第9話 悪魔と古書店
リリスが修道院から帰ってきてからしばらく経った。
外では厳しい冬の寒さがほどけて、春の兆しが感じられるようになっている。
リリスは、あの事件以来、家の中でじっとおとなしくしていた。
ありとあらゆる分野の本が並ぶ、ベルの本棚の本を手にとってみたり(聖書はさすがになかったが)、彼がつくった精巧なボトルシップを眺めてみたり。
ベルが提供する紅茶や食べ物を、リリスは拒まなくなった。彼に用意された寝床で、眠るようになった。
「どうです、何か欲しいものは見つかりましたか」
生活が落ち着いてきた頃合いを見てベルは尋ねてみたが、リリスは静かに首を振った。
「……強いて言うなら」
リリスの言葉に、ベルは思わず身を乗り出す。
「死んだあと、天国に行きたいです」
それを聞いたベルは、彼には珍しく露骨に嫌そうな顔をした。
そうだろうな、とリリスは思う。
悪魔の彼に意地悪を言ったつもりではなかった。ただ、生まれたときからずっと、死後の天国こそが人間の最大の幸福であると教えられてきたから。
そんな日々が続いていたある日、ベルはおもむろに立ち上がって、彼女に声をかけた。
「リリスさん、あまり家にこもってばかりでは、息が詰まるでしょう」
リリスが読書の手を止めて、ベルの顔を見上げた。
「私も王都での仕事があるので一緒に行きませんか」
ベルの仕事、ときいてリリスは戸惑った。
「王都での仕事……? 誰かの魂を取りに行くのですか」
ベルは首を横に振る。
「いえ、今日は古書店の仕事です」
「え、古書店……?」
「はい」
当然のようにうなずくベルにリリスは困惑した。
「な、なんでそんな普通のお仕事を?」
「人間観察も兼ねた私の趣味です」
「趣味……?」
リリスは理解が及ばず呆然としてしまう。
「本業のほかに息抜きできる趣味を持つのは大切ですよ。特に長命の悪魔の場合、退屈しのぎになりますので」
身支度を調えて、出発しようとしたところで、ベルがリリスを見下ろした。
「ああ、そうだ。あなたの、その髪と眼」
じっと見つめられてリリスはたじろいてしまう。
「な、なんですか?」
「あなたの容姿は人目を引くので、少し細工をさせてくださいね」
そう言って、ベルはリリスの頭に手をかざした。
何も痛くないし、感じない。特に変わったことは起こっていないように見えた。
「何も変わっていないように見えますが、一般人から見たあなたは、鳶色の髪と瞳になりました。これであなたを聖女だと思う者はいないでしょう」
言われて、リリスは鏡で確かめてみたが、そこに映っているのは、いつもの、銀色の髪に紫色の瞳をした自分の姿だった。
「あの、どうして私には今までと同じように見えるのでしょうか」
ベルは肩をすくめた。
「必要といっても、自分の色を失うのはいい気はしないでしょう」
「え……あ、ありがとうございます……?」
一見すると優しく聞こえるベルの言葉だったが。
(でも、この人、数日前に……)
脳裏に浮かぶのは、水面の前で崩れるように叫んでいた修道女たち。それを見て嗤っていたベル。
(数日前にあんなことしておいて……?)
今は穏やかに微笑むベルに、リリスは逆に空恐ろしさを感じてしまった。
「さあ、行きますよ」
そんなリリスのことなど気にもとめず、ベルが円盤を回して扉を開ける。
扉の向こうは古書がずらりと並ぶ店内だった。
「すごい……」
思わずリリスは呟いた。しかし、すぐに鼻がむずむずして、小さくくしゃみをする。
薄暗く小さな店がまえの古書店は、本は整然と並んでいるが、少し埃っぽい。
「ああ、しばらく来ていなかったので埃が積もってしまいましたね……」
ベルが珍しく眉をひそめた。
「本は魔法で劣化から守っているので問題ありませんが、店に保存魔法をかけていませんでした……ほんの数年放っておくだけでこうなるとは」
これだから人間界は……とこぼしながら、いつになく苛ついている姿に、リリスは吹き出しそうになった。
しかし、改めて振り返ってみると、ベルが部屋を掃除しているところを、リリスは一度も見たことがない。部屋は不思議と塵一つ落ちておらずいつも清潔だった。
「ベルさん、お掃除したことないんですか?」
「魔界では埃がつもるということが無いので……今の家も埃がつもらない設計ですから、使ったものを元の場所に戻しさえすれば掃除の必要がないのですよ」
それは便利だ、とリリスは思ったが、それ故、ベルは埃がつもった店をどこから手をつけていいのかわからないようだった。万能の魔法が使える悪魔が、掃除の手順はわからないなど、妙に滑稽でリリスはふと顔が緩んでしまう。
「お掃除しますよ。ベルさんは座って待っていてください」
「はい? いや、しかしあなたにやっていただくわけには」
「任せてください。こういうの得意です。修道院で毎日やっていましたから」
リリスは、エプロンと三角巾をつけて言った。
「はたきと箒と雑巾をください」
「では、あなたの欲しいものを提供したら契約成立で」
「え」
「冗談ですよ」
ベルからはたきと箒を雑巾を受け取ると、リリスはまず店の扉と窓を開けにかかった。
「わ……」
本当に王都の街だ、とリリスは驚く。
離れて見える王宮と大聖堂は、青空の下で白く輝いていて綺麗だった。あれほど辛いことがあった場所だというのに。
「……リリスさん?」
「いえ、なんでもありません」
リリスは首を振ると、手際よく店を掃除していく。
棚の埃を払い、箒で床を掃き、雑巾で床を磨く。
ベルは、奥で本を読んでいるが、時折リリスに声をかける。
「箒とはそのように使うのですか」
「箒、見たことありませんでした?」
「魔女が乗っているところしか見たことがありません」
それから数分後。リリスが床を磨き始めると。
「床も磨くとこれだけ変わるのですね」
感心したように言う。
「ベルさん、今まで人間界ずっと見てたんですよね? 掃除している人間を見たこともありませんでした?」
リリスが尋ねると、ベルは少し考えてから首を振った。
「私と契約する人間が、掃除をしているのを見たことがありません」
……なるほど、悪魔と契約するほど追い詰められた人間は、掃除をする余裕が無いのかもしれない。
「じゃあわたし、これから毎日掃除するようにしますね……」
「今何か余計なことを考えませんでしたか」
「いいえ!」
ほどなくして、店はぴかぴかになった。小さな店なので、修道院の掃除よりも遙かに楽だった。
「……驚きました」
ベルは素直に言った。
「何か対価をお渡ししなければなりませんね」
そんなつもりなど無かったリリスは慌てて首を横に振る。
「いいんです、対価なんて」
「しかし、私は悪魔ですので」
そう言われてもリリスは困ってしまった。
「その……ベルさんには、家に住まわせていただいてますし。日頃のお返しです」
これ以上粘っても無駄だと悟ったのか、ベルはため息をついた。
「わかりました、ではお茶とお菓子でもどうぞ。奥で休憩していてください」




