天使の羽
翌朝目覚めた私は、ベッドの下に脱ぎ捨てられているナース服をハンガーに掛けた。その後、ミワが起きる時間に部屋が暖まる様、エアコンのタイマーをセットする。
そして、ミワを起こさない様に注意しながらキスをして部屋を出た。
今日は木更津の駅前に有る本屋まで行き、本を買う予定だ。
私が午前中に散策に出るのは、ミワをゆっくりと寝かせてあげる為に行っているのだ。スナックCPでの、夕方から夜中までの仕事はかなり大変だろうと思う。
客として行っても、開店から閉店まで居たら相当疲れるだろう。ミワ達は客の相手をするわけだから、その疲労はかなりなものだろうと想像出来る。
その上、家に帰ってからも、私に気を使っているのだから……。せめて午前中くらいはゆっくりと寝かせてあげたい。
本屋では、内容も作家も知らないけれどタイトルが気に入った本を三冊と、木更津周辺の観光本を買った。
目に付いた喫茶店でモーニングサービスのトーストとサラダとコーヒーで腹ごしらえをしていた。
ここは最近流行りのカフェと呼ばれる所では無く、昔ながらの喫茶店だった。私はトーストを食べ終えると、ゆっくりとコーヒーを飲みながら時間の流れを楽しんでいた。
店内には様々な客が、思い思いの時間を過ごしている。全体の時間はみな同じ速度で流れているはずなのに、個々の時間の流れる速度はそれぞれ違う様だ。
喫茶店に入って来たサラリーマン風の客が、注文した品が出て来るのをイライラしながら待っている。この後約束でも有るのだろうか?
彼の個人的時間はかなり速度が早いようだ。注文してから食事が出てくるまでの時間がとても長く感じてイライラしているのだろう。
全体の時の流れよりも自分の時の流れが速いため、大して待たされていないのに、長時間待たされた気になってしまうのだ。
出て来た食事を食べ終わった彼は、腕時計で時間を確認した後、ゆっくりと煙草を吸いながらコーヒーを味わっている。どうやら約束の時間まで、まだ余裕があることに気付いたようだ。
時間に余裕が有る事を知った途端、彼の個人的時間は速度を落とす。彼の心にも余裕をもたらしたようだ。
窓際の席には若者が一人でコーヒーカップを見つめている。
私が喫茶店に入って来た時には、すでに窓際の席に座り、ソワソワと時計を確認していた。彼女とでも待ち合わせをしているのだろうと思い、観察をしていたのだ。
彼女が来るまでの間は、個人的時間速度は速く流れている様だ。もう何十分も待っているつもりなのだろうが、個人的時間よりも全体時間はゆっくりと流れているから、二分毎に時間を確認してしまう。彼が五回目の時間確認をした時、彼女らしき女性が彼の前に座った。
どの様な関係なのかは解らないが、彼女は二十分ほどの滞在で喫茶店を後にした。たぶん電車かバスの時間待ちの間に、彼との時間を設けたのであろう。
彼女が喫茶店に居る間の彼の個人的時間速度はとても遅い流れになっていたのだろう。客観的時間は二十分ほどだったが、彼の時間ではほんの数分位しか経っていなかったのだろうと思われる。
彼女の後姿を見つめる彼には、明らかになごりおしそうな空気が漂っていた。彼にとっては、やっと彼女が来たと思ったら、あっという間に帰ってしまった様に感じているのだろう。
また以前読んだ『ゾウの時間 ネズミの時間』を思い出していた。
動物はその大きさによって、それぞれの時間を持っているらしいが、人間は大きさとは無関係に、心の状態で個別の時間速度を持っているのだろう。
人間も動物である以上、当然身体の大きさによる時間の速度を持っている。その上客観的な時間の流れを脳で意識しながら、心ではそれと相違する時間速度を感じているわけだ。
常に生物的時間と社会的時間、そして心理的時間と言う三種類の時間の流れの中で生活をしなければならないのだ。
だとすると、人間とは生きて行く事がとても難しい生き物では無いのだろうか?
