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第3話 腹黒悪魔の勧誘

 これまでの人生をたどるような長い長い夢の果て。


 リリスが目を開けると、そこは見知らぬ家だった。


 冷たい湖に飛び込んだはずなのに、身につけていた修道服は、すっかり乾いていた。


 肌も髪も、どこにも濡れたところはない。


 身体にも、なんの異常もなかった。


 あたりを見回すと、壁を覆い尽くすほどの本棚が部屋中にずらりと並んでいる。


 マホガニー製の大きなテーブルの上には様々なものが並んでいる。


 双眼鏡に、虫や石の標本。


 何に使うのかわからないガラス製の実験器具に、真鍮製の天球儀まで置いてあった。


 そのテーブルの中心に向かって座り、熱心にボトルシップを作っている人物がいる。


 ……黒髪に、赤い目の男。


 羽も角も無いが、先ほどリリスが聞いた言葉が幻聴でないのなら。


 この男は確か、自分を悪魔だと言っていた――!


 リリスが跳ねるように起き上がると、悪魔は気がついたように、ボトルシップから顔を上げた。


「おや、お目覚めですね」


 リリスは、思わず身をすくめた。


「あ、悪魔……! ここは、地獄なのですか?」


 リリスの問いに対して、悪魔はのんびりと答える。


「残念ながらまだ現世ですが。ここは私の住まいです」


 悪魔はゆっくりと革製の椅子から立ち上がると、ベッドでおびえているリリスを見下ろした。


「確かに私は悪魔ですが、助けたことに対して一言お礼があってもいいと思いますよ?」


 悪魔は芝居がかった仕草で、首をかしげてみせた。


「え? あ、ありがとうございます……?」


「どういたしまして」


 悪魔はにっこりと笑う。


「それから、私にはこう見えてもベルという名前がありますので、以後お見知りおきを」


「ベル、さん……」


「はい」


 ベルは満足したのか、ボトルシップの前に再び座り直す。


「それにしても」


 ベルは意味ありげに、くすりと笑って、言った。


「生まれたときから神に仕えてきた結果が、婚約破棄。民衆と育ての教会からの罵倒と暴力。そして入水自殺未遂ですか」


「えっ」


 指を折りながら言うベルにリリスは絶句する。


「神というのは随分慈悲深いのですねえ」


 まるで今日一日のリリスのすべてを見てきたかのようなベルの言葉に、リリスはあんぐりと口を開けてしまった。


「見てたんですか……!?」


 震えて尋ねると、ベルは肩をすくめた。


「見ようと思ったのではありません。見えてしまったんですよ。不快に思われたのなら謝ります」


 謝られたところで、自分の過去が悪魔に覗かれたことに変わりはないので、リリスは黙っていた。


 それよりも、気になることがあった。


「どうして、私を助けたんですか? あなたは悪魔のくせに」


「ふふ……それはもちろん、貴女の魂に価値があるからに決まっています。神に返してしまうにはあまりにももったいない」


 ベルの言葉に、リリスは首を振った。


「私にはなんの価値もありませんよ……あなたも見たんでしょう?」


「何をおっしゃる」


 ベルは人間側の事情など心底どうでも良さそうだった。


「あなたの魂は数百年に一度の、素晴らしい代物だ。それが、教会の庇護を離れた……私ども悪魔にとっては、またとない機会なのですよ」


 一歩、ベルがリリスに近づく。リリスは、身体をこわばらせて、ベッドの上で後じさりした。


ベルは猛禽類のように隙のない瞳でリリスを射すくめる。


「あなたの願いを何でも叶えてあげますから、その代わり――魂を私にいただきたいのです」


 ――願いと引き換えに魂を奪う悪魔の契約。


 話には聞いていたが、まさか自分が契約を持ちかけられる側になるなんて。リリスはこれまでに想像したこともなかった。


「あ、悪魔と契約なんて……」


 ベルはちょっとした商売の話をしているかのような軽やかさで答える。


「あなたの魂がいただけるのなら何でもします。王国を滅ぼすことも、あなたを貶めた人間を苦悶の果てに皆殺しにすることも、造作もないことですよ」


 甘い声でベルは囁くが、リリスは首を横に振った。


「そんな恐ろしいこと……私は、考えていません」


「おや」


 ベルはわずかに眉を上げた。


「では、現世での快楽の方がお望みでしょうか?」


 ベルが手を振ると、目が眩むような、金銀財宝の山がいくつも現れる。


 それらの宝の山とは別に、ベルは何もない空中から羊皮紙と羽ペンを顕現させた。


「ご承諾いただけるのであれば、こちらの契約書にサインを――」


 リリスは首を振った。


「要りません」


「……そうですか」


 ベルが微笑んで、手を一振りすると、宝の山は煙のように消えた。


「――では、一体何が欲しいのです」


 そう聞かれて、リリスは言葉につまる。


 生まれてから今日までずっと、欲を持つのは悪いことだと教えられてきた。


 欲しいものなど、わからない。


