第32話 神への裏切り
――翌朝、セントティアラ王国の王宮。
リリスの部屋がもぬけの殻になっていることに気づき、侍女たちが騒ぎ始めた。
「アナスタシア様! リリス様がどこにもおられません!」
あわてて駆け込んできた侍女に、アナスタシアは目を見張ってみせた。
「……もう一度落ち着いて探しなさい」
「聖騎士様たちも呼んで参ります!」
侍女が青ざめながら駆けていく。
その背中を見送りながら、アナスタシアは静かに考えを巡らせていた。
(ひとまずは行方不明ということにしましょう。頃合いを見て、悪魔に連れ去られた被害者として発表するべきですね……)
昨夜のことを思い返す。
リリスは、自らの意思であの悪魔を追った。
誑かされたり、洗脳されたりしたのではない……彼女の目を見れば、わかってしまった。
今さら連れ戻すことはできない。
せめて、彼女の名誉だけでも守らねばならなかった。
程なくして、侍女と入れ違いになるように、若い聖騎士が駆け込んできた。
「こちらも大変なんです!」
彼の顔は蒼白であった。
「あの悪魔が牢から消えています!」
一気に空気が変わる。
王宮も大聖堂も、上を下への大騒ぎとなった。
聖騎士たちが慌ただしく走り回り、侍女たちの悲鳴が飛び交う。
アナスタシア一人が、冷静だった。
すべて彼女の想定通りだった。
(このまま、外への捜索も行い、一日捜しても見つからないとわかったところで、悪魔による連れ去りと発表して良いでしょう。リリス様の外聞に傷がつかないように――)
これからの計画に頭を巡らせていたその時。
「あ! これは……!」
一人の侍女が、震える声を上げた。
リリスの部屋からだった。
「どうしたのです」
「引き出しに、書き置きが……!」
(……え? 書き置き!?)
想定外だった。
アナスタシアの眉が、ほんのわずかに動く。
「リリス様の字です!」
差し出された紙には、丁寧な筆跡が並んでいた。
『ごめんなさい。
私はもう、人々のために祈れなくなってしまいました。私は聖女失格です。
聖女でない私を、それでも受け入れてくれた、悪魔のベルさんの元へと参ります。
地下牢の鍵を盗んでしまい、ごめんなさい。鍵は必ずお返ししておきます』
書き置きの末尾には、しっかりとリリスの名前が書いてあった。
沈黙。
次の瞬間、室内が騒然となった。
「悪魔に唆されたのでは!?」
「まさか、自ら……?」
「そんな……!」
侍女たちの顔が青ざめる。
「おい、鍵はどうなっていた!?」
「元の場所にあります……」
「つまり脱獄幇助したあとに鍵を返して逃げたと!?」
昨夜リリスに鍵を返されて、盗まれた形跡がわからないように戻しておいたのは、他ならぬアナスタシアとテオである。
アナスタシアは思わず天を仰いだ。
(何故、自ら証拠を残すのですか……)
だが、考えてみれば、あまりにも、リリスらしかった。
逃げるなら逃げるで、黙って消えることができない。
誰かに黙って迷惑をかけることを、最後まで良しとできない。
自分の計略など、リリスの純粋すぎる善意の前では無力であった。
アナスタシアは長く息を吐き、顔を上げた。
「捜索は中止します」
一同が息を呑む。
「リリス様は自らの意思で動かれた。無闇に追えば、却って事態を悪化させるでしょう」
窓の外を見やる。
今日の空は皮肉なほどに澄み渡って青かった。
「……もう、あの方を聖女とは呼べないのでしょうね」
すぐさま開かれた緊急会議は、阿鼻叫喚の様相を呈した。
国王はあまりの事態に気絶して欠席。
聖王は、いつものように居眠りしながら玉座に座っている。
「裏切り者の聖女が!」
「捕らえて処刑しろ!」
「磔にして八つ裂きにしてしまえ!」
「いや晒し首だ!!」
義憤が熱狂的に渦巻き、残虐な発言も多く飛び出した。
アナスタシアは、その怒りに満ちた会議場の真ん中に立ち、静かに口を開いた。
「なりません」
凛と響く声に、ざわめきが止まる。
「リリス様には魔界の抑止力になっていただきます」
「抑止力ですと……?」
大臣や聖務官が眉をひそめる。
アナスタシアは静かに言った。
「お忘れですか? あの方は、いざとなれば高位の悪魔を討伐できる凄まじい力をお持ちなのですよ?」
テオによれば実際は礼拝堂で倒れた人々を助け、テオの傷を癒すのに徹し、悪魔への攻撃などはしていないらしいのだが、あえて話を盛った。
「彼女が魔界側にいれば、むしろ我々は安全です」
「しかし!」
大臣の一人が叫ぶ。
「もしも、リリスが我々に報復するために侵攻してきたら!!」
「――ほう」
低い声が割って入った。
テオだ。
「お前達、自分達がリリスに恨まれることをしたという自覚はあったのか」
会議場が、水を打ったように静まり返った。
テオは、一同を冷ややかな目で見渡してから言った。
「引き続き、魔界からの侵攻に眼を光らせておくこと。我々がやるべきことはそれだけだ」
「しかし、このようなこと、神がお許しになるはずがございません!」
コルネリウス大聖務官が声を荒げる。
その時。
聖王が、ゆっくりと眼を開けた。
「許せないのは……お前ではないのか、大聖務官」
ここ数年、ほとんど聖王が喋ったところなど見ていなかった家臣や聖職者達は、驚きのあまり固まった。テオとアナスタシアでさえ、予想外のことに息を呑んだ。
「げ、猊下……?」
「神は誠に、リリスの処刑をお望みか?」
「……」
誰も答えられなかった。
「リリスの処遇は、聖女殿に任せる」
そう言うと聖王はまたうとうとと眠り始めてしまった。
「猊下……ありがたく拝命致しました」
アナスタシアが恭しく一礼する。
もはや誰一人として、異を唱えることができなかった。
テオとアナスタシアは、会議の後、二人で大聖堂の祭壇の前に立っていた。
正午の光がステンドグラスに差し込み、神々しく輝いている。
「……俺は、神に背いてしまったな」
テオは、祭壇を見つめながら呟いた。
「リリスをみすみす見逃した……いや、行くように促した」
テオを見上げて、アナスタシアが尋ねる。
「後悔していますか?」
「……いいや」
そう言って首を振ったテオの顔は、すっきりとして晴れやかですらあった。
「不思議としていない」
祭壇に向ける夫の微笑をアナスタシアはじっと見つめた。
やがてアナスタシアは、視線を夫の横顔から祭壇へと向けた。
「……それなら、私も同罪ですわ」
テオが驚いてアナスタシアに振り返る。
「何を言う、君は最後まで」
「私も思ってしまったんです。……これで、良かったのだと」
アナスタシアは、祭壇からテオに目線を移して、いたずらっ子の少女のように微笑んだ。
「私たち二人だけの、秘密の罪ですわね」
ステンドグラスの光が、二人の足下に影を落とす。
今の二人はまるで……楽園から追放された、原初の男女のようであった。
「……神に叱られるだろうか」
「そのときは一緒に叱られましょう。」
「……ああ、そうだな。君と一緒なら悪くない」
この世でたった二人しか知らない罪を背負ったというのに、王太子夫妻の顔は、春のひだまりのように穏やかだった。




