第19話 リリスの焦燥 ベルの平穏
リリスが聖女の座を追放されてから、時は巡り、もうすぐ一年が経とうとしていた。
今日の彼女は、噴水が見える広場であたたかいスープを屋台で買い、パンを食べている。
飲むと心までほどけるような温度に、リリスは、ほっと息をつく。
「……おいしい」
髪と瞳の色が他の人には鳶色に見えることに安心して、街を一人で散歩することがすっかり習慣になっていた。
ベルの家には窓が無く、日の光が入ってこない。だから、昼間にはこうして外に出る。
ベルに保護されてから一年。リリスの頬には血色が戻り、指のあかぎれも消えていた。
古書店の掃除と手伝いを終えれば、本を読んだり刺繍をしたり、散歩をしたりして暇を持て余している。
(私、このままでいいのでしょうか……)
ベルは魂を奪うつもりで、湖に飛び込んだ自分を拾ったはずだ。
彼は、願いを見つけたら、自分に言えといった。だが、一年経とうとしている今になっても、願いが見つけられずにいる。
ベルと暮らしてから初めて、綿のように柔らかいパンがあることを知った。
ヴェラに、自分を飾るときめきを教えられた。
普通なら、一度手に入れたら、もっともっとと欲が湧く。
けれど、リリスは今の生活にすっかり満ち足りてしまって、それ以上を望まない。
死後、天国に行くことが唯一の望みだと思っていたのに。今となってはそれすら確かだと言い切れない。
それよりも、今リリスの胸を占めているのは――この生活が、消えてしまうことへの恐怖。
(ベルさん――)
もし、自分の望みを口にしてしまえば、きっと彼はいなくなる。
差し出される手も。
やわらかな微笑も。
時折向けられる、あの静かなまなざしも。
すべて――魔法のように消えてしまうという確信だけがあった。
たとえそれらが、魂を手に入れるための仮初めの優しさだったとしても。
失うことのほうが、ずっと怖い。
(……いけない)
こんなふうに、悪魔との生活に溺れてしまうなんて、きっと、間違っている。
わかっているのに、それでも。
(ベルさんが、いなくなったら……)
その先を、うまく想像することができなかった。
「……私、このままでいいのでしょうか」
おだやかな街の様子とは対照的に、胸の奥に微かな焦燥があった。
一方その頃、ベルは古書店の奥でひとり本を読んでいた。
(彼女と出会って、一年になりますか……)
悪魔にとっては一年など瞬きする間にすぎるものだ。
だからリリスの魂を狩れていないことを焦ってはいなかった。
リリスはまだ、自分の魂を差し出すに値する願いを見つけられないらしい。彼女の魂にふさわしい望みを叶えねばならないが。
(……このままでも、良いのではないでしょうか)
ふとしたときに、そんなことを考えるようになっていた。
ベルがこれまでに出会った人間たちは、己の欲を満たそうとする者ばかりだった。
金持ちになりたい。
恋敵を消したい。
復讐したい。
……自分は悪魔なのだから、出会う人間達がそんな者ばかりなのは当たり前だ。
リリスも、禁欲的な生活から解放して、ちょっと豊かな暮らしを与えてやれば、すぐにそうなると思い込んでいた。
なのに読みが外れた。しかし、読みが外れて良かったと思っている自分がいる。
魂の綺麗な人間が自分のそばにいることは、思いのほか心地が良い。
紅茶を飲んで、ほう、と安堵したように息をつく顔。
ボトルシップを見て「すごいですね」と丸くした大きな目。
自分の蔵書を読んで「おもしろかったです!」と頬を紅潮させながら感想を語る興奮した声色。
店先で見つけた、つやつやと光るさくらんぼのパイに目を輝かせる姿。
どれも、ベルがこれまで見たことのないものだった。
人間の欲望は、もっと醜く、激しく、貪欲なものだと思っていた。
なのにリリスは、ささやかな幸せを見つけるたび、まるで世界そのものを祝福するように笑う。他でもない、世界に見捨てられた彼女が。
それを眺めている時間が、ベルは嫌いではなかった。
このまま、魂を食べずに彼女の寿命が尽きるまでそばにおくのも良い、と思い始めていた。
人間の寿命など、悪魔にとってはほんのひとときなのだから。
からん、と扉の鈴が音を立てた。
「こんにちは。入っても良いか?」
店の入り口の方から若い男の声がした。この店には似つかわしくないほど、律儀でハキハキとした声だった。
「いらっしゃいませ……」
ベルは顔を上げて客の顔を見て……固まった。
王太子テオドロスが、供も連れずに一人で立っていたのだ。
(……何故)
(何故こんなところに)
ベルの胸中など知らないテオは、興味深そうに小さな店内を見回している。
「何かお探しですか?」
ベルは素知らぬ顔で微笑んだ。
何も知らないテオは、照れくさそうに言う。
「ご主人、このとおり武芸一辺倒の身だが、何か良い本を見繕ってくれないだろうか」
そう言うテオの表情は、以前に比べてかなり柔らかくなっていた。
アナスタシアとの結婚式では氷の彫刻のような顔をしていたというのに。
「……王太子殿下が何故このような所に?」
そう尋ねると、テオは少し驚いた顔をした。
「変装のために、宮廷魔術師に頼んで髪の色を変えたつもりだったのだが、よくわかったな」
(しまった……)
不覚であった。自分もリリスに同じ魔法をかけているというのに。
「それは……」
「ご主人は目が良いんだな」
テオは勝手に納得したようだ。
(何故ここで問い詰めないのですか、この方……)
ベルは、空気を変えるようにひとつ咳払いをした。
「王宮には広大な図書室がおありでしょう。必要な本はそこで容易に手に入るのではありませんか?」
(だから早く帰ってくれ)と、ベルは念じる。
テオは、少し照れたように頬をかいた。
「実は」
口元が微かに笑んでいる。
「妻に、仕事以外の本も読むように薦められてしまって」
ベルの観察するような視線にも気づかず、そう言ってテオは照れ隠しのように頬をかく。
「確かに王宮の書庫には数えきれない本があるが、街の本屋を知ることも良いのでは、と勧められた」
「……そうですか」
惚気話を、聞かされている。心底どうでもいいが。
ベルは、テオを店から追い出すのは諦めて、さっさと本を選んでやることにした。これ以上長居されたくない。
「普段はどのような本をお読みでしょうか?」
「本といえば聖書と英雄譚ばかりだったな」
古書店の主人の顔を保つベルに、テオは素直に答える。
「でしたら、こちらはいかがでしょう」
ベルは本をたぐり寄せると、すっと差し出した。
「各地の伝承をまとめたものです。意味や教訓などはほとんどありませんが――」
流れるような説明に、テオは熱心に耳を傾けている。
「――だからこそ、民草の心が見えましょう」
可も無く不可も無く、無難な選書だった。しかしテオは満足したように本を手にとった。
「貸し出しでもご購入でもどちらでも構いませんが」
いつもの癖で言ってしまってから、しまった、と思った。貸し出しにしたら返却しにきてしまうではないか。
そんなベルの後悔など知らずに、テオは少し笑んで言った。
「今回は借りておこう。ありがとう。また来る」
「……」
(――二度と来るな)
出て行くテオの背に向けて、ベルは心の中で念じた。
からんからん、と鳴った店の呼び鈴の音が、今日はやけにはっきりと耳に残った。




