第1話 聖女リリスの転落
聖女リリスは、神に命を返すことに決めた。
空に白い満月が浮かぶ、真冬の夜。
湖の畔で、リリスはひとり、白銀の髪を風に任せたまま、紫銀の瞳で水面を見つめて、手を合わせて立っていた。
水面は鏡のように静謐で、ただ満月だけを映している。周囲には虫の声も鳥の鳴き声も聞こえない。冬の冷気が、リリスの身を切り裂くように鋭く、冷たい。
湖に飛び込んだら冷たいだろうな、と思う。
飛び込んだ瞬間に、心臓が凍り付いて死ぬだろう。
それでも……リリスは、手を合わせて眼を閉じた。
『君は聖女としてはもはや不適格だ』
王太子テオドロスの冷静な声が脳裏によぎる。
『今まで何のために育ててやったと思っているんです! この穀潰し!』
修道院長の罵声と、頬に飛んできた平手打ちの感覚を思い出す。
「誰の役にも立てないなら……」
湖に向かって、一歩踏み出す。
「神様に、この身を捧げます……」
リリスは地面を蹴って、湖の中に思い切って飛び込んだ。
全身の穴という穴から容赦なく入ってくる水の冷たさ。
肺が切り裂かれるような激痛。
水が重くて、手足が動かせない。
リリスは苦しみの中で、いつのまにか気を喪った。
「――おやおや」
頭上から微かに声が聞こえた。甘く響く、知らない男の声。
「なんともったいないことを」
声がそう言ったかと思うと、リリスの体は急に水面に向かって浮き上がった。
ざばあ、と水から浮き上がったリリスの身体は、そのまま宙にふわりと浮いた。
「人間の世界には、泉に落とした斧をめぐって、神が人間の善性を試すお話があるそうですが」
リリスの身体は、宙を漂い、声の主に向かっていく。
暗闇の中でよく見えないが、かなり長身の、若い男のようだ。
「持ち主がいない落とし物なら、私が拾っても構いませんね?」
リリスは抵抗する気力もなく、すっぽりと男の腕のなかに収まってしまった。
リリスが眼を開けると、黒髪に白い肌、紅色の瞳の、美しい男が微笑みながらリリスの顔を覗き込んでいた。
そしてなんとも奇妙だったのは、男が陸地ではなく湖面にすっと立っていることだった。
「あなたは……天使様ですか?」
リリスの問いに、男は一瞬、驚いたように眼を丸くして、それからくつくつと笑い始めた。
「なんとまあ……! ははは、失礼。よりによって私を天使とお間違えですか!」
男はおかしそうにひとしきり笑ってから、紅色の瞳を三日月のように細めて、告げた。
「私はベル。通りすがりの――悪魔です。」
「え……」
(そんな……私、地獄に堕ちたんだ……)
リリスは絶望のあまり、再び意識を手放した




