そう思うしかなかった。
そんな中、父親が遠征へ行った時のことだ。
母親が体調を崩してしまったのだ。
アルヴィナル家は異質な貴族だった。
使用人を一人も雇わなかったのだ。それは禁書が屋敷に収められている為、アルヴィナルの秘密が漏れるのを恐れたためだ。
これは初代から受け継がれていると言われている。
だからフィルと弟で看病をした。
医者を呼ぼうと提案しても母親は首を横に振るばかり。どうすればいいのかわからず弟は母親の近くで声を出して泣いていたのだ。
「お願いよ。泣かないで」
母親は力弱くそう言う。フィルも耐えきれず、弟の頭に手を置いた。
「フィルチェイナ、ごめんね。私の我儘を聞いてくれて」
そう言われフィルは黙って首を横に振る。
「医者にも結局わからないことはわかっているわ。ただ私の適性ではなかっただけ」
「適正、とはなんですか?」
「いいえ、私の独り言よ」
「ははうえ、おげんきになってくれますよね?」
彼にとって母親が居なくなってしまうことはあまりにも辛いことだろう。容易に想像できた。
姉の次に弟を助けてくれるのは、この母親だったからだ。笑顔で彼の傷を治していた。
「ごめんなさい。それはかないそうにはないわ…」
「そんなっ母上」
動揺したのはフィルだった。彼女も同様に母親が大きな存在だったからだ。
「辛いことを言うわ。けれどもあなた達に期待をさせ、後で絶望される方が私にとって辛いから…我儘な母親ね」
「そんな、そんなことありません」
「ぼ、ぼくもっといいこになるから、いいこになるから」
弟は身を乗り出して、母親に顔を近づけた。
そして優しく頭に手を乗せる。
「いいえ、あなたはいつもいい子で可愛らしい私の息子よ。ただ一つよくなかったと言えばこの家に生まれてきてしまったこと」
母親がそんなことを言うなんて、フィルは驚く。
「私はあなた達みたいないい子が生まれてきて幸せだったわ。そして結婚する前まで幸せだった」
「だった…?」
何を話し出すのか、フィルは少し不安になる。
「あの人は突然変わられてしまった。結婚する前まではとてもとても優しい方だったのよ。けれども正式に結婚をし、アルヴィナルの当主になった瞬間、変わられてしまった。
まるで同じ顔をした人が性格だけ変わった様に。
それから実験を繰り返す日々。あなた達が生まれてくるまで私は一人ぼっちだったわ。
けれどもあの人の標的は私からあなた達に変わってしまった」
母親はそこで弟の頬を撫でる。
「あなたが一番辛い思いをしているわね。助けられなくて本当にごめんなさい」
「そんな、そんなこと」
「フィルチェイナ」
そう言って母親はしゃがむ様に手を動かす。そのままフィルは床に膝をついた。
「あなたもあの人の様には全く似ず、優しい女性になってくれてありがとう」
「そ、それは母上が優しさとはと、教えてくださったから今の私が居るのです」
フィルは涙が出そうになるのを我慢しながら話す。一言一言発する度に涙が出そうになるのだ。
「そう。私の言うことをきちんと守ってくれていたのね。
本当にありがとう。
本当に、私の娘として、息子として、生まれてきてくれてありがとう。そしていつも助けてくれてありがとう。あなたには感謝しているわ。
できればあの人を救いたかった。なんとしてでも、救いたか…」
最後まで言うことなく、母親の手がパタリと崩れ落ちた。
「ははうえ?」
弟が力強く母親の体を揺さぶる。しかし彼女の目は開かれることはなかった。
「ねぇははうえ」
その弟の姿を見て、フィルはついに涙を流す。彼女はもう母親が目を開けて微笑んでくれないことを知っていたからだ。
「めを、あけてください。ははうえ、ははうえぇ」
それは突然起こった。
今、目の前にあった母親の体がパサリと音を立てて一瞬にして砂に変化してしまったのだ。
フィルはそれを見た瞬間、目を見開いた。そして弟は声をあげて泣くのを止めた。
「母上?」
「はは、うえ?」
二人がそう呼びかけたのは同時だった。
訳がわからなかった。死んだ遺体は普通砂になることはない。
そして彼女が寝ていた胸の辺りには、黒い箱が置かれていた。それをフィルが拾い上げる。
これはなんだ?
