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第28話 地下の牢獄

 王宮では、前聖女リリス帰還の報が、静かに、しかし確実に広がっていた。


 聖女付きの侍女たちが、ひそひそと囁き合う。


「ねえ……聞いた? リリス様が戻られたって」


「本当なの……? だって、あの方は力をなくしたはずじゃ……」


 別の侍女が首を振る。


「それが、この一年で力を取り戻したそうよ。王太子殿下の傷もすぐに癒やして、瘴気から人を守ったって……」


「……でも」


 ひとりが、ぽつりと漏らす。


「今の聖女様は、アナスタシア様でしょう?」


 すぐに、別の侍女が強くうなずいた。


「そうよ。妃殿下は、これまでの聖女ができなかったことをしようとしているわ。施療院の改革だってやっと成果が現れようというところなのに」


「今回のドラゴン討伐だって、アナスタシア様の防護魔法が無ければ何人死んでいたかわからないわ!」


 擁護の言葉は、次々に重なる。


 それは噂話ではなく、彼女たちが見てきた事実だった。


 だからこそ。


「……でも、リリス様が力を取り戻したら、どうなるの?」


 その一言で、空気が冷えた。


 声が、ひそまる。


「ねえ……アナスタシア様は大丈夫……?」


 不安は、抑えきれない。


「コルネリウス大聖務官は、アナスタシア様をよく思っていないでしょう?」


「もしリリス様が再び聖女になったら――」


 言葉が、続かない。


 けれど、その先は誰もが想像していた。


「そんな……だって、妃殿下のお腹には、もう……」


 空気が、重く沈む。


「……どうして今になって戻ってこられたのかしら!!」


 誰かが、リリスに苛立ちをぶつけるように声を荒げた。


 周りの侍女達も、その波に乗りかけた――そのとき。


「おやめなさい」


 低く、よく通る声が、空気を断ち切った。


 振り返る。


 そこに立っていたのは、アナスタシアだった。


 侍女たちが一斉に息を呑む。


 顔色は明らかに優れない。


 それでも、その背筋はまっすぐだった。


「妃殿下……! お身体が――」


「大丈夫です」


 短く言い切る。


 だが。


「大丈夫ではありません」


 隣の女性が口を挟んだ。


 アナスタシアの実家から付いてきた、幼馴染の侍女である。


 顔はにっこりと笑んだまま、しかし有無を言わせない迫力があった。


「極大魔法を行使された直後です。無理をして良い状態ではありません」


「……ですが」


「ですが、ではありません」


 ぴしゃりと言い切る。


「お腹のお子に異常がなかったのは幸運でした。次は保証できない、とお医者様はおっしゃいましたよね?」


 その言葉に、周囲の空気がさらに張り詰めた。


 アナスタシアはわずかに目を伏せる。


「……はい、ごめんなさい」


 素直に謝罪して、手近にあった椅子に座る。


 古参の侍女はようやく息を吐いた


 咳払いを一つして、アナスタシアは静かに顔を上げた。


 視線は、不安そうな侍女たちへ。


「ともかく、リリス様のことで、あなたたちが思い悩む必要はありません」


 静かに、しかし芯がある響き。


「実は、私はずっとリリスさまを密かに探していたのです」


 侍女たちは驚いて目を丸くした。アナスタシアの古参侍女だけが、わかっていたように静かに目を伏せる。


「リリス様は、あのように手酷く追放されるべき人ではないと思っていましたから。リリスさまが戻られたらどうするかも、私はずっと考えていて、すでに根回しもしてあるのです」


