第29話 リリス、ベルを追う
その夜、皆が寝静まった後。
リリスは、忍び足で、ひとり王宮の地下牢へ向かっていた。
石の廊下は冷えきっていて、足音だけがやけに響く。
胸の奥で、心臓の音が大きく聞こえる。
――してはいけないことだと、わかっていた。
片手にはランプを掲げ、もう一方の手の中には……盗んできた牢の鍵がある。
生まれて初めて、盗みを働いた……握るたびに、その重みがはっきりと伝わる。悪いことなのは百も承知だ。
それでも――迷いはなかった。
彼が、真っ暗闇の中で一人閉じ込められている事を想像するだけで、耐えられなかった。
廊下を途中まで歩いたところで、リリスは立ち止まった。
看守たちが、全員床に転がっている。
一瞬、死んでいるのかと思って血の気が引いたが、規則正しい寝息が彼らから聞こえてきた。
それにしても、看守がみんな揃いも揃って眠っているなど、ただ事ではない。
「ベルさん――?」
嫌な予感がする。
盗んだ鍵を錠に入れて回し、重い鉄の扉を開けた。
ランプで照らすと、誰のものとも分からない白骨が隅に転がっているだけだった。
一瞬ひるんだリリスだが、求めていたベルの姿はどこにもない。
「ベルさん……?」
一瞬、理解が追いつかない。
「いったい、どこに……」
目を凝らして……リリスは、床にわずかに残る、キラキラとしたものを見つけた。
拾い上げると、灰の欠片だった。――ベルの、気配がする。
きらきらとした跡が、よく見るとリリスがもと来た道へと続いていた。彼のいる牢にたどり着くことしか考えていなかったから、足元などよく見ていなかったのだ。
彼は――どんな魔法を使ったのかはわからないが、ともかく、外に出た。その残滓がこの灰だ。
リリスはその場に座り込んでしまった。
手の中の鍵が、ひどく冷たい。
「……ベルさん」
かすれた声が、静かに落ちる。
「私に、何も言わずに……」
胸の奥が、ぎゅっ、と締まる。
一年前に、湖で拾われて。
そして、置いていかれた。
その事実だけが、やけに鮮明に浮かぶ。
(……それでも)
問いが、浮かぶ。
自分はこのままでいいのか。
ここに残るのか。
……答えは、すぐに出た。
廊下を引き返して、地下牢の入り口から王城に戻った。ランプの火を消し、灰の跡をたどって、そのまま外に飛び出そうとした――そのとき。
「そこで、何をされているのです?」
声がして、はっとして振り返る。
窓から差し込む月明かりの下、アナスタシアとテオの姿があった。
逃げ場はない。
「リリス様……一体、何を……?」
アナスタシアの視線が、ゆっくりと下がる。
リリスの手。
そこに握られた、鍵。
言い逃れは、できない――するつもりも、なかった。
「アナスタシア様……」
リリスは、鍵を隠さなかった。
むしろ、鍵を持ち上げて、彼女に差し出した。
「ごめんなさい」
はっきりと、言う。
「……あの悪魔に誑かされたのですか?」
「違います」
即座に、首を振る。
「あの人は……たぶん、私を置いていきました」
静かな声だった。
「――え?」
アナスタシアが、言葉を失う。
「脱獄、していると……?」
テオが低く呟く。
その問いに、リリスは小さく頷いた。
そして、一歩、踏み出す。
「私、行きます」
視線をまっすぐに外へ向ける。
「彼のところへ」
その言葉には、もう何の揺らぎもなかった。
罪も、迷いも。
すべて、引き受けたあとの声音だった。
「……リリス様、そんな。お待ちください」
アナスタシアは静かに呼びかける。
「今なら、牢の鍵を盗んだことは私の胸ひとつにとどめておきます」
一歩近づき、リリスに手を差し出す。
「ですから、どうかこれ以上は馬鹿なことはお考えにならないで」
アナスタシアは本気で自分を心配してくれている。それが痛いほどに伝わってくる。
彼女のもとにとどまるのが、一番正しいとリリスにもわかっていた。
それでも、張り裂けそうな心が叫んでいる。
たとえすべて間違っていたとしても、ベルがいない世界に意味はないのだ、と。
「アナスタシア」
テオが、妻の肩に手をそっと置いた。
「もうリリスの好きにさせてやらないか」
アナスタシアは驚いてテオに振り向いた。
「何をおっしゃるのです!」
「……初めてなんだ。彼女がここまで我を通そうとするのは」
子どもの頃からリリスを知っているテオの言葉には重みがあった。
アナスタシアは小さく息を呑む。
「リリスはずっと、人のためだけに生きてきた」
テオの瞳が、リリスをじっと見た。
「だから、もう解放してやりたい」
目線だけで、行け、と背中を押されているようにリリスは感じた。
「……ありがとうございます。王太子殿下、聖女妃殿下」
深々と頭を下げる。
「受けたご恩は、一生忘れません」
――この先、この優しい二人に会うことは、もう二度と無いような気がした。
リリスは、二人に鍵を返すと、そのまま走った。
アナスタシアは、何も言えずに背を見送るしかなかった。
「テオ様……」
いつも自信と矜持を失わない彼女が、呆然として夫の名を呼ぶ。
リリスのために最善を尽くした。これから二人で聖女の使命をどうするかも考え尽くしていた。
なのに、彼女は去ってしまった。
「すまないな……何があっても君の味方になると誓ったのに」
テオは、アナスタシアを、自分の胸の中に抱き寄せた。
「だが、あれは止めてはいけないと思ったんだ」
「私、何か間違っていましたか……?」
アナスタシアは不安そうに尋ねた。
「私に何か至らない事があって、リリス様は――」
「違う。君に非はない」
テオははっきりと否定した。
「リリスが、自分で選んだだけだ」
ベルの痕跡をたどって城を出たリリスは、木の幹の穴にたどりついた。
這いつくばって中に入ると、ベルとともに過ごした家である。しかし、そこはいつもの入り口ではなく、裏口のようなところだった。
あれほどたくさんあったベルの私物が一つ残らず消えていた。
ボトルシップも。
標本も。
大量の本も。
彼は、もうここに戻るつもりがないのだ。
がらんとした部屋の中で、リリスの持ち物と服が、丁寧に一つにまとめられている。
いつも移動に使っていた方の扉を、開けた。
魔物達が跋扈する街。
獣じみた笑い声がけたたましく響く地獄の様相。
「ベルさん――魔界へ、帰ったんですね」
リリスは荷物を無視して、白いナイトドレス一枚で、扉の外へ飛び込んだ。