この吸い込まれるぐらい真っ黒なこの、箱は。
母上が寝ている時はこんな物なかったはずだ。あったら母上の体は不自然に浮き上がっているはずなのだから。
「あ、あねうえ」
震える声で弟が声をかけられ、我に返る。
「ははうえ、は?」
その問いには答えられない。何故なら自分でも理解できなかったからだ。
理解を超えた現象が今目の前で起こったのだ。
フィルはそのまま黙り込むしかできなかった。
その次の日、父親は帰ってきていた。
忙しいのを、疲れているのを承知でフィルは父親の部屋のドアをノックした。中から声が聞こえてきて、中に入る。
「お忙しい所、申し訳ありません」
自分の妻の異常な死を聞いたはずなのに、彼は冷静を保っていた。その姿を見て、フィルは疑問に感じる。
「母上のことでもう一つ報告しておかなければならないことがありまして」
フィルの話を聞いているのか、いないのか。彼は書類に目を向けたままだった。
「母上が砂になった後、こんな箱が残されていました」
フィルが差し出すと、ようやく父親は彼女の方へと目を向ける。
「母上は何かのご病気だったのでしょうか?ご遺体が砂になるなど、私は今まで聞いたことがありません」
「ドッペル・デュールか」
「え?」
父親が初めて口を開き、低く小さな声で言った。
「いや何もない。それをこちらへ」
彼が手を差し伸べてきたので、黙ったままフィルは彼の手にその箱を置いた。
手に置かれた箱をじっくり見て父親は言った。
「今回は苦労をかけたな」
フィルは耳を疑った。いつもならば、そのまま部屋を出て行く様にと言うのだが、今回は労いの言葉をかけたのだ。
「い、いえ」
「あいつの様子はどうだろうか」
「まだ部屋にこもっています」
「そうか。フィルチェイナも早く寝る様に」
そう言われ、部屋を出て行こうとすると父親は再び声をかける。
「寝る前に暖かいのを飲むと良い。そうすればまだ寝られるだろうから」
「は、はい。お気遣いありがとうございます」
ドアの閉まる音がやけに大きく聞こえた。
父の優しい面を見られた。そこがとても嬉しかった。
しかし次の日にはいつも通りの父親に戻っていた。
この数日起こったことをウィアディリーへと報告しなければならなかった。その役目をフィルは任されていた。
父親はまた違う任務を担い、弟を連れて遠征をした。なのでアルヴィナルの屋敷はフィル一人しか居なかったのだ。それがやけに静かで、母親を失ってからまだ気持ちの整理をつけられていないフィルにとって屋敷に居ることは少し辛いものがあった。
周りを見渡しながら、ウィアディリーの屋敷を歩く。
「何かお困りですか?」
ウィアディリーの屋敷はやけに広かった。だからフィルは迷っていた。
そんな中で後ろから声をかけられて、振り返ると幼い少女が立っていた。隣には少女よりも頭一つ分大きい青年も立っている。
「アルヴィナル家のフィルチェイナと申します。サーレテス様にご報告があり、訪ねてきたのですが少し迷ってしまって」
「申し訳ない。当主、サーレテスは現在屋敷には居ないので、代わりにナーザイナがお聞きすることになりますが、よろしいですか?」
「それはもちろん」
「ではご案内致します。初めて来られる皆様はいつも迷われております。」
青年はにこやかに笑う。笑顔が良く似合う青年だった。
「お兄様、私がご案内します」
「いいや、お前にはまだ早いぞ」
そう言われると少女は頬をまん丸く膨らませ、黙った。その姿があまりにも可愛くて、フィルは笑う。
「失礼しました。ではご案内致します」
そのまま青年の後ろをついて行くと、数分歩いた所で「こちらです」と言い、ノックをした。
「フィルチェイナ・アルヴィナル様がいらっしゃいました」
「どうぞ」
ドアを開くと、そこに一人の男が椅子に座っていた。目の前机には大量の書類がある。
「ああ、今日来るって言っていたね」
「初めましてナーザイナ様。フィルチェイナ・アルヴィナルです」
「どうぞ。ご苦労だったなヴィルカーン」
その名前を聞いてフィルは驚いて振り返る。
「まさかウィアディリーのご令息だったなんて。失礼いたしました」
フィルは慌てて一礼をすると、ヴィルカーンは笑いながら「そんなことないですよ」と言った。
「隣に居ますが、妹のノルワールです。」
「ノルワール・ウィアディリーです」
彼女も一礼をする。その動きは洗練されていて、実際の歳よりも上に見える。
