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第13話 湖のほとり

 アナスタシアは弾かれたように部屋から飛び出して、テオを探した。




 執務室――いない。


 中庭――いない。


 修練場――いない。


 食堂――いない。


 


 どこにも、いない。




 嫌な予感が一気に駆け巡り、背筋が寒くなる。




 アナスタシアは廊下を転がるように走った。通りすがりの従僕が驚いて声をかけるが耳に入らない。


 馬舎へ駆けながら、家臣たちに命令を下した。


「みんな、急いで殿下を探しなさい! ただし大騒ぎしてはだめ。帰ってきたら、お散歩からお戻りになったように迎えるのよ!」


 アナスタシアはナイトドレスのまま、外套だけ羽織ると馬に飛び乗った。軍閥の娘ゆえ、乗馬には慣れっこだ。


「妃殿下、どちらへ?」


「――湖へ!」


 アナスタシアは馬の腹を蹴って、駆けだした。蹴る。馬が地を蹴って駆け出す。


(お願い、間に合って――!)


 馬上の風が頬を打つ。


 流れる視界のなかで目を凝らす。


(どうして油断したの私……! もっと早く起きれば良かった!)


 後悔で頭の中がぐるぐるする。


 心臓がうるさい。息が浅い。


 やがて湖が見えたその瞬間、アナスタシアの息が止まった。


 水面に立つ影。


 淡い光の中で、そこだけが切り取られたように静かだった。


 ――テオが腰まで水に浸かり、どこか遠くを見るように佇んでいる。


 あまりにも現実離れしたその姿に、一瞬、足がすくむ。


 まるで――この世のものではないみたいに。


 (――いいえ、違う!)


 首を振って一瞬浮かんだ考えを振り払う。


 彼はまだ生きている。まだ間に合う。


 怯んではいけないと、思い切り夫の名を呼んだ。


「テオ様……!」


 アナスタシアは馬を飛び降り、外套を投げ捨てて、湖に自ら足を踏み入れて、テオに手を伸ばした。


 春めいてきたとはいえまだ水は冷たい。刺すような冷たさに足の感覚が奪われていく。


 それでも構わなかった。必死に湖に分け入り、もう少しでテオに手が届きそうというところになって。


 テオが振り返った。アナスタシアを見て、驚いたように目を見張る。


 それを見てほっとしたのもつかの間。


 テオの身体から急に力が抜けた。


 ゆっくりと倒れて、音もなく水の中に沈んでいく。


「テオ様!」


 アナスタシアは、息を吸って、躊躇なく湖の中に潜った。


 水の中は静かすぎた。


 揺れる衣服。漂う髪。沈んでいく身体。


 驚くほど白い彼の腕を掴む。引き寄せる。


(重い――)


 肺が痛い。息がもたない。


 それでも、水を蹴って、必死に太陽の光が揺らめく水面を目指す。


 ――顔を出すと、空気と、周囲の音が一気に戻ってきた。


「はあっ……、はあ、テオ様! しっかりなさって!」


 咳き込みながら、水辺までテオを引き上げる。


 テオは水を吐き出し、激しく咳き込んだ。


 ――生きている。


 アナスタシアは一気に力が抜けて、地に膝と手をついた。


「テオ様、どうして……」 


 アナスタシアの絞り出すような短い問いに、テオは荒い息の合間に、小さな声で答える。


「――リリスが」


 その名前に、一瞬、アナスタシアの胸が締め付けられる。


 けれど、目を逸らさなかった。


「……リリス様が、どうかなさいましたか」


「こちらに来い、と呼んでいるような気がして」


 二人の間に静寂が訪れた。ちちち、と鳥の鳴き声がやけに大きく聞こえる。


 アナスタシアの身体が震えているのは、寒さのせいか、それとも――。


 しかし、アナスタシアは声を穏やかに整えた。


「……リリス様はそんなお方ではないでしょう」


 息を落ち着けてから、アナスタシアは言った。


「あのときお会いしただけでもわかります。あの方は、周りを恨まず、ひとりで抱え込んでしまうお方。あなたを死の淵に誘うなど、するはずがありません」


 それから、わずかに微笑む。


「きっと悪魔のいたずらです。殿下の魂は、狙われやすいのですから」


「そうなのか……なら、気をつけねばならないな」


 悪魔ときいたテオは、納得したように、頷いた。


 だから、アナスタシアは続けた。


「リリス様は、生きておられます」


 その言葉に、テオは力なく首を横に振る。


「慰めはよしてくれ。リリスは、俺のせいで……」


「リリス様を辺境の修道院で見た、という目撃証言がありました」


 テオの瞳に、光が戻る。


 消えかけていた灯火が、再び息を吹き返すように。


「本当か」


「はい」


 アナスタシアは頷く。


「子どもを亡くしたお母さんが、銀の髪の修道女に、弔いをしてもらったと言うのです。その修道女は優しい紫色の瞳をしていた、と」


 テオの目が変わったのを見て、アナスタシアはたたみかけた。


「ですから、探しましょう。大聖務官や大臣たちの手前、表だった捜索はできませんが」


 アナスタシアは、そっと手を差し出す。


 テオはその手を見て、尋ねた。


「……貴女は、それでいいのか」


「はい」


 即答だった。


「リリス様が戻られた時のことも、考えております」


「アナスタシア、君は――」


「私は」


 アナスタシアは、静かに、はっきりと言った。


「リリス様が聖女として私より劣っていたとは思えないのです」


 春の朝の湖畔は、何事もなかったかのように穏やかだった。


 朝日を受けてきらめく水面。風に揺れる葉音と、鳥の声だけが、静かに世界を満たしていた。

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