003 少年の保護者
看護師に案内されて病室へ向かう。扉の前に立つと数度深呼吸をして、それからコンコンと病室をノックする。すると中で誰かパタパタとが動く気配がした。フェアはそっとドアノブを握ったその時、独りでにノブが回った。いや、内側から開かれたのだ。
「だあれ?」
変声期前の少年特有の高い声と舌っ足らずな口調と共に出迎えてくれたのはあの少年だった。彼はフェアを見上げると丸い目を細め、「あ、きのうのおにいちゃん!」と喜んだ。
「こんにちは」
「こんにちわ!」
そんなやり取りをしていると不思議と心が和んだ。
(私にもこんな時期があったのだろうか)
「あそびにきてくれたの?」
「ええ。それと、お土産にクッキーを持ってきましたよ」
そう言って紙袋を掲げると少年は目を輝かせた。
「おお! クッキー!」
(クッキーはわかるのか)
フェアは不思議に思ったが、自分の経歴に関わる記憶だけが抜け落ちてしまったのだろうと納得した。それでも不思議は残るが。
「クッキーちょうだい!」
両手を広げてぴょんぴょんと跳ねていると、「お昼ご飯食べたばかりでしょう?」と看護師に窘められる。
「えー!」
「おやつの時間まで我慢してね?」
「ぶー!」
ぷっくりと頬を膨らませるあどけない仕草にフェアと看護師はくすりと笑った。
「それじゃ、私はお仕事に戻らせてもらいますね」
「はい。どうもありがとうございました」
そうして2人きりになると、フェアはどうしたものかと倦ねたが、少年がジッと紙袋を見ているのに気付くと、とりあえず差し出した。
「ありがとー!」
まるで宝物のように紙袋を掲げるとトコトコとベッドへ向かい、よじ登る。それからフェアの方を見て「おにいちゃんも!」と彼を呼びつけた。
「ふふ。今行きますよ」
招きに応じるとベッド脇のスツールに腰掛ける。
「気分はどうです?」
ガサゴソと袋を探っていた少年は不思議そうに首を傾げる。
「ん? げんきだよ」
見ての通りだった。子供の回復力は侮れないものだ。
「ねえねえ。クッキーたべていい?」
クッキーを見せつけながら問うてくる。
「さっきお昼ご飯を食べたばかりだとお姉さんも言っていたでしょう」
「ぶー!」
またあの剥れ顔をされるとフェアは小さく笑った。その仕草をされては断るに忍びなく、「じゃあ1枚だけですよ」と許可を出した。
「ありがとう! じゃあはい!」
少年は手に持っていたそれを手渡してくる。
「私にくれるんですか?」
「うん! いっしょにたべよ?」
「……ふふ。そうですね。それじゃ――」
「いただきます!」
シンプルなクッキーは小麦とバターの温かい風味に砂糖の甘さがほどよく、いくらでも食べてしまえそうに思えた。それは食べ盛りの少年は一入で、もっと食べたいと視線で訴えてくる。
「今食べてしまうとおやつの時間に食べる分がなくなってしまいますよ?」
「あ……うう……」
口惜しげに唸った末、少年は潔く袋の口を丸めて閉じた。そして食べたい欲求から目を背けるために枕の陰に袋を隠してしまう。
利口だと思う一方、クッキーの存在を忘れて潰してしまわないかフェアは心配した。その一方、少年は窓から裏庭を眺めていた。
「おそといきたい!」
そう言われてもと戸惑うが、彼がそう申し立てているということは外出を禁止されているのだろう。そう察しながらも問い掛けてみる。
「お姉さんたちはダメだと行っていませんでしたか?」
「いってた」
「ではいけませんね」
「そんな~」
いかにも残念そうに項垂れる少年にフェアは「中で遊びましょう」と提案する。
「絵本か何かがあると良いのですが……」
言いながらテーブルの上に本があるのに気付く。手のひらサイズの本で、板紙の表紙には『白い猫のカティア』と命題されており、その下には著者であるマトー・グルトン氏の著者名と、カティアと思しき猫の姿が描かれていた。
この本にはしおりが挟んであって、あの看護師が少年に読み聞かせていたのだろうと察しが付いた。
「では本を読んで上げましょう」
「さっきのつづき?」
「ええ、多分」
フェアは微笑むとしおりの挟まったページを開き、活字を読み上げていく。
「カティアは今日もエレーナおばさんのお家の屋根からヒゲを風に靡かせながら人々を見下ろしていました。
右へ左へ。まるでアリの行列のように人々は歩いて行きます。その中で1人、ぽつりと佇んでいる女の子がいました。長い髪を2本に結い上げた可愛らしい女の子です。
ですが女の子はその可愛らしい顔を歪めていました。
カティアは不思議に思ってその子の様子を見守ってみることにしました。
女の子はキョロキョロと辺りを見回すと今度はどこかへ走って行きます。カティアは持ち前の身軽さで追いかけます。
そうして曲がり角のパン屋さんの辺りまでやって来ると女の子は疲れて走るのを辞めてしまいました。はあはあと息をしながら、またキョロキョロとします。そしてカティアと目が合いました。
『猫ちゃん猫ちゃん。わたしのパティを知らない?』
カティアはもちろん知りません。
