第2話 捨てられた聖女
リリスは、かつて修道院の前に捨てられていた孤児だった。
幼くして、神の加護である治癒魔法が使える「加護持ち」として開眼し、次期聖女として期待を背負って育った。
順調に力を伸ばしていたリリスは、十歳の時に歴代史上最年少の聖女として就任した。
と同時に、コルネリウス大聖務官が証人に立ち、王太子テオドロスと婚約した。
朝日のように輝かしい金髪。
澄んだ青空のような瞳。
天使のように美しい顔。
おとぎ話から飛び出してきたような二歳年上の王子様は優しく微笑み、「これからよろしく」と言ってくれた。
(こんなに素敵な王子様と私が結婚するの? 本当に?)
リリスの胸は、少女らしいときめきでいっぱいになった。
この時が、リリスの人生の絶頂期であった。
王太子の婚約者となってからも、リリスの生活はそう変わらなかった。
テオとの面会は、月に一度、大臣や教会の政務官の監視付き。その他は手紙のやりとりと、テオが高熱を出したときにリリスが呼ばれる事があったが、結婚するまでは異性交遊は好ましくないとされていた。
日々の生活は、質素な食事。慎ましい服。
朝は誰よりも早く起きて、誰もいない礼拝堂を掃き清めた。日中は民の怪我や病気の治癒。夜は凍えるような石の床に裸足で座って、神に祈りを捧げた。
ところが、リリスが励めば励むほど、何故かリリスの力は徐々に弱まっていった。
病人・怪我人の回復に時間がかかるようになり、雨乞いもすぐに効果を発揮しない。
困った人々はどんどん多くなり、リリスの手が回りきらなくなっていた。
……自分に至らないところがあるせいで、力が弱まっているのかもしれない。
そう考えたリリスは、更に食事を抜き、睡眠を削り、修行に努めるようになった。
茨で覆われた道を敢えて裸足で行き来して、祈りを込めながら素足が血まみれになるのに耐える修行や、寒空の下で水に打たれる修行もした。
この国のすべての民の苦しみを、リリス一人で一身に受け入れようとでもするように。
しかし、力はもとに戻るどころかどんどん弱くなっていく。
――リリスが十八歳になった頃。
奇跡を起こす新しい聖女が現れた、と世間は大騒ぎになった。
彼女の名はアナスタシア。
王国軍元帥の息女で、リリスより四歳年上の女性は、ここ数日の間に、重病人や怪我人を何人も治癒し、枯れた泉に水を湧かせたと言う。
「軍閥の娘だと!」
「あの血染めの兵士どもの縁者から何故聖女が!」
コルネリウス大聖務官はリリスの両肩に手を置いて差し迫った様子で言った。
「よいですかリリス。王国軍の娘が聖女になどなったらとんでもないことになります」
「と、とんでもないこととは……?」
「王国軍が聖女の後見となれば、この国は祈りではなく暴力によって導かれることになります」
コルネリウスは、ぎりりと歯をくいしばる。
「周囲の国々との争いが広がり、多くの民の血が流れるでしょう。そんなことになっては……ああ、恐ろしい!」
身震いするコルネリウスを見て、リリスは焦燥にかられた。
しかし、ついに神はリリスに応えなくなってしまった。
自分のあかぎれを治す簡単な治癒魔法でさえも使えなくなってしまった。
(そんな……どうしてなの……?)
そして、その年の冬。テオの二十歳の誕生日に、リリスは大聖堂に呼び出された。
そこにいたのはテオ一人ではなかった。
テオの父である国王、大臣たち、テオの大叔父にして齢九十八の聖王、聖王に継ぐ、教会の権力者コルネリウス大聖務官。
その他主立った貴族や聖職者たちがずらりと揃った中、ひとり見知らぬ女性がいた。
彼女が、アナスタシアなのか。
「私は、神の御前において、聖女リリスとの婚約破棄を宣言する」
皆が見ている前で、テオはそう宣言した。
リリスは、口を震わせることしかできない。
どうして、とも、ひどい、とも言えなかった。心のどこかで、ずっとこうなることを想像していたからだ。
神に見放された聖女を王太子妃になど、できるわけがない。
「理由は明らかだ。君は聖女としてはもはや不適格だ」
テオは淡々と告げる。
「私は新しき聖女、アナスタシアと正式に婚約することを誓う」
アナスタシアは、静かに目を伏せて、会釈をした。
彼女が、ほんの一瞬だけリリスを見た。
しかしリリスと目が合うと、すぐにふっと気まずそうに眼を逸らしてしまった。
まるで、謝罪したいのに許されない者のように。
「話は以上だ。これからは、普通の修道女として慎ましく生きるように」
テオドロスは、目を伏せたまま締めくくった。彼は、婚約破棄を宣言している間、一度もリリスと目を合わせなかった。
「――最後に、何か言いたいことはあるか」
テオに発言を許されて、リリスは小さく息を呑んだ。
手足が震え、唇がわなないて、うまく息ができない。
