第6話 悪魔の報復
「ベルさん……!?」
修道女たちの真後ろに、あの悪魔が――ベルが、音もなく立っていた。
「だ、誰!?」
「なんの気配も、なかった……」
怯える修道女たちに、ベルはにこりと笑う。
「お気づきにならないのも無理はありません。私、悪魔ですので」
修道女たちはさっと青ざめた。
「天におわします偉大な神よ、この邪悪な存在に天罰を――!」
修道女たちは慌てて、リリスから離した手を、胸の前で組んで、悪魔を祓う祈りの詠唱を始める。しかしベルはうっとうしそうにしているだけで、まったく効いている様子がない。
「下級の悪魔ならどうだかわかりませんが」
あきれたように肩をすくめる。
「魂が腐った聖職者の、言葉をなぞっただけの祈りなど、私には無意味です」
ベルは一歩一歩、ゆっくりと修道女たちに近づく。
目の前の紳士は、丸腰で、穏やかな笑みを浮かべたままであるのに。
修道女たちはじりじりと後ずさることしかできない。この男から目を離した瞬間、殺される――そんな緊迫感があった。
「な、何よ。食べるなら、そこの元聖女がいるわよ!」
「いいえ、今ここで彼女に手を出すつもりはありません」
ベルは、リリスを助け起こすと、言った。
「彼女の魂は、数百年に一度の、純度が高い極上のもの。私は契約して是非それを手に入れたいのです。まだ色よい返事はいただけておりませんが」
リリスを自分の背後にかばうようにして立って、ベルは言った。
「これは私の獲物です。それを傷つけようとするのなら……黙って見ているわけにはいきませんねえ」
ベルが口を開けて笑うと、人間には無い獰猛な牙と長い舌が一瞬姿をのぞかせた。
「ひい……!」
垣間見えたベルの獰猛さに、修道女たちが震え上がった。彼を見ているだけで、自分の足元にぽっかりと大きな穴が空いたような恐怖が、彼女たちを支配する。
「さあリリスさん、契約してくださるのなら、彼女たちに報復できますよ?」
ベルはリリスに振り返って言った。リリスの手元には、いつの間にか例の羊皮紙とペンがあった。
「彼女らを水責めにして爪を剥がし、舌を引き抜いて、気絶しないかどうか試してみましょうか?」
修道女たちは恐怖で顔を真っ青にしてふるふると首を横に振る。涙と鼻水でその顔は滑稽なほどぐちゃぐちゃになっていた。
「それとも、死をお望みなら、串刺しでも焼き殺しでもなんでも……」
「……しません」
「はい?」
聞き間違えたのかと思ったベルは、首をかしげた。
リリスは、震えながらも、ベルをまっすぐ見上げる。
「絶対に、そんなことはしません……ひどいこと、しないでください」
ベルは眉をひそめた。「ひどいことをしないで」というのはひどく曖昧で、魂と等価交換をする願いとしては不適格である。
何より、この性根が腐った修道女たちに報復をのぞまないリリスに困惑した。
「……承知しました」
ベルは不承不承、うなずいた。
修道女たちがほっと息をついた。
「しかし、極上の魂を傷つけようとした報いは受けてしかるべきでしょう」
続くベルの言葉に、修道女たちが凍り付いた。
「これは、私の個人的なお仕置きです」
赤い瞳が、修道女たちをとらえる。
「彼女に免じて、血が流れるようなことはしない。お前達は、己の魂と一生向き合って生きるがいい」
ベルが指を鳴らした。修道女と院長は思わず眼をつむった。
しばしの静寂が訪れた。
何も、起こらなかったように見えた。
修道女たちは恐る恐る眼を開ける。
「な、なんだ、口ほどにもない……」
「驚かせるんじゃないわよ」
震えながら立ち上がろうとして、何気なく、地面の水たまりを見た。先ほど、リリスに水をかけたときにできたものだ。
「きゃあああああ!!」
彼女たちはいっせいに悲鳴を上げた。
「わ、わたしの、顔……! わたしの顔が!」
修道女たちは己の顔を手で触って震えている。何がおきたのかリリスにはわからなかった。彼女たちの天使のような顔には、なんの変哲もないように見える。
「一体なにを……」
「先ほどの言葉の通りです。彼女たちには、己の魂の真の姿と一生向き合っていただきます」
ベルが、外套の中から巨大な鏡を取り出して、修道女たちに向ける。
「ぎゃあああ!」と修道女たちの悲鳴が上がった。
「彼女たちが見ているのは、己の魂の、ありのままの姿です。水や鏡に自分の姿が映るたび、その醜悪さにおそれおののくことになる。……ふふふ」
己の顔を覆い隠して泣き始めた修道女をベルは薄い微笑を浮かべたまま見下ろした。
「何がそんなに怖いのですか? 皮一枚剥がした真実の姿を見せてあげただけですのに」
リリスは、見ていられなくて思わず言った。
「そんな……かわいそうです。呪いを解いてあげてください」
「解くこともないでしょう。魂が美しくさえなればいいのですから」
ベルは三日月のような笑みを口元に浮かべた。
「あなた方の言葉で言うなら、『悔い改めなさい』ということです」
そう言われると、リリスはもう何も言えなかった。
「さて。帰りましょうか、リリスさん」
修道女たちの嘆きを一切意に介さず、ベルは軽やかに歩き出す。
リリスは逡巡した末に、ベルの後をついていったが、一度だけ、修道女たちに振り返る。
「神様のご加護がありますように」
心苦しそうに告げて頭を下げ、その場を後にした。
修道女たちは震え上がった。純粋すぎるリリスの言葉は、彼女たちにとっては、恐ろしく残酷で、皮肉めいた死刑宣告にしか聞こえなかったのだ。
ベルが路地裏のドアを無造作に開くと、彼の家に戻っていた。
「ずいぶん体が冷えてしまいましたね」
ベルが暖炉に向かって手をかざす。とマッチも擦っていないのに火がついた。
「これを手に塗るそうですよ」
ベルは、スズランが描かれた缶入りの軟膏をリリスに差し出した。
「治癒魔法ほどの即効性はありませんが、薬草を練り込んだものなのであかぎれくらいなら効果があるそうです」
リリスは遠慮がちに軟膏を指ですくってそっと手に塗り込んだ。
「あたたかいお茶でもいかがですか。街で買ってきたパンもありますよ」
リリスが応える前に、彼女のお腹がぐうと鳴った。
この日、リリスは初めてベルの紅茶を口にした。




