第22話 善意の値段
それから数日後。
事典と娯楽本を返却しに来たテオは、「しばらくこちらには来られなさそうだ」と告げた。少し名残惜しさを滲ませながら。
おそらくは、アナスタシアの妊娠を報告されて、古書店どころではなくなったのだろう。
ベルはほぼ確信を持っていたが、テオには何も言わなかった。
しかし、すぐには警戒をゆるめなかった。もし「閉店中」の看板を見たテオがリリスと鉢合わせなどしようものなら、たまったものではない。
リリスを送り出してから、古書店を開いて、テオが来るか来まいかと数日は気を揉んだ。
――テオの最後の来訪から五日目。
ベルはようやく、もう大丈夫だろう、と安堵した。
安堵したついでに、しばらくテオの相手で疲れていたため、店の外に出て居なかったことを思い出す。日が落ちてから久しぶりに街を歩くことにした。もしもリリスと鉢合わせたら、彼女を拾って家まで一緒に帰っても良い。
そんなことを考えながら歩いていると、もう冬になろうというのに、道の端に座り込んだ老人を見つけた。
普段のベルなら気にも留めないのだが、老人が羽織っているものを見て、足が止まった。
「は……?」
見間違えるはずがない。
あの質感も、色も。
数日前、リリスが「置いてきてしまった」と言った外套が、物乞いの老人をすっぽりと覆っている。
老人は炊き出しを受けたのか、湯気が立ちのぼる皿を旨そうに啜っている。
「あの……」
ベルに声をかけられた老人は驚いて彼を見上げた。
「その外套は、どうなさったのですか……?」
「ああ、これかい」
老人は、黄色い歯をむき出しにして、笑顔を見せた。
「天使のようなお嬢さんが施してくださったんだ。これで冬を越せそうだよ」
外套を大事そうに撫でている。
「お嬢さんは、毎日ここを通る時に、銅貨を五枚必ず恵んでくださるんだよ。今日も待っているんだ」
「――今日は来ないと思いますよ」
ベルは淡々とした声で老人に告げた。
「え、でも……」
「立ち去りなさい」
ベルの言葉に、老人は催眠術にかかったように目の色を失い、ふらふらとその場を立ち去った。外套は取り戻さなかった。等価交換ができるような相手ではなかったから。
完全に老人が立ち去って、ベルは長いため息を吐いた。
「――え、ベルさん……?」
リリスの声がして、ベルは振り返った。
「お帰りなさい、リリスさん」
ベルはいつもどおりの微笑みを浮かべるが、リリスは、小さく息をのんだまま、自分を見つめている。
その瞳に浮かんだ戸惑いは、まだ形になりきっていなかった。
「……あの、今そこにいたお爺さんと、話していませんでしたか?」
ベルはしばらく黙っていたが、微笑を崩さずに答えた。
「……ええ、貴女をお待ちしていたようでしたが。今日は来ないと思いますよ、とお伝えしました」
「どうして……?」
リリスの声が震える。
「あの人、きっと困っていらしたのに」
「リリスさん」
ベルは一歩、リリスに歩み寄った。
声はいつも通り穏やかだ。
だが、有無を言わせぬ迫力があった。
「色々とお伺いしたいことがございます」
「べ、ベルさん」
まだ困惑しているリリスを連れて、路地裏にある扉のひとつを適当に開くと、ベルは自宅に帰ってきた。
「――リリスさん、銅貨五枚とは何のことです?」
帰宅するなり問いつめるベルに、リリスはすぐに答えた。
「施療院のお手伝いで、一日に銅貨五枚をお給料にいただいているんです」
リリスの瞳には一点の曇りもない。
「銅貨五枚……」
ベルはリリスの言葉を反芻する。
「それが一週間……三十五枚も、残らずあげてしまったのですか?」
「はい……それが何か……」
何がいけないのかまるでわかっていない様子だ。
ベルは更に続ける。
「あなたの労働の対価だったのでしょう。何故全部あげてしまったのですか」
「でも、困っている人がいたので……」
微笑みすら浮かべるリリスに、ベルは苛立ちを募らせる。
「それに、あなたの外套も物乞いにあげてしまいましたね? 何故ですか」
「私が持っているよりも、その日の暮らしに困っている人にあげた方が良いと思いました」
「あなたが風邪をひいたかもしれないのに?」
とっさに言ってから、ほんの一瞬だけ間があいた。
「困っていらしたので……」
会話になっていない。
――何故こんなに苛立つのか、ベルは自分でもわからずに困惑した。人間の破綻など、今まで飽きるほど見てきたというのに。
