第4話 修道院生活とベルの仕事
リリスは、白くて固いベッドで眼を覚ました。
その硬さがむしろ懐かしくて、リリスはほっと息をつく。窓から差し込む日の光がまぶしかった。
「お目覚めですか」
年かさの修道女……修道院長がリリスの部屋を尋ねてきた。
「はい、助けていただきありがとうございます。……あの、ここはどこなのでしょうか?」
修道院長の話によると、ここはセントティアラの王都から遠く離れた田舎町らしい。リリスが育った院とはまったく違う地方だった。誰も旧知の人間がいないことが今は救いだった。
「ここがどこなのかもわからないとは、どういうことです?」
「実は……悪魔に捕まっていたんです」
リリスは正直に、これまでのことを話した。
聖女失格となって婚約は破談になり、元いた修道院にもいられず、湖に身を投げて神に身を捧げようとした。それを悪魔に攫われて知らない家に匿われていたのだと。
「それは大変でしたね」
修道院長は表情を崩さずに淡々と言った。
「ここは神に守られた場所ですからご安心ください。ただし、元聖女様だからといって我々は特別扱いは致しませんよ。慎ましく、清く正しい我々の仲間とおなりなさい」
「もちろんです……感謝いたします、院長先生」
リリスには願ってもないことで、心からの感謝で深深と頭を下げた。
「ではリリスさん、こちらへ」
言われるまま、リリスはひよこのように修道院長の後を追った。
「お、おはようございますっ」
リリスがすれ違う修道女に声を挨拶すると、修道女たちは一瞬驚いたようにリリスを見たが「……おはようございます」と返してくれた。
食堂に行くと、固いパンと野菜の切れ端が入ったスープに山羊のミルク。この質素な食事が、神に仕えている証拠のようでリリスはほっとした。
食堂に集ったのは、リリスと修道院長のほか、修道女は若くて美しい女性が三人だった。かなり小規模の修道院のようだ。
「皆さん、こちらは今朝早く、この院にたどりつきましたリリスさんです。同じ神に仕える者として、みな慈しみ合い、助け合いましょう」
修道院長は簡潔にリリスを紹介した。修道院に身寄りのない女性が助けを求めるのは日常茶飯事なので、新参者には根掘り葉掘り尋ねないのが普通だ。
「リリスさん、朝食が終わったら皿洗いと洗濯を頼みますよ」
修道院長の言葉に、リリスはいやな顔一つせずにうなずいた。
「はいっ」
文句ひとつ言わずに、真冬の冷たい水で洗濯をする。あかぎれの痛みに耐えながら、真っ白いシーツや修道女たちの下着や服を寒空の下に干していく。
「へえ、元聖女様って……王太子様の婚約者だった割には、雑用になれているんですねえ」
修道女たちはクスクスと嗤った。
「はい。皆さん、なんでもおっしゃってください」
リリスは、愛想よくにこりと微笑んだ。悪魔から逃げ出し、ようやく手に入れた居場所なのだ。ここだけは絶対に追い出されるわけにはいかない。
「じゃあ、鶏小屋と便所の掃除と、床磨きもお願いしますね」
「あたしたち『加護持ち』は、礼拝堂の埃を払って、人々に治癒を施して参りますから」
「はい……お気をつけていってらっしゃいませ」
修道女たちは、髪と肌を整えて、まっさらで綺麗な修道服に身を包んで歩いて行く。まるで天使のような可憐さだ。
一方リリスは、埃と灰にまみれ、手はあかぎれだらけでボロボロだった。
「ねえ、ちょっとやだ、あの元聖女、傷だらけよ」
「治癒魔法もろくに使えなくなったって本当なのね?」
「しっ、聞こえるわよ!」
「いいじゃない、便利な雑用係が一人増えたと思えば」
囁きあいながら、修道女達は出て行ってしまった。
リリスは何も言えずに彼女たちの背中を見送ると、ふう、とため息を潰えた。
「……さて、皆さんが帰ってくるまでに終わらせなくちゃ」
一方その頃、ベルはセントティアラ王国の都にある、とある屋敷を訪れていた。
屋敷の扉や窓には、差し押さえや借金の証文などが貼り付けられている。国税の督促状などもポストに溜まっていた。
ベルは呼び鈴も鳴らさず、壁をすり抜けて屋敷に侵入する。
高価な家具にも余すところなく差し押さえ状が貼り付けられているのを横目に、ベルは契約者の元を訪れた。契約者の男はこちらに背を向けたまま、朝から酒を煽っており、まだベルに気がついていないようだ。
「ごきげんよう。約束の期限になりました」
