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第3話 『私』とは、なんだ?

 帰国後、クラロは十年前の記録を漁った。


「……ノーチェ王女が祝福を発動させたのは、アルバ王子を襲ったあの日か……」


 動機として挙げられているのは、子供の癇癪。……子供?


「……子供が祝福を暴走させることは、当たり前のはずだ」


 ディーア王国との記録を確認する。


「……妙だ」


 彼は思う。やり取りがおかしい。ポラール王国側が異常に下手に出ている。これではディーア王国も問題を大きくせざるをえない。


「……ノーチェ王女が故意に襲った。そう言い出したのは、誰だ?」


 当時の証言を漁る。証言者の経歴や役職を漁る。当時の人事配置図を漁る。貴族名鑑を漁る。そうして、クラロは一つの名前に辿り着いた。


「……正妃」


 ……ノーチェは使用人からの扱いが非常に悪かった。王宮の奥向きの人事権を持つのは正妃だ。


「……彼女はノーチェ王女のことを『呪われた姫』と称していたが……。呪っていたのは……」


 本を閉じる。……次の調査だ。クラロは本棚へ歩み寄り、迷いなく心理学の本を抜き取った。


「……ルナリア王女の問題行動は、自傷だ」


 本をめくる。自傷のメカニズムを読み解く。


「……ストレスの発散……」


 ストレスの発生条件を確認する。気温、人間関係……。彼は『常に微笑みを浮かべなさい』とルナリアに声をかける正妃の姿を思い出す。


「……抑圧がストレスの根本原因と推測されるな……」


 ルナリアの姿を思い出す。


(……彼女は割と衝動的に動く癖がなかったか?)


 感情の抑圧による症例を漁る。適応障害、抑うつ症状、不安障害、自傷行動、解離行動、強迫傾向・完璧主義、……破滅願望。


「……ルナリア姫の逸脱は、環境が引き起こしたのか……」


 王女二人の問題行動には、正妃が関わっていた。そう結論づけた彼は自室に帰る。離宮に戻った瞬間、正妃はクラロを抱きしめる。


「……お願い。あなたは、あの人に価値を示し続けて……。でないと、ここで……生きていけない……」


(……価値?)


 クラロは父王の言動を思い出す。要か、不要か。使えるか、使えないか。価値があるか、ないか。

 ……正妃が歪んだのは、父王のせいではないか? そんな推測が、彼の頭によぎる。


「……王室の崩壊を引き起こしたのは、王……」


 崩壊を引き起こした価値観が、ただ唯一の正解? そんなことがあるわけがない。


(……なら、『正解』は? 私が信じ、私を形作った『正解』は?)


 クラロの足元が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。





 彼はその日から、何も判断できなくなった。


(……現状ではB案が……。いや、待て。……これは父王の価値観だ。……正解ではないとわかった基準を、判断に使用していいのか?)


 印籠を持つ手が止まる。書類仕事をしていても、会議に参加しても、出せる結論は『保留』。書斎のデスクに、未決済の書類の山が築かれていく。


(……なぜ、判断ができない?)


 彼は静かに思考する。以前の判断を思い出す。父王の『正解』、父王の合理、父王の価値観。


(……私は今まで、私の意思で判断していたわけではなかった?)


 彼の手が震える。

 祝福を暴走させるノーチェの姿が頭によぎる。祝福の暴走は、感情が引き金となる。


(……私には、暴走させるほどの感情がない)


 衝動のまま自傷を繰り返し、純潔を捨てたと告白し、城を出奔したルナリアの姿を思い出す。


(……私には、飛び出していけるほどの衝動がない)


 クラロは乾いた笑いをこぼした。


「……そうか。私には、何もないのか」


 指先から力が抜ける。


「私はどうすればいい? 何をすればいい? 『私』とは、なんだ? ……誰か、教えてくれ……」


 クラロは小さく呟く。その呟きは誰にも聞かれず溶けていった。





「ねえ、知ってる? 空には天使の梯子がかかるのよ? 光に包まれて、天使が歌いながら降りてくるの」


 その瞬間、クラロの脳内に雲間から覗く光の筋が現れる。子供の姿をした天使たちが柔らかな童謡を歌いながら、手を繋いでくるくると舞い踊る。クラロは顔を上げた。目の前には、ガーデンテーブルに肘をつき、笑顔を浮かべるクラロの婚約者、イルシオンがいた。

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