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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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8/49

過去を背負う元犯罪者 最終話

 地域センターの一室は、夕方になると少し冷える。 薄暗い蛍光灯がちらつき、外の車の音が遠くに聞こえる。

 男は、壁際に置かれた折りたたみの椅子を並べながら、静かに整えていた。

 今日は、若者向けの小さな集まりの日だった。

 相談というほど、大袈裟なものではない。ただ、話を聞く場。

 彼の役割は主役ではない。

 準備と片付け、必要なら話し相手になる。それだけだ。

 それでも、胸の奥が落ち着かない。

 

 ──逃げない。


 未来屋古書店で、確かにそう決めた。

 だが、いざ人前に立つと、過去は否応なく顔をだす。

 廊下の足音が近づく。そして扉の軋む音がした。

 扉が開き、若者たちが入ってくる。冷たい外気が一瞬にして流れ込んでくる。

 疲れた表情。警戒心。諦め。

 

 その中の一人に、男は目を留めた。

 俯きがちで、周囲を見ない。

 どこかで見たことのある姿。

 

 ──あの幻影の若者に、似ている。


 会が始まり、担当者が簡単な説明をする。

 男は、壁際で黙って聞いていた。

 

「今日は、ここに来てくれた理由を、無理のない範囲で話してくれれば」

 

 しばらく沈黙。

 重たい空気。

 その中で、先ほどの若者が、ポツリと口を開いた。

 

「……失敗しました」

 

 その一言に、男の胸が強く鳴った。

 

「仕事も、夢も……全部」

 

 若者は視線を上げない。


「もう、やり直せない気がして」

 

 部屋が静まり返る。

 男は、喉の奥が渇くのを感じた。

 今までなら、ここで視線を逸らしていた。だが。

 椅子を引く音が、小さく響いた。

 男の手は小刻みに震えていた。

 

「……俺も、失敗した」

 

 男の声だった。

 全員の視線が集まる。

 時計の秒針がやけに大きく聞こえる。

 

「取り返しのつかないことをした」

 

 若者が、ゆっくりと顔を上げる。

 

「許されないこともある」

 

 男は、深呼吸をした。

 

「それでも、生きている」

 

 言葉は、飾り気がなかった。

 説得でも、慰めでもない。


「生きている限り、選択は終わらない」

 

 若者の目が、わずかに揺れた。

 

「……怖く、ないのですか?」

 

 その問いに、男は正直に答えた。

 

「怖い」

 

 短く、はっきりと。

 

「今でも、毎日」

 

 沈黙が続く。だが、それは拒絶ではなかった。

 

「それでも、今日はここに来た」

 

 男は、若者を見た。

 

「それは、立ち止まってないってことだ」

 

 若者は、唇を噛み締める。

 

「……失敗しても」

 

「失敗はする。何度でも。それでも、生き延びた失敗は、誰かの灯りになる」

 

 会が終わる頃、若者は男に小さく頭を下げた。

 

「……ありがとうございました」

 

 男は、言葉を返さなかった。

 ただ、頷いた。

 

 帰り道。

 夜風が頬を撫でる。

 ポケットの奥で、何かが暖かく感じた。

 もちろん何も入っていない。それでも、確かに。

 

 ──失敗は、語り継がれた。


 その夜。どこかで、一冊の古書が静かに頁を閉じた。

 

 

 男は遠回りをして帰った。

 理由はわからない。

 ただ、足が自然と、あの路地へ向かっていた。

 霧が、薄く漂っている。

 

 街の光が滲み、世界の輪郭が曖昧になる瞬間。

 そして、そこに──あった。


 未来屋古書店。

 

 初めて訪れた時と同じように、ひっそりと佇んでいる。

 だが、なぜか懐かしさを覚えた。

 扉を開けると、紙とインクの匂いが、出迎えるように漂っていた。

 ランプの灯りは、変わらず柔らかい。

 

「……戻って来たのかい?」

 

 カウンターの奥で、老人が微笑んだ。

 膝の上では、三毛猫のワラが、ゆっくりと尻尾を振っている。

 

「……お礼を言いに来た」

 

 男はそう言った。

 

「未来をくれなんて言わない。だが……立つ場所を、くれた」

 

 老人は何も言わずに頷いた。

 棚の一角から、一冊の本が、静かに滑り出てくる。

 見覚えのある、題名のない装丁。

 

「あなたの失敗録です」

 

 本は自然に開かれた。

 ページには、すでに文字が刻まれている。

 

 ──過去の罪。

 ──恐怖。

 ──逃げなかった夜。

 ──語った失敗。

 ──小さな再生。


 白紙だったはずのページは、もう少なくなっていた。

 

「……まだ、終わってない」

 

 男が言うと、老人は微笑んだ。

 

「ええ。だから、閉じられていない」

 

 男は、本に触れなかった。

 触れる必要がないと、わかっていた。

 

「……この店は」

 

 問いかける。

 

「俺みたいな人間のために、あるのか」

 

 老人は、ランプの灯りを見つめた。

 

「この店は、失敗を抱えた人間が“それでも進む”ために存在します。許すためではない。忘れさせるためでもない」

 

 老人は、男を見た。

 

「受け止めるためです」

 

 男は、深く息を吸った。

 胸の奥に、相変わらず重たい気持ちはある。

 それは、一生消えることはないだろう。

 だが。

 

「……それで、いい」

 

 初めて、そう思えた。

 扉へ向かう前、男は振り返った。

 

「また、来るかもしれない」

 

 老人は穏やかに笑った。

 

「必要な時にだけ、たどり着くでしょう」

 

 扉を開ける。

 外は、夜明け前だった。

 東の空が、わずかに明るくなり始めている。

 一歩踏みだす。

 背後で、扉が静かに閉まった。

 振り返ると、そこにはもう、古書店はなかった。

 ただ、路地と、朝の気配だけが残っている。

 男は歩き出した。

 許されない過去を背負ったまま。

 それでも、選び続けるために。

 

 ──失敗は、未来を閉ざさない。

 それは、未来を形作る材料だ。

 

 そのことを、彼は、確かに知っていた。

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