第9話 君を選んだ
イルシオンのポラール生活が始まった。彼女は正妃やマナー講師たちによる妃教育を受けながら、お茶会や夜会などに少しずつ参加していく予定となっていた。
クラロは夕食後の時間、必ずイルシオンと話すようにした。たわいのない雑談から、空想遊びまで。
「大きなプリンの山があるの!」
「なるほど、かなり大きいな。ならそのプリンは固めだ。プルプルしているが、簡単には崩れない。トランポリンになるぞ」
次の日も。
「中庭のお花が咲いていたのよ」
「あそこか。……気がつかなかったな」
「後で見に行く?」
「悪くない」
その次の日も。
「……ペガサスは見たことあるか?」
「……どんな生き物?」
「白い馬で、羽が生えている。体重は非常に軽いな」
「……乗れる?」
「羽が大きい種類なら。羽ばたきが力強いから、乗っているとより風を感じるぞ。しっかりしがみつく必要があるな」
「……へえ、楽しそう」
クラロは静かにイルシオンを見る。彼女の視線は伏せがちで、所在なさそうにカップをいじっていた。
「……イルシオン?」
「……私、ちょっと疲れちゃったかも」
クラロは立ち上がり、カップに紅茶を注いだ。
「……いい匂い」
「……よかった」
二人の間に沈黙が落ちる。イルシオンはしばらく揺れる液面を眺めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……ねえ、クラロ」
「どうした?」
「……私がここにいるのって、同盟と……珍しい祝福だから……よね」
クラロの動きが止まる。彼は小さく息を呑んだ。
「……確かに、父はそう選んだ」
「……やっぱり」
彼女はため息のような笑いをこぼす。彼は彼女の小さな手に、そっと自身の手を重ねた。
「……だが。私は、イルシオンがいい」
「……え?」
クラロは微笑む。
「『正解』しかなかった私に、『楽しい』を教えてくれたのは、イルシオンだから」
「……嘘だ」
彼女の声が震える。
「嘘ではないぞ」
彼はイルシオンの目を見た。沈黙が落ちる。
「……じゃあ、証明して」
「分かった」
クラロはそっと立ち上がると、イルシオンの瞳にそっと触れる。
「今、私の祝福を貸した。……そういうことにする」
……本来、祝福は他人に貸せるものではない。でも、できたことにする。
彼は彼女と視線を合わせ、ゆっくり瞬きする。『真実の祝福をもつもの』の前で、わざと無防備になる。この場で嘘をつく意味は消えている。
「私は君を選んだ」
彼女は視線をそらせなかった。秒針が進む音がする。
永遠にも感じられた刹那のあと。イルシオンはゆっくりと口を開いた。
「……私、信じるわ」
虚言が共有されない。彼女は嘘をついていない。クラロはふぅ、と息を吐いた。
「……ありがとう。……うれしいものだな、信じてくれる、というのは」
イルシオンは机に肘をついて笑う。それを見て、彼は表情を緩めて息を吐いた。
「……イルでいいぞ」
「え?」
「一人称。変えたいなら止めはしないが……」
「……だって、正妃様が『クラロの弱みになる』って……」
彼女は視線を下げる。
「……やはり、そこか」
「え?」
「……何でもない。こっちの話だ」
クラロは一度目を閉じる。次に開いたときには、力強い光が宿っていた。
「その程度で揺らぐ立場にはしない。……だから、好きにしていい」
イルシオンは目をきょときょとと瞬きする。そして、柔らかく微笑んだ。
「分かった。イルに戻すね。……『私』だと、ちょっと窮屈だった」
「そうか。……紅茶、冷めてしまったな。新しいのを淹れよう」
「じゃあ、ミルクティがいい。……砂糖も入れてくれるとうれしいな」
「分かった。いくつがいい?」
「うーん、三つ」
「……太るぞ」
「クラロ、デリカシーがない!」
湯気が立ち上る。笑い声が響く。紅茶を淹れながら、クラロは一瞬だけ、眉間にしわを寄せた。
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