いつもと違う様子のベルに不思議そうな顔をしていたリリスだが、不意にはっと気づく。
「……あ、ベルさんに最初に伝えるべきでしたよね。衣食住のお世話になってるんですから……」
「そういうことではありません」
ベルはぴしゃりと言った。
「あなたの労働の対価なのですから、あなたが好きに使えばよろしい」
声音が、わずかに強くなる。
「しかし何故自分の取り分を少しでもとっておかないのですか」
他人の金の使い道など、本来ベルが口を出すことではない。
普段なら気にも留めないはずのことなのに。
「……?」
リリスは首を傾げている。何を叱責されているかまだわかっていないようだ。
「物乞いは、銅貨の対価にあなたに何かしてくれましたか?」
「私は、何かをしてもらおうだなんて……」
「この世は等価交換で成り立っているのです。それがわかっていないから、あなたは利用されるんですよ」
ベルのきつい物言いに、リリスはようやく戸惑いを見せた。
「利用だなんて……私は、ただ」
「理解ができません」
ベルは、ため息をついて目を閉じ……そのとき、不意に昼間のやり取りが脳裏をよぎった。
『私は『この国を任せてもいい立派な王太子』と思われていなければならない』
『たとえ、実際の私がどうであろうとも、だ』
「――ああ、そうか」
ベルは、ようやく納得したように、三日月のような笑みを浮かべた。
口元はにっこりと笑っているのに、眼が人を嘲るように冷たい。
「あなたは、未だなお『聖女』だと思われていたいのですね」
ベルの言葉に、リリスは少し眉根を寄せた。
「……どういう意味ですか」
「あなたは聖女以外の生き方を知らないから。そうでは無い自分になるのが怖いのでしょう。……そうでなければ、そこまで自分をないがしろにする理由が説明できません」
薄笑いを浮かべているベルを、リリスはむっとした顔で見上げた。
「さっきから、何なんですか。私の何がいけないんですか」
「いけないとは言っていませんよ」
ベルは、リリスに顔をぐいと近づけた。
「あなたの望みが『聖女として皆に認められること』ならそれでも構いません」
猛禽のようなベルの瞳から、リリスは逃げられなくなる。
「私がもっと安全に、もっと世に広くあなたを認めさせてみせましょう――魂をいただけるのでしたら」
リリスは思わずあとずさった。
「今のあなたのやり方では、その隙につけ込んでゴミもクズもあなたを利用する」
ベルの冷たい言葉に、リリスは頭にカッと血が上った。
「なっ……なんて意地悪な言い方!」
「現に、一年前にこの国に見捨てられたことを、もうお忘れですか? おめでたいおつむですね」
ベルの酷い言い方にリリスの頬がぷるぷる震える。
「ベルさんの……悪魔!」
「はい、悪魔ですが何か」
ベルは落ち着いている。
「私はあなたと違って、周りに聖人だと思われたくはありませんから。だいたい――」
ベルが言いかけたところで、バン! と大きな音が部屋に響いた。リリスが机を叩いて立ち上がったのだ。
「違います!」
リリスの大声に、ベルはさすがに驚いて眼を見張る。
「困っている人を助けるのは当たり前のことです! 私はただ……」
反論しようとして、リリスは次の言葉がうまく出てこない。
「……もう結構です!」
リリスは、立ち上がって、自分の部屋に駆け込むとバタン、と大きな音を立ててドアをしめてしまった。
ベルはしばらく呆然としていた。
リリスが怒っているところを初めて見た。
婚約者に裏切られ、民に石を投げられ、修道女たちにいじめられても彼女は怒らなかったというのに。
「……少しだけ、おとなげなかったでしょうか」
――だが、すぐに首を振る。
事実を述べただけだ。
あの程度の指摘で崩れるようなら、それまでの話だろう。
そう、理屈ではわかっている。
それでも、妙に落ち着かない。
胸の奥に、わずかなざらつきが残っている。
……原因は明白だ。
理解できないからだ。
彼女の行動も、価値観も――何一つ、計算が合わない。
ベルはため息をついて、しばらく椅子に座っていた。
その日の夜、ベルが紅茶を淹れて部屋をノックしてみても、リリスが答えることは無かった。
……反りが合わなくなったのなら、切り捨てればいいだけのはずだ。これまでずっとそうしてきたし、困ったこともない。
なのに――何故か、それができない。
意味など無いのに、ベルは閉ざされた扉の前から暫く動くことができなかった。




