第21話 腹黒悪魔、天然王太子に翻弄される
翌朝、リリスが施療院に向かうのを見送ってから、ベルが店を開けようとすると。
テオがすでに入口に立っていた。
「本を返しに来た」
「……」
貼り付けた笑顔のままベルは固まる。まさか昨日の今日でやってくるとは思っていなかった。
「……随分お早いのですね」
「こういうのは、後で読もうと思っていると一生読めなくなるからな」
テオは丁寧に包んだ本をベルに差し出す。
「なかなか興味深かった。妻もおもしろがってくれた」
「それはそれは」
ベルは無意識のうちに早口になっていた。
今度はとびきり分厚い本を押し付けてやろうと考えながら。
「今日も見ていって良いか」
テオが言うが、ベルとしてはたまったものではない。
「申し訳ございませんが、本日は在庫整理でして」
「では手伝おう」
(何故???)
「……何故ですか」
「一人でやるより二人のほうが早いだろう?」
テオは当然のように言った。
「しかし殿下はお忙しいでしょう」
「だから、二人でやればすぐ終わるだろうと言っている」
これ以上拒んでは怪しまれる。ベルは内心嫌々ながら「痛み入ります」と言ってテオとともに、予定に無かった在庫整理を始めた。
だがここでまた誤算が起きた。
(人間態で持とうとすると、この本の山、重い……!)
普段は移動魔法で本の山を横から横へ、下から上へ手を動かすだけで本が移動する。
だが、この国の人間は、聖職者の治癒魔法と、ごく一部の代々続く宮廷魔術師を除き、ほとんど魔法は使わない。市井の人間などが魔法を使ったら大騒ぎだ。テオの前で使うわけにはいかない。
(これだから人間は……王太子がいなければ在庫整理など三分で終わったというのに……!)
ベルの苛立ちなど知らず、テオが声をかけてきた。
「ご主人、この箱はどこに置けばいいんだ」
テオは軽々と本が詰められた箱を二、三箱積み上げて、スタスタ歩いている。さすが聖騎士団長を務めているだけあって、腕力がある。
結局、魔法が使えないベルは書籍の移動をほとんどテオに手伝ってもらってしまった。
「……助かりました。何か対価を――」
「良い。これくらい大したことはない」
テオは肩を軽く回しながら何でも無いように言った。
「しかし今までどうやって店を回していたんだ?」
嫌味ではない。本当に不思議そうに言うものだから腹立たしい。
「明日また本を借りに来てもいいか」
「……はい」
明日は百科事典でも押し付けてやろうかと思いながら、ベルは不承不承うなずいた。悪魔は、手助けしてきた人間には対価を支払うまで逆らえない性なのだ。
一方、リリスは、そんなことなど露知らず、「リリア」として、施療院の手伝いに取り組んでいた。
包帯や脱脂綿をはさみで切って棚に詰め、看護講習を聴講する。昼ご飯やおやつの休憩を挟みながら、午後は薬草を煎じて薬をつくるところを見学した。
今日で大方、一緒に働く人や患者の名前を覚えた。
夕方になって帰ろうとすると、マリーに呼び止められた。
「お疲れ様、はいこれお代金ね」
銅貨を五枚渡されて、リリスは驚いた。
「いいのですか? お金なんていただいてしまって」
「ええ、もちろんよ。今日は講習を聞くだけじゃなくて仕事をしてもらったからね。お給金。それで何か好きなものでも買ってちょうだい」
リリスは銅貨を握りしめて療院を出た。
教会は、労働の対価による報酬を忌避し、人々の善意による布施で生計を立てる。だから――これは、リリスが生まれて初めて自分の力で稼いだお金だ。
リリスの胸はドキドキと大きく鼓動した。
働いてお金をもらえることが、こんなに嬉しいことだなんて――!
