第31話 再会
リリスが魔界に到着する少し前のこと。
あれほど無残に切りつけられ、ヴェラによって灰にされたはずのベルの身体は、ほとんど元に戻っていた。
地下牢でヴェラが一度ベルをすべて灰にして回収し、魔界で復活させたのであった。
ただ一つ、テオに傷つけられた一太刀の痕だけが腹に残っている。ヴェラはしげしげと傷痕を眺めた。
「あなた、消えない傷をつけられるなんて初めてよね?」
「……はい」
ベルは傷痕をなぞりながら言った。
「あなたには、銀の剣や聖印が彫られただけの武器じゃ意味がない。純粋な心の持ち主による攻撃でしか傷つけることができないはず――そんな勇者があの国にいたとはね」
褒め称えるようなヴェラの言葉に、聞いているベルのほうが誇らしさすら感じて、うなずく。
「……ええ。彼は、紛うことなき本物の勇者でしたよ」
ヴェラはベルのグラスにワインを注ぎ終えると、改めて尋ねた。
「……本当にもう人間界には戻らなくていいの」
「……はい」
ベルは目を伏せて答える。
不意に脳裏に浮かぶ。
目が眩むような眩しい太陽と青空。
テオに抱きかかえられながら、光の中に連れられたリリスの姿。
彼女はあるべき場所へ帰ったのだ、と思った。
そして同時に、本当は自分は彼女に関わってはいけなかったのだ、とも。
「……私には、あそこは少々眩しすぎたようです」
ベルは微笑んで言った。
「そう……」
ヴェラは息子の目をじっと見た。かと思うと、ふっと視線をはずして、部屋の外へと向かう。
「どちらへ」
「お化粧直しよ。あなたはゆっくり寝ていなさい」
ヴェラは何でもない様子で、ひらひら手を振りながら部屋をあとにした。
――化粧直しにしては、長いと思ったのだ。
来客の気配を感じて、階下に降りて。
母と対峙しているリリスの姿を見て、ベルの足は止まった。
――あり得ない。
あってはならないことだった。
――喜んでは、いけないのに。
リリスの後ろ姿を見ただけで、胸の奥で、何かがほどけかけるのを、無理やり押し殺す。
何故、彼女がここにいる。
……一体、何を飲んでいる?
「良かった……やっと会えた……」
自分に振り返ったかと思うと、急にリリスはふらりと倒れた。
崩れ落ちる身体に駆け寄って、しっかりと受け止める。
あまりにも軽い。
リリスの呼吸が、浅い。
――まさか。
まさか、そんなはずはない。
考えるより先に、思考を否定する。
「何を……」
いつもなら、淀みなくスラスラ言葉を紡ぐ唇が震える。
「何を飲んだんですか!!」
顔を覗き込み、肩を掴む。
しっかり支えなければ消えてしまいそうで。
強く抱けば壊れてしまいそうで。
力の加減すらわからない。
「……お前の血よ」
ヴェラの声が、冷たく響く。
ベルは凍りついたように一瞬呼吸を忘れた。
「何故です」
リリスに必死に呼びかける。
「何故そんな愚かなことを!」
「お黙りなさい愚息」
鋭い声が、空気を断ち切る。
「――この子の覚悟を愚弄するな」
押しつけられるような威圧。
だが、それすら、今のベルには遠い。
「……良いんです」
リリスの声が、やわらかく響く。
その顔は、穏やかで。
満ち足りていて。
「貴方に会えたから……もうどうなってもいいんです」
その言葉に、迷いはなかった。
「リリス……」
喉が、うまく動かない。
「そんな、駄目だ、私は――!」
違う。
こんなものは自分が望んでいたものじゃない。
自分は、彼女を手放したはずだ。
人間として生きる幸福を選ばせるために。
そうするのが、最適解だった。
自分の想いなどすぐに忘れられると思っていた。
――それなのに。
どうして、こんなにも。
失うことを、恐れている。
思考が追いつかない。
盤面はとうに閉じたはずだった。
終わったはずの勝負が、突然、別の形で突きつけられている。
こんな展開は、想定していない。
想定できるはずがない。
――リリスが、ここで事切れたら。
想像しただけで、息が止まった。
銀の剣で貫かれた時も、地下牢に閉じ込められた時も、こんなふうには、ならなかった。
それは――逃げ場のない、恐怖だった。
