第14話 黒いドレスの美女
春が過ぎて、緑が鮮やかな夏になった。
古書店の仕事は、相変わらずのんびりとしているのだが。
「ベルさん、こんにちは~♪」
軽やかな声とともに、甘い香水の匂いがふわりと古書店の中に広がった。
顔を上げたリリスの視界に入ったのは、ひときわ華やかな女性だった。
つややかな髪に、丁寧に整えられた化粧。軽やかな青いドレスに、花で飾った上品な帽子。
(綺麗な方……)
リリスは、自分でも無意識のうちに、来訪した女性客をじっと観察していた。
女性はリリスの存在が空気であるかのように隣を通り抜け、迷いなくカウンターのベルのもとに歩み寄り、微笑みかけた。
「ねえ、ベルさん。今度一緒にお食事でもいかが?」
声まで、鈴を転がすようにかわいらしい。
「申し訳ございませんが、立て込んでおりますので……」
ベルはいつも通り穏やかに微笑む。
相手に不快感を抱かせない、しかしそれでいて決して踏み込ませない温度。
「つれないわねえ」
「……」
「ねえ、一回だけでもいいから」
「……ここは古書店ですので、私より本をご覧になっては?」
ベルは微笑を崩さない。こんな皮肉めいたやりとりでさえ、女性は楽しそうに笑っている。
そのやりとりを見ているうちに、リリスの胸の奥が、わずかにざわめいた。
(……どうして)
理由は、わからない。
ただ、ベルが断っていることに、ほっとしている自分がいた。
――どうして、こんなことで心が揺れるんだろう。
ふと自分の手に視線を落とす。
あかぎれは治ってきたが、滑らかとは言い難い自分の手。後ろで結わえただけの銀の髪。
目の前の華やかな女性と、あまりにも違う。
……ベルの隣に立つのは、あの人のほうが似合う。
そう思った瞬間。
胸の奥が、ずきん、と小さく痛んだ。
だが、なぜ胸が痛むのか、リリスはわからなくて困惑する。
「……少し外の空気を吸ってきます」
誰に言うでもなく呟き、ベルと女性にくるりと背を向けて、裏口から外に出た。
「リリスさん――」
ベルが自分を呼び止めようとする声を、リリスはパタンと扉を閉じて塞いでしまった。
今日は太陽が雲に隠れている。
まるでリリスの胸中を表したような、すっきりしない空模様だった。
曇り空の下でも、広場の噴水の音はやわらかく響き、行き交うひとびとも思い思いにのんびりと過ごしている。
くよくよ悩んでいるのは、この世でただ自分一人のように錯覚してしまう。
(私は、何をやっているんでしょう……)
噴水の水面に映る、自分の顔を見つめる。
うつむいて座っていると、すっとリリスの上に影が差した。
「ねえ、お嬢さん?」
突然、頭上から声をかけられた。
振りかえると、いつのまにかリリスの隣に一人の女性が腰掛けていた。
つばの大きな帽子をかぶり、黒く艶やかなドレスに身を包んだ美女だった。
この辺りでは見ない顔だ。年齢は判別しづらい。若々しくも見えるが、落ち着いても見える。
「ちょっと、人を探しているのだけど」
美女は柔和で艶やかな笑みを浮かべたまま、リリスに尋ねる。
「ベルっていう男の人、知ってる?」
彼の名前が出た瞬間。心臓が大きく跳ねた。
一瞬、時が止まったような気がした。
「……知っていますけど」
リリスは警戒心を隠さずに応えたが、美女はまるで気にした様子もなく、微笑んだ。
「ああ、良かった。やっぱりこの辺りにいるのね」
美女は頬に手を添えて微かにため息をついた。黒いレースの手袋でうっすらと見える爪の先まで美しく洗練されている。
けだるげな吐息にさえ、甘美な匂いがただよっているような気がした。
「最近、全然顔を見せないのよ。まったく困ったものね……」
美女はくすりと笑う。その一言だけで――
(……この人、ベルさんと距離が近い)
と、感じてしまう。
どこまで親しいのかはわからない。
けれど、まるでリリスが知らないベルのこともすべて知っているような雰囲気がある。
美女の、愉快そうに細められた瞳が、胸の奥を、静かにざわつかせる。
(……どういう人? ベルさんとどんな関係?)