「どっ……どうか、新しい聖女様におかれましては、民の皆様の安寧を第一に、お考えくださいますよう、お願いいたします……」
リリスの言葉に、アナスタシアが「承知致しました」と静かに応えた。
リリスは、何とか笑おうと思った。テオドロスのことも、アナスタシアのことも……誰のことも、恨んでいないと言いたかった。
「いっ……い、今まで……」
テオドロスの姿が、涙でぼやけて見えない。
「今まで、役立たずで、ごめんなさい……!」
リリスは、涙を抑えきれずに、駆けだした。
リリスの背を見つめるテオの瞳が一瞬揺れたことに、彼女本人が気づくことはなかった。
リリスはあふれる涙を拭いながら、小走りで王都の道を進んだ。
王太子妃となる道は絶たれた。
権力などリリスにはどうでも良かったが、大好きだったテオは、もう二度と手の届かない人になった。
ならば、せめて彼の言うとおり、普通の修道女として、神に一生を捧げて生きていこう。
清く、正しく、慎ましく……。
もといた修道院に帰ろうと、馬車の停留所に行く。
……乗車前に代金を払おうとすると、御者が眉をひそめた。
ふと、停留所にいるほかの客たちの顔を見てみると、みんなリリスを冷え切った眼で見つめている。
「えっと、あの……」
何か自分がまずいことをしたのだろうか、と不安になっていると、ぽつりと誰かがつぶやいた。
「……お前が」
怒りに震えた声に、リリスが振り向くと、顔見知りの男の子だった。
「カイル君? どうしたのですか――」
「お前が! ぐずぐずと聖女の座に居座るから、お母さんは苦しんだんだ!」
「えっ……」
リリスが絶句していると、方々から声があがった。
「そうよ! うちの主人の怪我を治すのもひどく待たされてさ!」
「アナスタシア様は一瞬で何人も治せるってきいたよ?」
「見苦しいったらなかったぜ」
「聖女と王太子妃の地位が惜しかったんだろう!」
リリスは、ふるふると首を振った。
「そんな、違います……!」
こつん、と額に痛みが走った。
からん、と音をたてて落ちたそれは、小石だった。
「この偽聖女め!」
「早く出て行け!」
民衆の怒りはどんどん拡大し、石や木の実など、手当たりしだいに投げつけられて、リリスはその場から逃げ出した。
今のリリスには、自分の怪我を直すだけの治癒魔法も使えない。
(だって、だって、軍閥の娘を聖女に就かせてはいけないって、大聖務官様はおっしゃって……!)
地位にしがみついてたつもりは無かった。
だが、自分の力を取り戻すことに必死で、待たされている人々の苦しみに思い至っていなかったのかもしれない。
「私……聖女、失格ですね……」
人々の眼を避けながら歩き続け、やっと修道院に到着した。
日は、とっくに落ちていた。
「ただいま、戻りました……」
扉を開けると、修道女たちが、一斉にリリスに視線を向けた。
「よくもまあ……」
「のこのこと帰ってこられたものですね」
向けられたのは、労いの言葉ではなく、冬の風のように冷たい罵倒であった。
「何のために今までお前を育ててやったと思っているんです! この穀潰し!」
修道院長は、おそろしい剣幕でリリスの頬を殴った。
思わぬ暴力に、リリスはよろめき、地面に尻餅をついてしまう。
そんなリリスを皆が冷たく見下ろした。
「今までどれだけ手をかけて育ててやったと思っているの? せっかくの苦労が水の泡よ!」
修道院の人々が、初めて見せる鬼のような形相。
リリスは殴られた頬を押さえたまま、呆然として何も言い返すことができない。
ともに教会で育ってきた孤児の仲間達も、リリスを助けようとはしなかった。
「あの子、調子乗ってたもんねえ」
「聖女様だ、ってちやほやされてるの、ちょっとうざったかったのよね」
頬を張られたリリスを見て、クスクスと嗤い合う。
「今更戻ってこられてもさあ……迷惑じゃない?」
嘲笑を浴びて、リリスは呆然としてしまった。
「迷惑……」
動けずにいると、育ての親の修道院長は冷たくリリスを見下ろして言った。
「あなたには失望しました」
リリスは両側から腕を引っ張られて、ずるずると外に引きずられた。
冬の夜の下、たった一人で放り出されてしまった。
「どこへなりとも行くがいいわ」
母と思っていた院長の、冷たい声だけが中から聞こえて、扉は閉じられてしまった。
修道院を追い出されては、彼女にはもう居場所がない。
聖職者として生きる以外に、どうやって生きたらいいのかをリリスは知らない。
どこをどう歩いてきたのか、わからなかった。リリスは、気がつけば王都から遠く離れた湖の畔に来ていた。
――神様。私、何か間違っていましたか。
神は答えなかった。
――せめて、この身を捧げることで……これまでの人生が、無駄じゃなかったと思わせてください。
リリスは意を決して、湖の中にその身を投げたのだった。




