第10話 町の人々は先代聖女に気付かない
開店中、の札を出しはしたものの、古書店を訪れる人はわずかだった。
分厚いめがねをかけた学生がふらりと入ってそのまま何も買わずに出ていったり、恰幅の良い男性がしげしげと背表紙だけを眺めて帰っていったり。
「こんなに人が少なくて大丈夫なんですか?」
「生活費を稼ぐのが目的ではないので大丈夫ですよ」
ベルは呼び込みをするでもなく、本棚の古書を読んでいる。
「リリスさんも好きな本を読んでいて構いませんよ」
「聖書は」
「ありません」
「ですよね……」
そんな無駄話をしているところに、ひとりの老人が現れた。
「おお、主人! ひさしぶりだなあ! 元気だったか?」
すでに小脇に本を抱えていて、いかにも本好きといった彼は、気さくにベルに声をかける。
リリスは店の奥からそっと様子をうかがった。
(あ、この人知っている……)
時折、腰の痛みを和らげてあげていた老人だ。
当然ではあるが、リリスは老人が苦しみに顔を歪めているところと、痛みがなくなって安堵した顔しか見たことがない。
古書を見る目が少年のようにきらきらしているなんて知らなかった。
「ちょっと野暮用がありましてしばらく留守にしておりました」
「しばらくなんてもんじゃないよ! 何年居なかったと思ってるんだい! しかし、あんたは全く変わらんな」
ベルと世間話を交わしてから、老人は一冊の巻物を鞄から大事そうに取り出した。
「これ、見てくれないか」
「……ほう、旧時代の巻物ですか」
ベルの言葉に、老人は興奮を抑えきれないように頷く。
「そうなんだよ! だいたいはわしも自分で調べたんだが、中にある叙事詩が難解でなぁ。解読してくれんかね」
「承知しました、お預かりしましょう。期限は?」
「急ぎじゃないから、ゆっくりで構わんよ。ただ、わしがくたばるまでには頼むよ?」
そう言われたベルは深刻な顔になった。
「では……なんとか三日で頑張りましょう……」
「おいおい、そんなに早くくたばってたまるかい!」
老人はカカカと愉快そうに笑う。
ベルもおかしそうに微笑んでいた。本当に冗談だったようだ。
リリスは、ベルは、人間が嫌いですべてを見下していると思っていたので驚いた。あんなふうに人間と和やかに話すこともできるのか。
ベルは老人と話しながら、古文書解読の契約書を書こうとペンを紙に滑らそうとして、首を傾げた。
「おや、インクが切れてしまいましたか」
ベルの声を聞いてリリスは立ち上がった。
「インクなら、私が買いにいってきます」
リリスがひょっこり店の奥から顔を出すと、老人が驚いてリリスを見つめた。
(え、バレた!?)
一瞬焦るリリスだが、老人は破顔してベルを小突いた。
「ご主人、誰だい? そのかわいらしいお嬢さんは! お前さんも隅におけないなあ!」
「彼女は店の手伝いに来てくれただけですよ」
「本当かねえ?」
本当にリリスの髪と眼は変哲のない鳶色に見えているらしい。
ベルはリリスに筆記具店までの地図と財布を握らせる。
「買い物のしかた、わかります? お店でお金を払って品物をうけとればいいんですよ」
まるで小さな子どもに言い聞かせるようなベルの口調。馬鹿にされている、と思ってリリスは少しむっとした。
「子ども扱いしないでください。買い物くらい一人でできます。……たぶん!」
足早にリリスが店を出ると、カランカラン、とベルが大きく鳴り響いた。
「手伝いに来たってわりに、買い物も不安な子なのかい?」
「少々世間しらずなところがありまして……」
ベルは少し困ったように微笑む。
「でも、良い子ですよ」
ベルがさらりと言ったことを、リリスは知らなかった。
街の人たちが、自分の姿を見ても気にとめる様子がない。
リリスは筆記具でインクを買いながら不思議な気持ちだった。
思えば、こんなふうに誰にも気にもとめられずに街を歩くなど、聖女になる前の子どもの時以来かもしれない。
聖女に就任してからは、仰々しく崇められるばかりだった。婚約破棄後は一転して石を投げられるので人目を避けながら歩いた。誰の気にもとめられずに外を歩くことが、こんなに心が軽いとは。
そんなふうに浮き足立っていたからだろうか。リリスは前方の人影に気づかずに、ぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい……!」
「痛えなあ、おい……」
