夢を捨てたバンドマン 第1話
その日、彼はギターケースを無造作に肩へ担ぎ、重い足取りで路地を歩いていた。
髪は少し伸び、前髪の奥に隠れた目はどこか虚だ。
名前は橘玲央。25歳。
かつてはライブハウスで少し名前の知られたバンドのギタリストだった。
──いや、“だった”という過去形の方が正確だ。
半年ほど前、バンドは活動を停止した。
理由は単純で、メンバーが一人、また一人と生活のために音楽から離れていったのだ。
最後まで残った玲央も、結局は働き始め、ギターを触れる時間さえなくなった。
バンド時代のファンはまだSNSに残っているが、誰も最近の彼を知らない。
更新されないアカウントは、まるで時間が止まったページのようだ。
「……こんなはずじゃなかったんだけどな」
誰に向けたでもない呟きが、冷たい空に消える。
玲央は街中で唯一自分を慰めてくれる“習慣”として、未練がましくギターを持ち歩く癖があった。
今日は雨。
それも、空全体が沈んでしまったような、深い灰色の雨だ。
傘は持っていない。
いらないと思っていた。どうせ濡れても誰にも会わないし、濡れたところで生活が変わるわけでもない。
しかしその日、玲央は“いつもの裏路地”で立ち止まることになる。
路地の奥に、ぼんやりとした光が見える。
こんなところに店なんてあっただろうか? 玲央は眉を寄せ、ギターケースを持ち直して近づく。
木製の古びた扉。
雨に濡れても消えない、温かなランプ。
扉の横には見慣れない看板。
──未来屋古書店。
「……古書店?」
いつもなら気を止めないが、今日は雨が強すぎて、屋根のある場所を探していた。
ちょうどいい軽い気持ちで戸を押すと、鈴が優しく鳴った。
店内は静かで、薄茶色の灯りに満たされていた。
壁一面に並んだ古書の匂いが心地いい。
雑音のない空間は、どこか現実の外側にあるような気さえする。
そして──
奥のカウンターから、白髪の老人が顔を上げた。
「ようこそ、未来屋古書店へ。……ずいぶんと疲れた音をしてますね」
「……音?」
思わず聞き返す。
老人の言葉は、彼の心の内側を直接指で触れられたような感触があった。
すると、棚の陰から三毛猫が姿を現す。
看板猫のワラだ。
ワラは、玲央の濡れた靴を一度クンクンと嗅ぎ、そしてギターケースの方へ歩いていく。
「おっと、触るなよ。壊れても責任は取れないだろ」
玲央が言うと、老人は優しく笑った。
「心配なさらずとも、ワラは音に敏感なだけですよ。“誰がどんな音を持ってきたのか”いつも真っ先に気づくのですよ」
「音……ねえ。今の俺は、もう鳴らないけど」
ぼそっとこぼした言葉に、老人が目を細める。
「鳴らない? ……それは、本当に“あなた自身”が決めたことですかな?」
その一言に、玲央の胸が妙にざわついた。
老人に誘われるまま、店の奥の椅子に腰を下ろした。
ワラは玲央の横にちょこんと座り、ギターケースをじっと見つめている。
「……正直、もう辞めたんだよ。音楽も、ギターも。生活するために働いているし、夢を追い続ける余裕なんてない」
玲央は乾いた笑いを浮かべた。
「バンドも解散した。メンバーもそれぞれ別の道に行った。俺だけ取り残されて……正直、才能なんてなかったんだと思う」
老人は黙って聞いていた。
否定も肯定もしない。
ただ、玲央の言葉が全部終わるまで待っている。
「……もうギターなんて、見るだけで苦しくなる。だからさ、ならないんだよ。俺の音は」
老人は静かに口を開いた。
「本当に“あなたの音”はならないのでしょうか?」
「……だから、そう言って……」
言いかけた瞬間、老人はギターケースへそっと視線を向けた。
「その傷は……本当に“終わった証”ですか?」
玲央は思わずギターケースを見下ろす。
そこには、バンド時代についた無数の傷が残っていた。
──ライブで暴れた跡。
──転んで守ろうとしてついたへこみ。
──練習スタジオの壁でつけた擦り傷。
どれもこれも、必死に夢を追った証だ。
「それはね、“終わりの傷”ではないのです」
老人の声は、驚くほど優しかった。
「“戦った証”ですよ」
その言葉は、玲央の胸を一瞬だけ震わせた。
だが同時に、苦い感情が湧き上がる。
「……そんな綺麗事で音楽ができるのなら、とっくにやってるよ。現実は……そんなに甘くないだろ」
老人は微笑んだまま、ゆっくりと立ち上がった。
「……では、現実ではない場所を一度だけお見せしましょう」
老人は棚から一冊の黒い古書を取り出した。
表紙には何も書かれていない。
しかし、ただの本ではないことが一目でわかった。
「これは“未来の記録”を映し出す本です。あなたが未来へ歩けば生まれるはずだった可能性と、あなたが歩まなかったばかりに失われた可能性が、並行しています」
「……そんなバカな」
玲央は笑い飛ばそうとした。
だが、老人の目は冗談を言っている目ではなかった。
ワラが“にゃあ”と鳴く。
まるで「見てみな」と言っているように。
老人が本を開くと、柔らかい光がふわりと広がり店内を包んだ。
「これは……」
玲央は思わず顔を覆う。
映し出された光景の中には、自分がいた。
そこに広がったのは、ライブハウスのステージだった。
汗の匂い、アンプの振動、観客のざわめき──
ステージ上には“未来の玲央”がいた。
髪をかき上げ、ギターを肩にかけている。
表情には迷いも焦りもなく、一本の線が通ったような強さが感じられる。
そして彼は、ギターを鳴らした。
その音は、心臓で殴られたように会場に響いた。
音が“生きている”。
魂を宿した音。
思いの全てを乗せた音。
観客が一斉に湧き上がる。
拍手に歓声。そして、称賛。
「玲央ー!」「最高だよ!」
ステージの光が揺れ、未来の玲央は笑っていた。
自分が忘れたはずの“音楽を愛していた頃の笑顔”で。
現在の玲央は、視界が揺れていた。
「……こんなの……俺じゃない」
「では、こちらはどう見えますかな?」
老人がページをめくる。
光景が切り替わった。
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