「とりあえず、どうぞ。ヴィルカーン、帰りも送って差し上げるために、外で待っていなさい」
「そんな滅相な…!」
「かしこまりました。叔父上」
そう言ってドアが閉められた。
「さて、アルヴィナル夫人が亡くなられたとか」
思いっきり椅子にもたれかかり、椅子がギィと悲鳴を上げる。
「はい。一週間ほど前に」
「若かっただろう?」
「四十三でした」
「そうか、そのぐらいだったな」
「今日はその報告をしに参りました」
「それはわざわざご苦労なことだったな。当主の方は相変わらずですか?」
「はい、今回は当主が報告しに行けず申し訳ありませんでした」
「気にすることではないさ。他に変わったことは?」
「ございません。お気遣いありがとうございます」
「そうか」
そう言ってナーザイナは目を伏せた。
「ところで一つ聞きたいのだが」
「なんでしょうか?」
「ドッペル・デュールは知っているか?」
「はい。我々の禁忌として封印されている術ですね。それが何か?」
「最近それが漏えいされている様なんだ。
異端者がツオバーなどの術で、一般市民を襲っているかなんかで。一応当主にも報告はしておいたのだが」
「いえ、父は何も言っていませんでした」
「そうか。娘には心配をかけたくないとのことなのか。まぁ注意を払っておいてくれ」
「かしこまりました」
「私からは以上だ。他には?」
「いいえ、ございません。では失礼します」
フィルが部屋から出て行った瞬間に、彼は頭に手を当てた。背中には冷や汗をかいており、気持ち悪かった。
「なんなんだ、この記憶は」
身に覚えがない記憶。
「なんなんだ。お前は」
毎晩出てくる記憶。
「誰なんだ。お前は」
そして最近は起きている時さえ、目の前をちらつかせる。
「俺は…」
彼は苦しんでいた。
「違う。俺は…」
この残虐な記憶に。
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その日は大雨だった。大粒の雨が街中を叩いていた。その粒は屋根に、地面にぶつかると跳ね、そして細かな雨粒となった。
雨のせいで昼間なのに、暗かった。だから気分が滅入っているのだ。そうフィルは考えた。
こんな時に限って、屋敷には自分一人だけだった。暗い屋敷は少し不気味だった。
何かしようにも何もする気が起きない。
これはきっと、雨のせい。
そう思って椅子に深く腰掛けた。
すると玄関の方から物音がした。玄関のドアにつけている鈴が鳴ったのだ。
一体誰だろう?
父は弟と一緒に屋敷を出て行ったはずだ。それに鍵はかけてあるはず。
そう思いフィルは立ち上がった。
不審者だったらどうしよう。
雨のせいで重たい気分になっているため、更に彼女の中の不安が大きくなる。
ドアの近くに立てかけている、剣を手に取り出ていく。
フィルの足が自然と早く動く。早くこの不安をどうにかしたいのだ。
そして玄関に着くと、そこにはずぶ濡れの自分の父親ともう一人見覚えのない少年が立っていた。
「父上。今日は遠征のはずでは?」
震えそうな声を押し殺してフィルは問う。しかし相手は何も言わず、屋敷の中へと入っていく。少年も一緒に、だ。
「父上!」
「少し黙れ」
低い声が聞こえてきた。今まで聞いたことがない声だった。
それでもフィルは黙らなかった。
「その少年は誰でしょう?私も手当てします」
「聞こえなかったか?」
「私の問いにも答えて頂かないと黙りません」
チッと小さく鳴った。
「なら仕方がないな」
そう言われ、彼は黒い箱を取り出した。母親が死んだときに彼女の体から出てきた物と一緒だった。
そして彼は服のポケットから紙を取り出して、黒い箱に乗せた。
そして思いっきりフィルの胸へとそれを押し付けたのだ。
何が起こったのか、理解できずフィルは床に倒れ込んだ。
呼吸ができない。吸おうと、吐こうとしてもどうすればいいのかわからない。
ただ聞こえてきたのは足音だけ。父親が目の前から去って行く音だった。
ダメだ。
どこかから声が聞こえてきた。
あいつを自由にしては、ダメだ。
けれど体が動かない。
お前だけは、お前だけは、許さない。
ブルート・アルヴィナル
その名は、父親の名前だった。
「ああああああああああああ!」
叫び声が聞こえてきて、フィルの目が開いた。
頭を手で押さえながら、立ち上がると屋敷の玄関だった。
そしてフィルは呆然としながら自分の手を見て、そして強く握りしめた。すると突然胸が痛みだす。
ダメだ。感情を今動かしては。