 想像を越えていたアナスタシアの考えに、侍女たちのざわめきが収まっていく。


「ですから、何も心配せず、今この場でなすべきことをなさい」


 アナスタシアがそういう頃には、安堵の空気さえ漂っていた。


 そのとき。


「妃殿下、リリス様をお連れいたしました」


 別の侍女が告げ、空気が、再び張りつめた。


 扉が開き、リリスが静かに入室してきた。


「……お久しぶりです、アナスタシア聖女妃殿下」とリリスは丁寧に礼をした。


「リリス様……お帰りなさい。大変でしたでしょう」


 アナスタシアは、心からリリスを労っていた。


「ご無事で何よりでした」


「……はい、ありがとうございます」


 消え入りそうな声で、頭が地につきそうなほど深く、リリスは礼をした。


「着席したままで申し訳ありません。少し体調がすぐれなくて」


 アナスタシアの謝罪にリリスは慌てた。


「そんな、当然です。あんなに巨大な防護魔法を使ったあとなのですから……無理はなさらないでください」


 リリスはアナスタシアの懐妊をまだ知らない。それでも、顔色がすぐれないことはわかった。


 アナスタシアは少しリリスに微笑んでから、侍女たちに命じる。


「あなたたち、この方は私と殿下の大切なお方です。花よりも丁重に扱うこと。いいですね?」


 侍女たちはうなずき、アナスタシアの言葉に忠実に動いた。


 花を浮かべた湯。


 やわらかな香り。


 丁寧にほどかれていく髪。


 すべてが、あまりにも行き届いていた。


 清潔なシルクのワンピースに袖を通して、一息つく。


「……どうして、ここまで」


 ぽつりとこぼれる。


 アナスタシアは穏やかに首を傾げた。


「何がでしょう?」


「私に、こんなに親切にしてくださる理由です」


 まっすぐな問い。


「婚約破棄の場で、一度お会いしただけですよね?」


 少しの沈黙。


 それから、アナスタシアは静かに口を開いた。


「普通は、婚約破棄されたら、恨み言を言うか、あるいは何も言えずに黙ってしまうでしょう」


 リリスは黙って聞いている。


「しかし貴女は誰のことも恨まずに、自ら一人で責任をかぶってその場を去った。私は、あなたのその善性を信じます」


 真剣に言い切ってから、アナスタシアはふと表情を緩めた。


「ちなみに私があの立場だったら婚約者の顔に拳一発くらいはかましていたでしょうね」


「えっ!? そんなことできません!」


「冗談ですわ」


 アナスタシアはふふっと微笑んだ。


「それに……、貴女が立場を追われてから暫く経ったとき。子供をあなたに弔ってもらったというお母さんの話を人づてに聞きました」


「あ――」


 忘れるはずもない。修道院であんなことがあって、その後大丈夫だったのだろうかと心配していたのだ。


「最後に子どもの安らかな顔をみることができた、とその方は大変感謝されていたそうですよ。それを聞いて、あなたは私の思っていた通りの方だ、と確信いたしました」


「そんな、私なんて……王都のすべてを覆う防護魔法を使えるアナスタシアさまに比べたら……」


 リリスの言葉に、アナスタシアは首を振る。


「私は、聖女とは治癒魔法の力の大きさで決まるとは思いません。もっとも大事なのは、魂の在り様だと思います」


 ――魂の在り様。


 その言葉を聞いた瞬間。ベルの顔がリリスの脳裏をよぎって、一瞬動きが止まった。


 アナスタシアはリリスの様子には気づくことなく、侍女に紅茶を淹れさせる。


「お砂糖、入れますか?」


 何気ないアナスタシアの言葉に、今度こそリリスは固まってしまった。


 ベルが自分を拾ったとき。


 初めて紅茶を淹れながら尋ねた言葉と一緒だったからだ。


「……リリス様?」


 呼びかけに、はっと我に返る。


「い、いえ……ありがとうございます」


 カップを受け取る手が、ほんのわずかに震えていた。


 それを、怯えと受け取ったらしいアナスタシアは、リリスを安心させるように笑った。


「我々はあなたを全力でお守りいたします。悪魔に手出しなど決してさせません」


「……ありがとう、ございます」


 答えながら、リリスは、カップの中の紅茶を見つめる。


 湯気が、静かに立ちのぼる。


「それで、今後の聖女の任についてなのですが、リリス様さえよろしければ――」


 アナスタシアの言葉は、もうリリスの耳に入ってこなかった。


 こんなにも、清く正しく、穏やかな場所なのに。


 リリスの胸の奥は、がらんどうだった。


 あれほど望んだ世界にいるのに、ベルだけがここにいない。


 それだけで、どうしようもなく、リリスの心は真っ暗闇のなかに取り残されたようだ。