問いが浮かぶが、答えは、まだない。
それなのに、気づけば言葉が飛び出していた。
「わ、私は!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
「ベルさんと一緒に暮らしている女です! 彼に何かご用でしょうか!」
……言ってしまった。
嘘ではない。嘘ではないけれど――どうして、こんな言い方をしてしまったのか。
自分でも、うまく説明がつかない。
リリスの言葉を聞いた美女は……唖然とした表情になった。
「……いっしょに?」
大きな金色の瞳がこぼれそうなほど、目を見開いている。
「ベルが、あなたと……?」
美女がはっきりと動揺していて、リリスは内心ドキドキしていた。戸惑うような、くすぐったいような――けれど確かに、あたたかい感覚。
同時に、少しだけ怖くなる。
(……どうして、私、こんな)
こんな気持ちは知らない。
ただ彼に保護されているだけで、何も男女の関係などない。それを、何故かこの美女には誤解したままでいてほしいと思っている。
「あの、失礼だけど」
美女は姿勢を正して改めて尋ねる。
「あなた、ベルのことはどの程度ご存じなの?」
「え、えーと……」
視線が泳ぐ。けれど、口は勝手に動いていた。
「ものを集めたり、本を読んだり、ボトルシップを作るのが好きで、お掃除は少し苦手で……」
そこまで言って、なぜか、胸の奥が熱くなる。
私のほうが、今のベルさんをよく知っているんです、と叫びたい気持ちだった。
「それから――」
ほんの一瞬、迷う。
けれど……そのまま言葉にしていた。
「眠るとき、いつもずっと見ててくれます!」
「……眠る時にいつもずっと見てるの!?」
美女は明らかに動揺している。
その反応に、また胸の奥が小さく揺れる。
嬉しい、とは少し違う。誇らしい、とも違う。
ただ。
――奪われたくない、と思う。
理由は、やはりわからないまま。
リリスは、無意識に自分の拳を強く握りしめていた。
「……何をなさっているのですか」
聞き慣れた声がした。
その一言だけで、リリスはハッと我に返る。
リリスは顔を上げ、声の方を向いた。
古書店からやってきたらしいベルが、リリスと美女とを交互に見比べている。
「ベルさん」
そこに立っているベルの姿を見た瞬間、息が少し楽になる。
どうしてなのかはわからない。けれど、確かに安心していた。
「ちょっと、ベル!」
美女が勢いよく立ち上がってベルのほうへ歩み寄る。
隣に立つと美女の方がベルよりも背が高いことがわかって、リリスは驚いてしまった。
「こんなに小さな人間の女の子と同棲だなんて、何を考えているのよ!」
問い詰める美女に、ベルはため息をついた。
「同棲ではありません、保護です。それに彼女は十八歳のれっきとした成人です」
淡々と答えて、ベルは近しい者にだけ見せるような、鬱陶しそうな顔をして――。
「何をしにいらしたんですか、母上」
その一言で、空気がピタッと止まった。
「え……は、母上……っ?」
思わず声が裏返る。
改めて見ると、美女の顔立ちは、確かにベルによく似ていた。なぜ気づかなかったのかと、先ほどの自分の言葉や態度を後悔するくらいには。
「ベル、しばらく会わないうちに、まさか人間の女の子を囲って同棲していたとはね……あと、眠るときにずっと見てるって何?」
「誤解です。彼女は魂をいただくために一時的に保護しているだけです」
淡々としたベルに、ヴェラはおもしろそうに目を細めた。
「へえ、そう?」
まったく信じていない様子だ。
それから改めてリリスに振り替えると、ベルそっくりの微笑を浮かべた。
「初めまして。ベルの母、ヴェラです」
リリスの思考が完全に停止した。
顔がみるみる赤くなる。
「り、リリスと申します……」
ゆでダコのように真っ赤になって深深とお辞儀をした。
「ふふ、とてもかわいらしい銀の髪のお嬢さんねえ、ベル」
リリスの本来の姿がとっくにバレている。
「この子、『私はベルさんと一緒に暮らしている女です』って言っていたわよ」
「間違っては居ませんが……何故そんな誤解を与えるような言い方を?」
咎めるというより、不思議そうな声音。
「す、すみません……」
小さくなるリリスを見て、ヴェラはにまにまと笑っていたが、不意に、思い出したように言った。
「ところで」
まるでお天気の話でもするかのように。
「あなたって、確かセントティアラ王国の聖女じゃなかったかしら?」
ヴェラがそう尋ねてきて、リリスは背筋がひやりとした。
何も言えないリリスに代わってベルが答える。
「聖女は先日、代替わりをしたのですよ」
「あらそうなの。人間の聖女や王族ってすぐにころころ変わるからついていけないのよね」
ヴェラは長命者らしく言って、肩をすくめた。
だが、不意に思い出したように呟いた。
「……あ、でも聞いたことがあるかも」
何気なく、しかし思い出すように。
「新しい聖女は、命の選別をしているとか何とか」
「えっ……」
理解が追いつかなくて、リリスは固まった。
「それは、どういう……」
「さあ、詳しいことは知らないけれど」
これ以上興味は無いようで、あっさりと流されてしまった。
「私はもう少し観光してから帰るわね」
ひらひらと優雅に手を振る。
「リリスちゃん、また今度」
それだけ言うと、陽炎のように消えてしまった。