ベルが丁寧な口調で声をかけると、契約者の男は悲鳴をあげた。
「ひい!」
男は椅子から飛び上がり、床にへたり込む。顔面蒼白になってぶるぶる震えながら懇願する。
「頼む、待ってくれ! あと一週間、いや三日でいい!」
「いけません、お約束しましたでしょう?」
ベルは、ぐい、と男に近づいた。
「金持ちにしてくれと願ったのはあなたです」
「対価は毎月の支払い。そして払えなくなったら――魂をいただく」
ずい、とベルは男に顔を近づけて、にい、と笑った。
「そういう契約でしたね?」
「こんなはずじゃなかったんだ!」
男は震えて、頭を抱えている。
「はじめはうまくいっていたのに、事業を広げてもっと稼ごうとしたら、失敗して借金まみれになって……」
「そうでしたか」
ベルの微笑に向かって、男は怒鳴った。
「お前のせいじゃないのか!? 俺を破滅させるためにこんな!」
「なんでもかんでも私のせいにされては困ります。事業を始めたのはあなたの意思ですよ」
ベルは微笑みを崩さないまま、血のような紅い瞳で男を見下ろす。
「十分いい夢を見たでしょう」
「ち、ちがう……やっぱり、天国に行けないなんて、いやだ……」
おびえた男の言葉に、ベルはわざとらしく眼を丸くした。
「なんと。大の大人が、そんなわがままが通用するなんて、まさか本気で思っていませんよね?」
「う、うわあああああ!」
いきなり、男が短剣をふりかぶって襲いかかってきた。
ベルは、指先で短剣をつまむと、飴細工のようにぐにゃりと曲げた。
「ひい! そんな、聖印が彫ってあるのに!」
「残念でしたねえ、こんな形だけの聖印など、私にはまったく意味がありませんよ」
ベルは短剣をへし曲げてちょうちょ結びにすると、床に投げ捨ててしまった。
「代償を、いただきますよ」
ベルが男の頭に手をかざすと、男の眼はうつろになり、半透明の光の煙のようなものが、ふわりと男の口から飛び出した。
「あ、あああ……俺の、魂……」
男はその場に膝を折って倒れた。
ベルは手のひらの魂を一瞥すると、そのまま飲み込んだ。
「これにて契約は完了です」
にっこりとベルは微笑んだが、男は何の反応も返さなかった。
気力をなくし、廃人となった男をいっさい顧みず、ベルはその場を去ろうとして。
ふと、男の机を見た。
机の上には、大量の酒瓶のほかに、食べかけの食事の皿が置いてあった。
「ああ……私としたことが。彼女に朝食を用意しておくのを失念していましたね」
人間は、茶などの嗜好品のみではなく、生きるためには食べなければいけないことを、ベルはすっかり失念していたのである。
「何せ、人間を家に泊めることなど初めてですから……さて、何を用意しましょうか」
ベルは、何事もなかったかのように男の屋敷を出ると、ごく普通に街のパン屋へ向かった。「失礼ですが若い女性が好きな味はどれでしょう」とパン屋の女将に尋ねてみる。
「なんだい、お兄さん、恋人にあげるのかい?」
「恋人と言いますか……訳あって若い女性を家に保護することになったのですが」
「おやまあ! お熱いわね~!」
女将はニヤニヤとしている。
ベルはにこやかな紳士の仮面のまま対応した。
「しかし、女性を泊めるのは私も初めてのことですから。何を用意していいのかわからず……」
「あら、いい男なのに意外ねえ。じゃあ着替えは? 石けんは? 化粧品の用意はある?」
世話焼きの女将に教えられながら、ベルはパン屋でバターがたっぷり練り込まれたパンやさくらんぼジャムのパイを買い、必要そうな最低限の着替えと、女性用の基礎化粧品などを購入した。リリスのあかぎれだらけの手を、ベルは思い出した。
あの元聖女は、教会で抑圧された生活を送りすぎて、欲しいものが思いつけないことが問題だ。まずは手近なところから贅沢を覚えさせて、欲望を刺激してやらねばなるまい。
ベルは、王都の大通りから一本脇にそれた小道に入ると、その中のひとつの扉を無造作に開ける。開くと、そこは本棚が並ぶベルの部屋だった。
「ただいま戻りました」
ベルが買い物袋を抱えて帰宅すると、家の中はもぬけの殻であった。
「リリスさん……?」
ベルはドアの側の円盤をちら、と見た。扉の行き先がめちゃくちゃに弄られている。何が起きたのか、すぐにわかった。
「やれやれ……困りましたね」
そう言ってため息をつくベルの顔に、焦りは見られなかった。