「一つ聞いてもいいですか」


「ええ、もちろんです」


 アナスタシアは快く頷く。


「あの、ベルさ――悪魔は、今どこに?」


 尋ねられて、アナスタシアの口から笑みが引っ込んだ。


「……ご安心ください。あの悪魔は、王城の地下牢、最奥の部屋に収監しました」


「あそこは、確か――!!」


 リリスの言葉にアナスタシアは頷く。


「死刑制度がない我が国において、あそこは実質処刑場。一度あの檻に入れた囚人は、二度と出てくることはありません」


 アナスタシアはリリスを安心させるように言った。


 それが、リリスに、更に深い絶望をもたらしたことを知らずに。




 窓一つ無い、王城の最下層にある地下牢。


 燭台の灯りだけがともる長い廊下の最奥にある、鉄の扉。


 その扉の向こうに、ベルは収監されていた。


 最凶最悪の大罪人が入れられる檻だというこの部屋に、誰かが入るのは実に数十年ぶりだと看守は言った。


 光の差し込む隙間もない、暗闇のなかにベルはいた。


 ベルは、銀の鎖で拘束されたまま、冷たい石の床に座りこんで、一言も喋らない。


 看守が差し入れ口から、水や食料の乗った盆を渡しても、何も言わない、口にしない。


 半日経っても、排泄も睡眠もしない。


 扉の向こうの看守たちは、不気味そうに囁きあった。


 やはりあれは人間ではないのだ、と。


 ベルが何もない石の壁をぼんやりと見つめていると、看守たちの噂話が耳に入ってきた。


 ――重い鉄の扉の向こうなので、人間の聴覚では到底聞こえない。


 人でないベルだからこそ、聞き取ることができた。


「――リリス様には驚いたな。ずっと潜伏して悪魔討伐の機会を狙っておられたとは」


「髪と瞳の色を変えて身分を隠し、施療院で人々のために働いていたそうだ」


「やはりあの方は真の聖女だな」


 彼らの声音には称賛の色がにじんでいる。


 ――これで良かったのだ、とベルは思った。


 あのとき、澄み渡る青空の下にいるリリスを見て。


 太陽の化身のようなテオドロスと並んでいる姿を見て。


 彼女は、あちらにいるべき人間だと理解した。


 世間に見捨てられたまま、自分が囲いこんで終わって良い人では無かった。


 少し体をひねれば、足元に何か固くて軽いものがぶつかった。


 音と感触だけで、人骨だとベルにはすぐわかった。


 この部屋に入れられた者は二度と日の光を浴びることはないのだろう、と推察できた。


 人間たちが自分を永久にこの地下牢に閉じ込めておくつもりなら――最後に自分が見たものが、晴れ渡る青空と、リリスの顔で良かった、とベルは思った。


 笑顔ではなく、泣き顔だったことだけが悔やまれるが。




 ――突然、地下牢の廊下に並ぶすべての蝋燭の灯りが吹き消えた。


「な、なんだ!?」


 衛兵たちが慌てて槍を構える。


 だが、突然糸が切れたように、意識を失ってバタバタと倒れ、そのままいびきをかいて眠ってしまう。


 しゅるる……と微かな音が聞こえて、ベルは眼を細めた。


 冷たい地下室の隙間のどこからどう入ったのか、黒い蛇がするするとこちらに侵入して、近づいてくる。


 蛇は、差し入れ口から牢に入ってくると、とぐろを巻いて大きくなり、あっというまに黒いドレスに身を包んだヴェラの姿になった。


「……酷い格好ね、ベル」


 母は開口一番、そう言った。


「……ええ、お見苦しいところをお見せして申し訳ございません」


 鎖に拘束されたまま、ベルはヴェラに頭を下げる。


「やっかいな拘束を受けたものね。銀の鎖なんて。つけられる前に逃げればよかったのに」


「……良かったのですよ、これで。おかげで、リリスは人間界での地位と名誉を取り戻すことができます」


 ベルの声は、牢には似つかわしくないほど、穏やかだった。


「……そう」


 ヴェラは、それ以上何も言わなかった。


 ただ、じっとベルを見つめる。


 感情の読み取れない、静かな眼差しだった。


 やがて、何もない空間から、緑色の炎がひとつ、彼女の手の中に灯る。


 小さく、揺らめくそれを、ヴェラは、ためらいもなく――ベルへと吹きかけた。


 炎は触れた瞬間、静かに燃え広がる。


 熱も、音もないまま。ただ、確実に。


 ベルの身体を侵していく。


 「母上――」 


 ベルが何か言いかけたが、それも長くは続かない。


 輪郭が崩れ、形を失い――。


 そこにあったはずの彼の身体は、すべて真っ白な灰となった。


 ヴェラは、灰の山を無言で見下ろして、しばらくの間動かなかった。




 

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