リリスはワクワクしながら、銅貨五枚の使い道に思いを巡らせた。
リリスが好きなサクランボのパイは銅貨三枚で買える。屋台の飲み物も銅貨二枚でおつりがくる。
おやつに買ってしまおうか、それとも大切にとっておこうか。
……そんなことを考えながら歩いていた時だった。
「お恵みください……お恵みください……」
街ゆく人に慈悲を請う、皮と骨ばかりの老人を見つけた。
もうすぐ冬が来ようというのに、ボロ布一枚を身体に巻きつけただけの姿で。
リリスは、迷い無く老人に歩み寄ると、銅貨五枚を残らず、物乞いのそばにある椀にあげてしまった。
「おお、なんと……ありがとうございます、やさしいおじょうさん」
「いいえ。……あ。あと、これ良かったら。これから冷える季節でしょう」
そう言うと、リリスは羽織っていた外套を迷わず物乞いに渡してしまった。
「さすがにこれは受け取れねえ、おじょうさんが風邪を引いちまう」
物乞いは驚いて断ろうとしたが、リリスは微笑んだ。
「私の家はすぐ近くにあるので大丈夫です。……どうか、神様のご加護がありますように」
リリスは、祈りの言葉を告げると、そのまま去っていく。残された物乞いは、リリスの背を見送った。
「天使だ……天使様がお救いくだすった……」
物乞いは、地面に頭を擦り付け、リリスの足跡に感謝のキスをした。
翌朝、リリスが出発しようとすると、ベルに呼び止められ、いつもの外套はどうしたのか、と尋ねられた。
置いてきてしまった、と答えると、ベルはすぐに代わりの外套を用意してくれた。
「ショール一枚では冷えますよ。ほら、こちらを。今日は持ち帰るのを忘れないようにお気をつけて」
「はい……ありがとうございます」
外套を物乞いにあげてしまったことは何となく言い出せなかった。教会でなら善行として褒められただろうが、ベルはいい顔をしないような気がする。
昨日言った通りに、テオはまた古書店にやってきた。
「いらっしゃいませ、これをお貸ししますからお帰りください」
ベルは在庫の中で一番分厚い薬草の事典を押しつけようとした。
するとテオは眼を丸くした。
「ご主人、どうして私が借りようと思っていた本がわかったんだ?」
「……は?」
すぐに追い出してやろうと思っていたベルは、意外な反応にしばし言葉を失った。
「最近、少し妻の体調が優れない日があってな」
テオはそばにいない妻を心配するように言う。
「今朝、宮廷付きの医師に診てもらうから大丈夫だ、と言っていたが。普段はよく食べるのに食欲が無いときがあるし、少し顔色がよくない時もある」
「はあ……」
「治癒魔法を自分に使ってもいいと思うのだが、原因もわからないのに安易に使うべきでは無いと言ってな」
テオはもどかしそうに言葉を続ける。
「せめて、私が何か身体にいい茶でも用意できないかと思って、貴方に相談しようと思っていたんだ」
薬草事典の表紙を撫でるテオをベルはじっと見た。
(ご懐妊ではないのですか、それは……)
内心思ったが、相手は王太子である。迂闊なことは言いたくないと思って、触れないことにした。
「ではそれを持って早急にお帰りになっては?」
「戻ったところで、妻のもとにすぐ帰れるわけでもない。騎士団の出動時間まで持て余すだけだ。もう一冊、楽しく読めるものを選びたい」
テオは事典を片手で軽々と持って言った。
(こ、こいつ……!)