ですがカティアには特別な力がありました。カティアは左目が青色で右目が黄色なのだ。そしてその黄色の瞳には特別な力が宿っています。
それは人の心を読み取る力でした。
カティアはその力を使って女の子の心を読みます。そしてパティというのはゴールデンレトリバーの子犬のことでした――」
そこまで読み上げるとチラリと少年の様子を窺った。
少年は膝小僧に手を突き、前屈みになって傾聴している。キラキラとした瞳からはこの物語を楽しんでいるのが在り在りと伝わってくる。
(よかった)
母親と記憶を失った少年だが、何かを楽しむ心までは失っていないようだ。この心があれば、これからの長い人生を生き、そしてその中にある幸せを摘み取っていけるだろう。
フェアが安堵し、頬を綻ばせたその時、廊下の向こうから男性たちの会話する声がくぐもって響いてくる。反射的に振り返るとまさにその時、ドアが開かれた。
そしてその向こうから白髪頭の背の低い医者が白衣を揺らしながら入ってくる。その中でフェアに気付くと柔和に笑んで片手を上げた。
「やあ。遊んでくれていたのですね」
「はい。読み聞かせを少々――」
「おにいちゃんはやく!」
少年に続きを促されて本に視線を戻そうとしたその時、「ちょっと良いですか?」と医者が言う。フェアと少年は不思議に思って振り返ると、医者の隣に別の男性が現れた。
年の頃は60歳前後と言ったくらいで、黒い短髪には白髪が交じっていた。顔は年相応に威厳ある顔立ちだったが、表情は穏やかで人当たりの良いものだった。
医者は彼を手のひらで示すと紹介する。
「こちらは丘上で孤児院――ああいや、『バロムおじさんのお家』を営んでいるバロム・ヘルツィヒカイトさんです」
「ああどうも」
自然とフェアが立ち上がるとバロムは彼の背後の少年を一瞥してから口を開く。
「初めまして。君があの少年を助けてくれたんだってね」
『あの少年を』助けた。そして『母親を』助けられなかった。
フェアの頭は無意識のうちにそう考えてしまい、喉まで出かかった返事が泥のように滞る。
しかしバロムは彼の胸中を含めて全てを知っていた。だから共感を示す。
「私は君のように直接的にではないが、身寄りのない子供たちを助けることを務めとしている。だけど、それはあくまで手の届く範囲内だけだ。その外には苦しんでいる子供たちがたくさんいる。君と同じさ」
「……はい。お心遣い、痛み入ります」
「月並みなことしか言えないで悪いね。でも、それが私の心だ」
バロムはそう言い切ると視線を少年へと移し、膝を折って目線を合わせる。
「こんにちは」
そう言って微笑みかけると少年はにっこりと笑んで「こんにちわ!」と元気に挨拶を返す。 その無邪気な姿を愛おしそうに見つめるとバロムはフェアの時よりも優しく、温かい声で問い掛ける。
「お名前は?」
その言葉に少年はずきんと頭を痛めた。
「わかんない」
「お父さんとお母さんは?」
「いないよ?」
「お家はどこだい?」
「わかんない」
「そうかい」
するとバロムは少年の頭に手を置いて優しく撫でながら提案する。
「じゃあ私のお家に来ないかい?」
「おじちゃんのおうち?」
「そう。大きなお家でね、君のお友達になってくれる子がたくさんいるんだ」
『お友達』その一言に少年は目を輝かせ「いく!」と即答した。
「そうかい」
嬉しそうに頷くとバロムは立ち上がり、医者の方へ向き直る。
「それじゃ、この子はうちで預からせてもらいますよ」
「ええ。バロムさんが引き取ってくれるなら私も安心できます」
一連のやり取りを耳にし、フェアは自分がこの少年の行く末を案じる必要がないのだと、心が軽くなる思いだった。
しかし、それでいいのだろうかと思う。
自分にはなんの義務も責務もない。ただ、少年の大事な物を奪ってしまったのは自分だ。少年の保護者になってくれるというバロムが現れたからといって「よかったですね」と呑気に言って去ることは憚られる。人間として。
複雑な心情に苛まれるうち2人の会話は終わっていた。
「それじゃ、よろしくお願いします」
「はい。――それじゃ、行こうか」
そう言ってバロムが少年へ手を差し伸べる。少年はその手を取る。
「さ、お兄さんにご挨拶なさい」
「おにいちゃんはいっしょにいかないの?」
悲しそうな目でフェアへ振り返る。黒い瞳には陰りが見えた。
「私は……」
答え倦ねているとバロムが小さく笑み、「見学にくるかい?」と問うてくる。その言葉に邪念はなく、同じ少年を想うからこその親近感があった。
「……良いのですか?」
「ああ。お客さんが来ると子供たちが喜ぶからね」
「そうですか」
フェアは頬を綻ばせ、厚意を受け入れることにした。
「是非、お願いします」
「ああ。いらっしゃい」
笑みを交わすとフェアは短い声を上げて少年を見た。
「クッキー、忘れてますよ」
「あ!」
忘れ物に気付くと少年はバロムの手を離れ、ベッドへと向かい、クッキーの入った袋を大事そうに抱えてやって来る。
その元気いっぱいな姿に大人たちは穏やかな心持ちになるのだった。