そう思い、大きく息を吸って吐く。
そしてゆっくりと剣を抜き、叫び声がした方向へと足を運んだ。
まだ体に入れられてから時間が経っていないはずだ。
なら激しく体を動かすのは危ない。
けれどあいつが居るんだ。
殺すなら、今しかない。
小さくドアを開くとそこは血の匂いが充満していた。中に居る人間は、動いても居ない。
そう思い大きくドアを開くと、父親が連れて帰ってきた少年が血まみれで立っていた。そして彼の姿は見当たらなかった。
「一体何があった?」
あくまでも感情を動かさないために、冷静に聞いた。しかし少年は何も答えず、呆然と立っていた。
仕方ない、とフィルはソーサリーを使う。
この少年は何かがおかしい。
ソーサリーのはずだが、何かが渦巻いている。異様な物が渦巻いて…
その瞬間、彼女は後ろを振り返り剣を自分の背後へと斬りつけた。
刃は相手の服を少し切っただけだった。そして相手を睨みつける。
「ブルート」
「こんなにも早く目を覚ますなんて思っても無かったよ。最短キロクなんじゃないかな?」
「お前、この子に何をしたんだ?」
「新しい術を開発したものだからね。その実験に付き合ってもらっただけなんだ」
「能力と関係することか?ソーサリーが一般の人よりも不安定になっている」
問いかけると低い声で笑い始める。
「さすがだな。本当にお前の能力は衰えることがないな。クエート」
「違う。俺の名はウェイトだ」
睨み返すと相手は呆れたようにため息をつく。
「名前などどうでもいいだろうに。まぁいい。その子をこちらへ」
「渡すと思うか?そしてお前をむざむざと生かすと思うか?」
「なんと物騒な」
そう言った瞬間に相手に斬りつける。相手の肩から腹に向けて血が出る。さすがに笑っていた相手も顔を歪めた。
「ふざけるな!お前のせいでまた犠牲者が出た!この少年はお前のせいでソーサリーが使えなくなってしまうかもしれなくしやがって!」
この国でのツオバー、ソーサリーが使えない者に対しての仕打ちを知っているからこその言葉だった。
「お前はここで朽ちるべきだ」
「はっ……はは、ははははは!お前も知っているだろうクエート。ドッペル・デュールをした人間を殺すことなんてできない、と」
彼の口から大量の血が吐き出される。その様子をクエートは冷ややかに見ていた。
「黙れ!」
そう言って剣を向けた時だった。全身に激痛が走ったのだ。そしてクエートは床にへたり込んだ。
「今の状態で感情を不安定にさせれば、その体がどうなることなどわかっていただろう。
それを忘れさせるまで俺に再会できたことが嬉しかったのか」
「だまっれ…」
クエートは息を荒くさせながら、言い放つ。
「さぁ俺は死んでないぞ。どうするクエート」
相手はゆっくりと立ち上がった。
そしてゆらりと立ち上がり、剣を振りかぶった。
もう体は動かなかった。動くことができなかった。
どうすることもできない。
俺は、ただ無駄にこの体を殺してしまうんだ。
『いつも助けてくれてありがとう』
ふと声が聞こえてきた。様な気がした。
『あなたには感謝しているわ』
前の体の主の最期の言葉だった。
そこでクエートの、ウェイトの目の前が真っ暗になった。
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彼がフィルの体に入った時の記憶はここまでだった。
「なん、だと」
彼の意識は暗闇へと落ちて行き、相手の体は動かないと思っていた。それが相手の慢心だった。
「何故、動いている?」
だから彼は理解できなかった。彼女が起き上がり、持っていた剣を彼の喉に刺していた、そのことが。
そして髪と髪の間に見えるその瞳に見覚えがあった。
彼はその目が嫌いだった。
真っ直ぐ前を見つめ、自分が辛い時でも他人を助ける優しさ。
自分が正しいと思ったらそれを曲げない頑固さ。
嫌いだった。
自分が操ることができなかったから。
だから彼は操る標的を弟に変えたのだ。
「フィルチェイナ」
ゆっくりと父親の手が彼女の頭へと伸びていく。
そして優しく叩く。
「すまなかったな」
瞬時に彼女は彼の喉から剣を引き抜いた。その衝撃で、彼の体は一歩前に出て後ろへ倒れた。
彼女は何も言わずに俯いたままだった。
呆然としており、何も考えられなかった。
自分が今父親を殺したことも、自分がドッペル・デュールをされたことも、理解できなかった。
そして目の前には砂と、真っ黒い箱が残されていた。




