第30話 聖女、魔界へ降りる
騒がしい街の向こうに、目指すべき城の姿をすぐに見つけた。
あの部屋に飾ってあった絵のとおりに、大きな満月の下で黒く輝く城を目指して、リリスは歩く。
「ん……? 変な気配がするな……」
「お、おい! あれ!」
街を歩いていた魔物たちが、リリスの気配を感じて振り向き、その姿を見て大混乱に陥った。
「うわああああ!?」
「なんで聖女がこんなところに!?」
「下がれ下がれ! 浄化されちまうぞ!」
魔物たちは我先にと押しのけ合いながら、リリスから距離を取る。有象無象の群は道を開くようにざっと左右に崩れ、結果としてリリスの前には、ベルの城に繋がる一本道ができあがった。
リリスは足を止めない。
何かが騒いでいる気はしたが、道が空いているのだから問題はないと思った。
今の彼女には、魔界の喧騒も恐ろしい異形の魔物たちもどうでもよかった。
ただ、ベルに会いたいという気持ちだけがリリスを突き動かしていた。
騒々しかった城下とは打って変わって、黒い城は静けさに満ちていた。
「止まれ、何者だ」
衛兵がリリスの前に立ち塞がる。リリスは臆することなく言った。
「ベルさんに会いに来ました」
衛兵ふたりは困惑して顔を見合わせた。
「ベル様に……? 許可はとっているのか?」
「通してください」
リリスが衛兵の脇をすり抜けようとするので慌てて止めるてて止める。すると、門の向こうから、艶やかで凛とした女性の声が響いた。
「退きなさい」
衛兵たちは一斉に跪いた。現れたのは黒いドレスの美女――ヴェラだった。
「彼女は私のお客さんよ……いらっしゃいリリスちゃん」
ヴェラは相変わらず優美に微笑んだ。
「ヴェラさん……」
ヴェラは、黒曜石の廊下を通り、応接間らしき広間に、リリスを通した。
「よく来たわね。浄化されるって誰かが叫んでいたからすぐわかったわ」
ヴェラは優美に微笑み、ティーポットとカップを出現させると、自ら茶を淹れ始めた。
「座りなさい。せっかく来たんだもの。お茶くらい出すわ」
「――ベルさんは」
リリスは迷わずに尋ねる。
「ベルさんは、どこですか」
ヴェラの口元から笑みが消えた。
真顔の彼女は、ぞっとするほど迫力があった。
「――あの子は、人間界で大きな傷を負ったわ。身体だけでなく、心にも」
静かなヴェラの言葉に、空気がびりびりと震える。
「あなたは、あの子をどうしたいの?」
「私、ベルさんに会いにきました」
リリスはヴェラの金色の瞳をまっすぐに見た。
「ひとめだけでもいいんです」
「私の魂を差し出しても構いません。ヴェラさん、必要なら、私と契約してください」
ヴェラは一瞬目を見張った。
しかし、ヴェラはゆっくりと首を横に振る。
「ダメよ」
「だって貴女、ベルのためなら、もう魂なんて惜しくないんでしょう」
ヴェラの言葉に、リリスは息を呑む。
図星だったからだ。
「私はね、契約して当たり前のものを、当たり前にもらう――そんなつまらないことはしないの」
そう言って、ヴェラが空中に手をやると、何もなかったところからゴブレットが出現した。
「私があなたに求めるのは、これよ」
ヴェラが差し出した黒のゴブレットの中には、赤い液体がなみなみと入っている。
「これは、ベルの血に、この世のありとあらゆる悪徳を混ぜたものよ」
赤い液体が月明かりを受けて、煌めく。
「これを飲んだら、あなたは人間ではなくなる」
リリスは思わず顔を上げた。ヴェラの目は真剣だ。
「二度と、太陽のもとを歩くことはできない」
ごくり、とリリスは自分の唾を飲みこむ。
心臓の鼓動が速い。
「適応できなければ、死ぬわ」
ヴェラの言葉が城の中で反響する。
「どう? それでも賭けてみる?」
リリスの手は震えた。
怖くないわけがなかった。
それでも。
「これを飲めば……会えるんですね?」
迷いは無かった。
そのままゴブレットを一気に煽る。
鉄のような苦味。
ドロドロとした液体が喉にまとわりつく。
それでも、リリスは一滴もこぼさなかった。
――一息で飲み干す。
ゴブレットをテーブルに置く音が、やけに大きく聞こえた。
胸がドキドキして、息が苦しい。
それでも、確かに飲み干した。
ヴェラもわずかに金色の眼を細める。
リリスは震える唇で言った。
「や、約束です、ベルさんに――」
「リリス……?」
懐かしい声がして、リリスは振り返った。
ベルが呆然として自分を見つめている。
――生きている。
ちゃんと、そこにいる。
「ベルさん……よ、良かった……」
急に全身の力が抜けて、リリスはその場に崩れ落ちた。
「リリス!」
ベルがこちらに駆け寄ってくる。その姿が、やけにゆっくりと見えた。