二人連れの男はぶつかってきたリリスを睨み……リリスを見ると、少し惚けたように立ち尽くした。それから、ニヤリと笑う。
「なあ、君かわいいね?」
「俺らと一緒に遊ばないか?」
打って変わった猫なで声で、男達はリリスに近づいてきた。
「すみません、わたし今、おつかいで……」
リリスは、じりじりと後じさりするが、塀までおいつめられてしまう。
「そんなのいいじゃん、遊ぼうよ」
「あの、こ、困ります……!」
リリスが拒んだとたん、男たちの表情が一変した。
「あ? 調子に乗るなよこのアマ!」
ぐっ、と手をつかまれる。
助けて、と言いそうになってリリスは慌てて口を押さえた。
呼べば、ベルは飛んで来てくれるだろう。でも。そうしたら、また……。
顔を覆って泣いていた修道女たちの姿が脳裏をよぎる。
黙り込んでしまったリリスを見て、男達はにやりと笑った。
「へへ、大丈夫だよ、優しくするからさ」
男がリリスの腕を引っ張って連れて行こうとしたところで。
ゴッ
鈍い音がして男の体が横に吹き飛んだ。
「へ」
残った男が間の抜けた男を出す。
黒い人影……いつのまにかベルがそこに立っていた。
「何すんだてめえ!」
「はい?」
ベルが微笑んだだけで、男どもは凍りついた。猛獣に睨まれた小動物のように、何度も転びそうになりながら逃げていく。
ベルは微笑を消して無表情で男達の背中を見送ったあと、リリスを見下ろした。
「お怪我は」
「だ、大丈夫です! ありがとうございます!」
リリスは慌てて頭を下げる。
「……何故、助けを求めないのですか」
呆れたように言うベルの顔を見ることができず、リリスはうつむいたまま呟く。
「……私が、助けを求めたら」
リリスはぽつぽつと言った。
「ベルさん、きっとあの修道院の時みたいに……人に呪いをかけると思いました」
一瞬の間があった。ベルの困惑したような声が降ってくる。
「は? それがどうしたのです」
「嫌なんです」
リリスは、はっきりと言う。
「私が助けを求めるせいで、誰かが悲しい思いをするのは、いやです」
「ベルさんが、また人にひどいことをするなら、私は助けを呼びません」
リリスは顔を地面に落としていたのでわからなかったが、彼女の言葉に、ベルは面食らっていた。
「あれでもかなり譲歩したのですが」
「……」
「むしろあれは相応の報いでは?」
「……」
リリスは黙ってうつむいている。もう人を襲わないとベルの口から聞けるまでは、二度とベルと口をきかない覚悟だ。交渉しようとすればきっと言いくるめられてしまうから。
ベルは深々とため息を吐くと、観念したように言った。
「はあ……わかりました。もう呪いをかけたりしませんから、ちゃんと助けを呼んでください」
「本当ですか?」
リリスは顔を上げた。ベルが呆れたようにリリスを見下ろしている。
「ええ、あなたに何かあっては私が困ります」
呆れた様子のベルに、リリスの顔は明るくなった。
「……ありがとうございます!」
「はあ……理解ができません」
ベルはため息をつくと、リリスを連れて帰路につく。
店に戻って、古書解読の契約を結び終えると、老人はにこにこ笑っていた。
「いやあ、来週は楽しみだよなあ」
「何かあるんですか?」
リリスが尋ねると、客は眼を丸くした。
「嘘だろ? 世間知らずにもほどがあるぞ! 王太子様と聖女様のご婚礼だよ!」
ドキン、とリリスの心臓が凍り付いたような気がした。
テオは新しい聖女のアナスタシアと結婚する。当然のことなのに。いざ突きつけられると、息が苦しくなるようだった。
「彼女、ちょっと療養していたので少し世間に疎いんですよ」
ベルの言葉に、老人は納得したようだ。
「おお、そうなのかい。お嬢ちゃん、来週のご婚礼はきっと素晴らしいものになるぞ! 王太子ご夫妻の婚礼馬車が王都中を走るんだ!」
老人は、少年のように無邪気に笑っている。
「わしが最後に見た王家の婚礼は、国王様の三回目のご結婚だったから、かれこれ十年は前になる。こう言っちゃなんだが、今回は、テオドロス様もアナスタシア様も若くてお美しいから、さぞ見応えがあるだろうね」
「はい……きっと、そうですね……」
リリスの声が小さくしぼんでいることに老人は気がつかない。
「リリスさまも綺麗な方だったがな。まあしかし、王太子殿下、アナスタシア様、万歳だ!」
老人は陽気に笑って出て行ってしまった。
「……今日はこれで店じまいです。お疲れ様でした、リリスさん」
ベルの声に、リリスは無理矢理微笑んだ。




