第12話 テオとアナスタシアの夜
テオとアナスタシアが結婚式を終えた、その日の夜。
「殿下、こんな日にまでお仕事を?」
アナスタシアは、ベッドの脇の文机で書類を睨んでいるテオに声をかけた。
一枚や二枚では無い。書類は束となり、山のように積まれていた。
「私は、休んでいい人間ではないから」
テオはそう言って微笑んだ。その笑みがかえって痛々しい。
「今日は疲れただろう。貴女は、どうぞおやすみなさい」
テオの言葉は優しかった。
アナスタシアは思う。
この人は、真面目すぎる。
しかしこんな夜にまで仕事に没頭しようとするのは、ただ真面目なだけではない。
リリスとの婚約破棄を宣言したあの日。涙をこらえきれずに走り去るリリスの背中を見るテオの眼が一瞬揺れていたのを、アナスタシアははっきりと見た。
自分の利権のことしか考えていない大臣や教会の聖務官たちと違って、テオはリリスを傷つけたことを悔いている。
その罪悪感から逃げるために、酒や女に溺れることができず、仕事に逃げているこの人は……ひどく真面目で、善人なのだと、アナスタシアは理解した。……むしろ、リリスのことなど存在しなかったように素知らぬ顔で自分を抱く人でなくてよかった、と思う。
「――殿下。お願いがあります」
テオの動きが一瞬止まる。指先が、すこし震えていた。
「そのペンをおいてください。それから剣もお触れにならないで」
言われるまま、テオはすべてを手放した。
覚悟を決めてアナスタシアの肩に手を添えようとしたが、彼女の口から出たのは、意外な言葉だった。
「今から、五分間だけ、わたしとお茶を飲んでいただけませんか」
あまりにも控えめな「お願い」に、テオはむしろ困惑した。
「……それが、貴女の願いなのか?」
「はい」
「では、報告書を読みながら……」
「いけません」
アナスタシアは、少し強く制した。
「その報告書は明日読めば十分間に合います」
「では、茶を飲みながら何をすればいい」
テオは本当に困ったように言った。
「なんの話をすればいい? 世継ぎの話か?」
「何もお話にならなくていいのです」
アナスタシアは微笑んで言った。テオは思わず眼を見張る。
「どうかこの五分だけは、何者でもないテオドロス様として、お茶をお召し上がりください」
侍女の持ってきたティーセットに、アナスタシア自ら茶を注いだ。
「君が自らやるのか?」
「自分で淹れるお茶もいいものですわ。あまり上手くないかもしれませんが」
テオは、アナスタシアの淹れた茶をじっと見つめた。
茶は、こんなに温かかっただろうか。
書類を見ながら片手間に飲んでいた時には気がつかなかった。指の先まで、じんわりと熱が通ってほどけていくようだ。テオは、自分の身体がこんなに固く冷えていたのかと驚いた。
「……おいしい」
「よかったです」
アナスタシアは、本当にテオに何も話さなかった。ただ、隣に座って黙っていただけだった。その沈黙が不思議と苦にならなかった。
――翌日。
テオドロスは任務の合間に、アナスタシアに連れられて、城の中庭を散歩していた。
昼食を片手に書類を見ようとするテオを、アナスタシアが少しだけ強引に誘った、五分間の散歩である。
「殿下、庭の一角をわけていただきました。ここに何か植えてもよろしいでしょうか?」
アナスタシアの提案に、テオは少し戸惑った。
「植物は、鑑賞するものではないのか? 植物を育てるのは庭師の仕事で、王族の仕事ではないのでは……」
「自分で育てる方がおもしろいですわよ」
アナスタシアはにっこりと微笑んだ。結婚式で見せた完璧な笑顔よりも、素朴で明るい。
「さて、何を植えましょうか……殿下、お好みの花などございますか?」
アナスタシアがその場にかがんで、土を触り始めたので、テオドロスは驚いた。王太子妃が、自らの爪に土が入り込むのを厭わない。
「手が汚れてしまうぞ。聖女の穢れなき手が」
アナスタシアは、一瞬何を言われたのかわからなかった様子で、少しだけきょとんとしたあと、ふっと吹き出した。
「母なる大地を厭う聖女なんて、滑稽ですこと」
再び、土の様子を確かめるように、土を手にとる。
「殿下。お花の好みが特に無ければ、果物は何がお好きですか」
「好きなもの……」
テオは少し困ってしまった。十三歳のときに立太子されてから、自分の好きなものを考えることなどなかった。ただ自分の役割をまっとうして、人々をがっかりさせないことだけを考えて。
それでも、遙かな記憶をたぐり寄せて、思い出したように呟いた。
「……姫リンゴのパイは、子供の時は好きだったが」
「ではそれに致しましょう」
アナスタシアはあっさりと言った。
「実がなるころ、お父様が戦地からお帰りになられていたら、パイにして頂きましょう」
「……お父様とは、王国軍元帥殿か?」
アナスタシアは笑顔で頷く。
「はい。お父様はお菓子作りがお好きなのです」
テオは、数回だけ見たことがある、元帥の顔を思い返す。
顔に大きな火傷と傷がある壮年の男で、笑顔など見たことがない。
現在は異教徒との戦地で指揮を執っており、結婚式の日は、式にだけ参列してすぐに戦線へ引き返していった。
「意外な趣味だな……」
「ふふ、そうでしょう。顔はあんなに怖いですけれど、本当は争いが嫌いで、繊細なのですよ」
アナスタシアはおかしそうに笑った。
それから、少しずつテオの生活に余白が生まれ始めた。
仕事の合間にアナスタシアとともに茶を飲む。他愛のない話をしながら、散歩をする。
アナスタシアは、テオに世継ぎをせかさなかった。口にしないだけで、気になっていないはずが無いのに。
ある夜、テオは、寝室でアナスタシアと茶をともにしながらぽつりと言った。
「あなたは……優しい人だな」
朝日の象徴のような美青年のテオは、月明かりの下で不思議な輝きを放っている。
「俺にはもったいないくらいだ」
飾り気がない言葉と、初めて見た柔らかい微笑に、アナスタシアはしばし返事を忘れた。
「……まあ、何をおっしゃいますやら」
照れをごまかすように眼を伏せて笑う。
「殿下、明日の公務後に、よろしければ馬の遠乗りに参りませんか」
「……ああ、わかった」
微笑して素直に頷くテオの瞳に、どこか陰が射していることにアナスタシアは気がつかなかった。彼の笑顔に安堵していたのだ。
それから数時間後。
テオは、寝息を立てるアナスタシアの顔をじっと見下ろすと、そのまま一人立ち上がった。
「……すまない。俺には、君の隣に立つ資格はないんだ」
そう言ってアナスタシアの身体にそっと布団をかけ直してやってから、窓を見つめる。
「……ああ、わかった。今、行く」
誰もいない虚空に向かってそう言うと、ふらふらと窓から外へ、一人で抜け出してしまった。
翌朝、アナスタシアは眼をこすりながら眼を覚ました。
「おはようございます、殿下。よくお休みになられましたか……」
言いながら寝床を見ると、隣に居たはずのテオがいない。
「殿下……?」
寝床を触ってみると、温もりがない。まるで何時間も前にいなくなったように冷え切っている。
「――え?」