私は私の中の時間を楽しんだ後、喫茶店を出た。ミワが起きる時間にはまだ早かったので、周辺を散策する事にした。
本屋で買った観光本に依ると、ここ木更津には『しょうじょうじ寺のたぬきばやし』のモデルとなった寺が有るらしい。
♪しょ、しょ、しょうじょう寺、しょうじょう寺の庭は、つ、つ、月夜だ、みんな出て、こいこいこい♪ と言う童謡のモデルだ。
誰もが子供の頃にうたった童謡の舞台がこの木更津に有るらしいのだ。これは行ってみるべきだと思い場所を確認すると、ミワと初めて会った日に泊まったラブホの裏に有るらしい。
寺は證誠寺と言うそうで、ここの和尚とタヌキの伝説を聞いた野口雨情が作詞したそうだ。
證誠寺はラブホテル脇の道を入って行ったところにあった。有名な童謡のモデルになったくらいだから、大きな寺かと思ったが、意外に小ぢんまりとした寺だった。
観光本に依ると庭園には萩や山吹が……、と書かれていたが、私は植物の知識にも乏しく、どれが萩でどれが山吹かも解らなかった。
境内には、和尚とタヌキの物語の中で腹が破れて死んでしまった大ダヌキの墓が有った。
腹が破れてしまうほど叩き続けるタヌキの精神状態とはどの様なものだったのだろうか?
物語の中では、タヌキ達は楽しそうに腹鼓を打っていたようだ。その宴に和尚が乱入した為、負けてなるかと頑張り過ぎた為に大ダヌキの腹は裂けてしまったのだろう。
もしも和尚が乱入しなければ、大ダヌキは腹を破ることなく一生を過ごせたのでは無いのだろうか? 結果的には、和尚が大ダヌキの生を終わらせたのではないのだろうか? 少し穿った想いを抱えたまま、證誠寺を後にした。
帰り道、スーパーマーケットに寄って、食材を買い込んでからミワの部屋へと帰った。
ミワはまだ寝ている様だったが、私は食事の用意を始めた。ご飯を炊き、味噌汁を作った。
おかずは豚肉のしょうが焼きと千切りキャベツとほうれん草のゴマ和えだ。ほとんど料理を作った事の無いオジサンであることを考慮に入れれば、出来すぎの食事だろう。
ミワの様子を見に寝室へ入った。エアコンの温度設定が高過ぎたのか、ミワはふとんを掛けていなかった。
カーテンの隙間からこぼれた陽の光が、うつ伏せに寝ているミワの白い背中に当たっていた。その光は、ミワの背中から生えた天使の羽の様に見えた。
その姿の美しさに、私はつい見惚れてしまっていた。
「いつまで見ているつもりですか? ハジメさんって結構エッチですよね」
ミワは寝たふりをして、私が寝室に入って来るのを待っていた様だ。それがまた可愛くて、抱きしめたくなったけれども思いとどまった。精一杯の冷静さを装って言った。
「ご飯の用意が出来たよ。起きておいで」
「はーい」
ミワはそう言って起き上がり、素肌にトレーナーを着て立ち上がった。
ダイニングテーブルに用意された食事を見て、ミワが歓声をあげた。
「ハジメさん、すごい! 独り暮らしを始めてから一番の朝ごはんですよ!」
「それほどの料理じゃ無いよ。でも、喜んでもらえて光栄だな」
ミワと私は楽しく食事をした。食事をしている間も、トレーナーだけのミワが気になって仕方ない。ミワの言う通り、私は結構エッチなのかも知れない。
「今晩、スナックCPに行っても良いかなぁ」
「もちろん良いけど……。急にどうしたんですか?」
「私の事を店の人達に話したのなら、一度顔を出しておいた方が良いかなと思ってね。知らん顔をしている訳にもいかないだろう?」
「ハジメさんって、エッチなわりにマジメなんですね」
「エッチなわりにっていう事は無いだろう!」
「フフフ」
ミワは時折、妙に色っぽい笑顔を見せる。いつもの可愛らしい笑顔と比べるとまるで別人だ。ミワの中に全くの別人格が存在するのではないか? そう思う事が有るくらいだ。
ミワが食事の後片付けは自分がやると言うので、任せる事にした。トレーナーだけの姿で、キッチンに立ち食器を洗っている。私はそんなミワを後ろから眺めていた。