計略もない、腹黒さもない、こういう単純な人間の心は、ベルの専門外である。
純粋という点ではリリスに似ているが、テオにはリリスのような遠慮が無いのが腹立たしい。
「ご贔屓にしていただけるのはありがたいのですが。王太子様がこんな店に頻繁に立ち寄っていると知れたら、ご威光に関わるのではありませんか?」
遠回しに、もう来るなと言いたいのだが、テオはきょとんとしているだけで、真意は伝わっていないようだ。
「何故だ。別に悪いことをしている店では無いだろう?」
「さあ……殿下がご存じないだけで、悪徳に手を染めている店だったとしたら、どうなさいます?」
ベルの言葉にテオは眼をぱちぱちさせて、それからふと笑った。冗談だと思われたようだ。
「こんな風に軽口を聞いてくれる人などそうそういない。だから甘えてしまうのかもしれないな」
ベルが苦虫をかみつぶしたような顔になったことに気づかないまま、テオは本棚を眺めながらぽつぽつと語り出した。
「私は、公の場では常に『この国を任せても良い王太子だ』と思われていなければならない……たとえ、実際の私がどうであろうとも、だ」
長く整った、しかし僅かに硬質さを帯びている騎士らしい指が、民衆の娯楽小説を手に取った。
「人には多かれ少なかれ、こう思われていなければならない、あるいは思われていたい、顔というものがあるのではないだろうか」
珍しくもっともらしいことを言うでは無いですか、とベルは思ったが口には出さなかった。
「ここに一人でやっくる時や……妻と二人の時は、王太子としての顔をはずして、ただのテオに戻れるんだ。この前も――」
テオは、口をひらけば、本の感想のほかはほとんど妻のことばかりであった。
公務のことは古書店の主人などに話すわけにはいくまい。となると、自然と話題は限られてくるのだろう。限られてくるのだろうがそれにしても、だ。
(リリスは、この男に捨てられて、入水自殺まで考えたというのに。もしかすると、子どももできているかもしれない、とは……)
新妻の話を穏やかに語るテオの顔を見ていると、ベルはどうにも胸の奥がむかむかとした。
「――殿下は随分と愛妻家でおられるのですね」
低い声が出てしまって、ベルは自分でも驚いた。
(落ち着きましょう、私)
(この男が過去にリリスを手酷く捨てたからといって私に何の関係がありますか?)
ただ笑顔を貼り付けて、いつものようにあしらえば良いだけだ。
そう自分に言い聞かせていたのに。
「以前の婚約者のことはすっかりお忘れになられたようですね? お幸せそうな頭で何よりです」
言ってしまってから、ベルは己の失言に気づいて口を覆った。
言うつもりなど、無かったのに。幸福そうな王太子の顔に無性に腹が立って、口が滑った。
テオはしばし瞬きをして、じっとベルを見た。
「意地の悪い言い方だな」
怒ってはいなかった。苦笑交じりにベルを見る。
「そのことを面と向かって言ってきたのは貴方が初めてだ」
テオは、顔を上げてベルの目をまっすぐ見た。
「様々な事情があったとは言え、私がリリスを裏切ったのは事実だ」
言い訳も、逃げも隠れもしない。
「リリスのことは今でも探している」
(……今、なんと言った?)
ベルの笑顔が固まった。
王太子が、まだリリスを探している?
この男は、もう彼女に無関心なのではなかったのか?
固まったベルを見てテオは何か誤解したのか、慌てたように言った。
「もちろん、今、愛しているのはアナスタシアだけだ。リリスを見つけ出したら、私は非礼を詫び、彼女の名誉を回復したいと思っている」
「……殿下が捨てたせいで野垂れ死にしたかもしれないのに、今さら何をおっしゃいます」
にこやかな唇から漏れた言葉が、自分でも思っていた以上に冷たくて、ベルはどきりとした。
「……返す言葉もない」
そのようにはっきりと物を申してきたのもあなただけだ、とテオは言った。
「だがきっとリリスは生きている」
「何故です」
「辺境の村で彼女を見たという目撃証言があった」
――リリスの髪と目に魔法をかける前に、一時滞在していた修道院の連中か、とベルは気づいた。
「ご主人は顔が広いだろう。もしも、リリスを見かけたら教えてくれないか。銀色の髪に紫色の瞳は珍しいから、見たらすぐわかると思うんだ」
「……こんな小さな古書店の店主に期待してもしょうがないと思いますが……」
言いながら、ベルは、自分の心がひどく冷えていることを自覚せずにはいられなかった