「……欲しいものなんて、ありません」


 その言葉に、ベルは初めて少しだけ眉をひそめた。だが、それも一瞬のことで、すぐにまた胡散臭い微笑みを浮かべる。


「願いがわからない……そういう方も時折いらっしゃいます。まあ、気長に待つとしましょう」


 余裕たっぷりのベルを、リリスは精一杯の勇気で睨んだ。


「いくら待っていただいても私の気持ちは変わりません。絶対に」


 そう言ってリリスはベッドから立ち上がる。


「おや、どこに行かれるのですか? あなたにはもう居場所がないのでは?」


「どんなところでも、悪魔と二人きりよりはマシです」


 リリスは早足で部屋を歩くと、ドアを開けた。




 ……そこは、人間の住む場所ではなかった。




 夜の喧噪に包まれた街から、ゲラゲラと下卑た笑い声が聞こえてくる。


 近すぎて今にも落ちてきそうな月の下、羽を生やした何かが、逆さに飛びながら笑っている。


 血のような、生臭い匂いが鼻をついた。


 聖書に聞く魔界であると、すぐにわかってしまった。


 濃い瘴気がこちらに入ってきそうになって、リリスは、慌てて扉を閉めた。


「そんなに焦らずに、まずはお茶でも一杯いかがですか?」


 振り返ると、悪魔が執事のように紅茶を淹れている。リリスは信じられない思いで凝視してしまってから、我に返った。


「い、いりません。悪魔からものをもらうなんて」


「これくらいのことに対価など要求しませんから安心してください」


「そういう問題じゃ……」


 紅茶の湯気が、ふわりとカップからのぼった。


「毒なんて入っていませんよ。極上の魂を私がいただく前に、あなたの身に何かあっては困りますから」


 続いて陶器のシュガーポットをベルは手に取る。


「お砂糖は入れますか?」


 リリスは、答えずに、湯気が立ち上る紅茶をじっと見つめていた。口をつける気には到底なれなかった。


 ベルは「やれやれ」と言いながら、シュガーポットを紅茶のそばに置く。リリスの反抗的な態度などまったく気にならないようだった。


「どうぞお好きなようにお過ごしください。私に睡眠は必要ありませんので、何かあればいつでもお呼びください」


 そう言って、またマホガニーのテーブルに向かって、ボトルシップの制作を再開した。


(えっ、寝ないんだ、この悪魔……) 


 リリスの警戒心は一切解けなかった。


 頭から毛布をかぶって、ベッドで眠ったふりをしたが、一睡もできなかった。




 いったい何時間経っただろうか。


 この家には時計はおろか、窓が一つもないので、今が昼なのか夜なのかさえもわからない。


 ベルはボトルシップを完成させて、しばらく椅子に座って天井を見上げたままぼーっとしていたが、おもむろに立ち上がった。


 扉の側にかかった衣紋掛けから、黒い帽子と黒い外套を外し、身につけると、彼は影法師のようになる。


 彼がベッドに近づいてきたので、リリスは息を潜めた。


「少し外に出てきます。何かお困りでしたら、お呼びいただければすぐに飛んできます」


 リリスはさなぎのように身を固くしたまま、返事をしなかった。 


 ベルは踵を返すと、ドアに向かった。


 そっと毛布の下から様子を伺う。


 ベルは、ドアのそばに取り付けられている円盤を回してから、ドアを開けた。


 すると、その先は魔界ではなく、セントティアラの王都の町並みであった。


(え……出られるんだ!)


 ベルが出て行って、扉が完全に閉まったことを見届ける。


 リリスは急いでベッドから飛び出して、扉に駆け寄った。


「逃げられるかも……!」


 リリスは扉に駆け寄り、急いで円盤を回した。ベルが先ほど出て行った行き先では、待ち伏せされているかも知れない。


 それに、王都には戻りたくなかった。育ってきた修道院にも。


 魔界。


 崖の上。


 火山の噴火口。


 海のど真ん中。


 何度も試して、やがて田園風景に出た。


「やった!」


 知らない場所だった。ここがどこかだなんて、考えている余裕はなかった。


 無我夢中で、扉の外に飛び出す。


 空を見ると、山の端から太陽が昇り始めるところだった。


 着の身着のまま、とにかく人家はないかと、走り続けた。


 遠くに、見覚えのある聖印が刻まれた扉が見えた。あれは修道院の象徴だ。


 なんという天の助けだろう、やはり神は自分をお見捨てにならなかったのだ、とリリスの目に涙がにじんだ。


 やがて修道院にたどり着き、リリスは夢中でドアを叩いた。


 ほどなくして、扉がゆっくりと開いて、中から修道女が顔を出した。


「どうしました?」


 年かさの修道女がリリスを見て怪訝な顔をする。


「た、助けて……」


 息も絶え絶えの中、やっとそう言って、ぱたりと倒れた。


「もし、しっかりなさい! もし!」


 修道女がリリスの身体を揺さぶって声をかけるが、リリスの意識はゆっくりと遠のいていった。



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