ヴェラが、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「……でもねえ、リリスちゃん。私が言うのもなんだけど」
ベルの腕の中で倒れているリリスに歩み寄る。
リリスを真顔でじっと見下ろす。
と、思うと。
急にリリスの隣に屈んだ。
そして、首を傾げて彼女の顔を覗き込む。
「――種族を変えるのは勢いでやっちゃダメよ?」
そう言って、ニッコリと笑った。
一瞬、場が静まりかえる。
「は?」
「……ええと、ヴェラさん……?」
リリスは己の手を見つめる。
そっと握ったり閉じたりしてみる。
何も変わっていない。人間のままだ。
「私、息が苦しくなって」
「ええ、緊張してたんでしょうね」
「……力が抜けて」
「魔界の街を人間が生身で歩いてきたんだもの。そりゃ疲れるわよ」
リリスは、そろそろと、自分が飲み干したゴブレットを指さす。
「血の味がして、のどにドロドロまとわりついて」
「ええ、あらごしのトマトジュースだから」
「え……?」
「あらごし……?」
ベルもリリスも唖然として言葉を失った。
「……だ、騙したんですか!?」
リリスの言葉にヴェラのほうが目を丸くする。
「人聞きの悪い! 覚悟を見せて欲しかったのよ。口だけなら何とでも言えるもの!」
それから、リリスに向かって笑った。
「命をかけた覚悟は本物だったわ」
ヴェラが、ふとリリスに手を伸ばす。
「良かったわ。ベルを追いかけてきたのが、あなたで」
まるで幼い子供にするように、リリスの頭をそっと撫でた。リリスは撫でられてどうしていいかわからない顔でそのまま受け入れていたが。
「……母上」
ベルが静かに切り出す。
口元には笑みを浮かべているが、目が笑っていない。
「お戯れが過ぎます。絶対に許しません」
「あら、本気で怒ったわね。ヤバ」
「ヤバ……!?」
「じゃ、あとは若い二人でごゆっくり♪」
ヴェラは軽く手を振ると、夜空に向かってひらりと飛んでいってしまった。
リリスは唖然としてヴェラが飛んでいった方を見あげた。
二人の間に、しばしの静寂が訪れる。
「……リリス」
「はい? きゃ……!」
リリスが振り向く間もなく、ベルがリリスの腕を引いた。
そのまま、堰を切ったように、抱きしめられる。
リリスは目を丸くした。
何が起きたのかわからなかった。
ゆっくりと状況を理解して、みるみるうちに顔が赤く染まる。
「……あ、あの、ベルさん」
ベルは何も言わない。
彼の身体に、人間らしい温もりは無い。
けれど、閉じ込められるような腕の中は、不思議と居心地が良かった。
だが――このままでいるのはどうにも気恥ずかしい。リリスはおずおずと尋ねる。
「えっと、そろそろ離していただいても……」
「嫌です」
即答だった。
「お、怒ってます?」
「ええ、とても」
低い声だった。
リリスは思わず肩を縮こませる。
「何故あんな無茶をしたんです。母の気まぐれが無ければ死んでいたんですよ」
「私はただ、ベルさんに会いたくて……」
「何故あなたはそのように向こう見ずなのですか」
抱きしめる力が、わずかに強まる。
「等価交換の計算もできない。損得勘定もできない。命がいくつあっても足りませんよ」
「す、すみません」
リリスの謝罪を聞いて。
ベルは、深く息を吐いた。
「……あなたを青空の下に返そうと思ったのに
」その声は、どこか疲れていた。
「聖女として再び生きる道を、選ばせたかったのに」
リリスは、そっとベルを見上げる。
長い睫毛が伏せられている。
「手放せなくなってしまったではありませんか……」
とうとう限界を迎えてしまったかのように、ベルは嘆息した。
それは諦念にも安堵にも聞こえた。
「……手放さなくて、いいです。ベルさんのそばにいさせてください」
リリスは、おそるおそるベルの服を握った。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて。
「……はい」
観念したようにベルが言った。
鼻をすする音が微かに聞こえた。
「え、ベルさん泣いて……?」
「泣いてません」
ベルはリリスを腕におさめたままぴしゃりと言ったが、リリスの肩に、確かに温かいものが伝って落ちた。




