最終話 偽りの月光下
――魔界の下町にある、とある酒場。
夜闇の中で、緑や紫の灯りがともるランプの下で魔物や悪魔たちがてんでばらばらに卓を囲んでいる。牙を覗かせて笑い、血のように濃い酒を酌み交わしていた。
遠慮のない大きな笑い声はけたたましく響き渡り、どこか獣じみている。
こぼれた酒が床を伝い、赤黒く光るが、誰もそれを気にしない。
ここでは、何も咎められない。
秩序も、節度も最初から存在しないかのように。
ただ欲望だけが、むき出しのまま渦巻いている。
まるで、終わることのない祝宴のようだった。
「なあ、知ってるか? ベル様の伴侶、リリス様の話!」
魔界では今、リリスの話で持ちきりであった。
「善良な教会に自分の衣食住を世話させ、聖女兼王太子妃候補として君臨!」
「あのベル様を虜にして貢がせ、最悪のタイミングで人間界を裏切って魔界に渡り、人々を恐怖のどん底に突き落としたんだぜ!」
魔物たちが歓声を上げて口笛を吹いた。
「ヒュー! なんてロックな女なんだ!」
堕天使にも負けず劣らずの聖女の魔界堕ちに、魔界の住人たちは興奮を抑えきれず、拍手喝采の嵐である。
「調子こいてリリス様を虐げた修道女には『神様のご加護がありますように』って告げて去っていったんだってよ!」
「死刑宣告じゃねえか!!」
魔物たちはぶるっと身震いした。
彼らにとっては、悪辣さこそ美徳。恐怖こそ敬意なのだ。
「修道女たちはリリス様の恐ろしさに震え上がったそうだぜ!」
「まさに稀代の悪女!!」
客の中から、一人の悪魔がもったいぶって立ち上がった。
「俺さあ、実はリリスさまが魔界にいらしたときちらっと見かけたんだけどよぉ……」
客の目線が一斉に集まる。
「聖女の力で浄化されそうで、全然近づけなかったぞ! 低級のザコ魔物たちはたぶんアレで半分死んだな!」
「ひいいい! おっかねぇー!」
魔物達は涙を流して悦びに咽び泣く。
ただ一人、酒場のマスターだけは冷静にグラスを拭きながら首を傾げた。
「いやあ……そんなに悪辣な女か? 普通っぽかったぞ?」
マスターの疑問に同意する者など誰もいなかった。
「ハハッ、見る目がねえなあ、マスター!」
客の一人が、華奢なマスターの肩をバシバシと叩く。
「マスターは元人間だろ? 人間が自分から生きたまま魔界に降りてくるなんざ、ありえねえだろ普通!!」
「……まあ、正気の沙汰じゃねえことは確かだな」
マスターが認めたように言うと、客たちはガハガハと大笑いした。
「これで魔界も安泰だぜ!」
「ベル様とリリス様に乾杯!」
悪魔たちは紅い酒を酌み交わし、魔界落ちした聖女を讃えた。
明けない夜の宴は、終わりが見えなかった。
――大きな満月が見える窓辺にベルは座っていた。
街の喧騒とは打って変わって、この城は静謐に満ちている。低級の悪魔たちは恐れて近づこうともしない。
城には優秀な配下たちもいるし、嵐のように騒がしい母もいる。
だから、魔界の自分は孤独ではない——そう思っていた。
……それでも。
この月を——人間界で気に入り、自ら作り上げた紛い物の月を、並んで眺める者はいなかった。
「――おはようございます、ベルさん」
柔らかな声にベルが振り返る。
「おや。お目覚めですね、リリス」
「はい」
リリスはワゴンを押して立っていた。上には陶器製のティーセットが乗っている。
「こんなことをなさらずともよろしいのに」
「私がやりたいってお願いしたんです」
リリスはにこりと笑った。
それだけでベルはもうそれ以上何も言わなかった。
リリスが城に来てどれほど経ったのだろう。
つい昨日来たばかりのような気もするし、昔からずっと一緒にいたような気もする。
「お砂糖はいれますか?」
「……では、三つで」
リリスは丁寧に二人分の紅茶を入れて、ベルの隣にそっと座った。
「……綺麗ですね」
ベルが作った月を見上げて、リリスは言った。
その一言で、自分が作った魔界の月は、初めて意味を持った気がした。
「ここは静かですね」
温かいお茶を啜って、ほう、とため息をつきながらリリスはつぶやく。
「なんだか、世界に私たち二人だけになってしまったみたいです」
リリスの言葉にベルはわずかに目を細めた。
「……怖くはありませんか」
「いいえ、ちっとも」
リリスは迷いなく首を振った。
銀色の髪が月明かりを反射して輝く。
まるで、最初からここが彼女の居場所だったかのように。
「……あんなにお好きだった無償労働はもういいのですか?」
「まあ。なんて意地悪な言い方」
リリスは可笑しそうに、くすりと笑った。
「あの国はもう私がいなくても大丈夫です。アナスタシア様がいますから」
リリスはカップをソーサーに戻す。
「ふしぎですね。こんなふうに思える日が来るなんて、思ってもみませんでした」
紫の瞳が、まっすぐにベルだけを映している。
「私の居場所はあなたの隣です、ベルさん」
リリスの言葉は湖のように静かで、しかし深かった。
「ですから……もう、遠くに行かないでくださいね」
「……仰せのままに」
ベルは静かに応じる。
「もう手放すことはできませんよ。あなたはこの世で一番価値のある魂ですから」
リリスは静かに目を伏せる。
「……嬉しくて」
銀色のまつげが微かに震えている。
「わたし……怒られてしまいそうです」
ベルに会うために。
神の使徒としての幸福も。
責任も地位も手離した。
差し伸べられた手を振り払った。
申し訳ないことをしたのに、後悔はない。
どうしようもなく満たされている。
……そのことが、少しだけ恐ろしい。けれど。
「……それでも、いいと思ってしまうのです」
静かな、揺るがない声音でリリスは言った。
リリスは、ベルをまっすぐに見上げる。
ベルはその視線を受け止めたまま、わずかに目を細めた。
「問題ありませんよ」
穏やかに、言い切った。
「あなたを裁ける者など、どこにもいません」
常闇の魔界には太陽が昇らない。
季節の移ろいも、変化もない。
満ちることも欠けることもない月の下で、二人の影は自然と寄り添い合っていた。
完




