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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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灯りを置いていった人

 その男は、本を開かなかった。


 未来屋古書店に辿り着いた者は、皆、例外なく本を開く。恐る恐る触れる者もいれば、縋るように抱きしめる者もいる。開く理由は様々だ。後悔をやり直したい者、許されたい者、確かめたい者。だが、どんな理由であれ、最後には必ず開く。それが、この店に来た者の共通点だった。


 だが、その男は違った。


 椅子に座り、本を前にしても、ただ眺めているだけだった。

 触れてしまえば、何かが決定的になってしまう気がした。終わりなのか、それとも終わりですらなかったのか。そのどちらかを知らされることを、彼は恐れていた。


 ランプの光が、黒い表紙を静かに照らしている。光は弱くも強くもない。ただそこにあり続ける光だった。


「開かないのですか」


 店主は尋ねた。

 男は視線を本から外さず、少し遅れて答えた。


「開けば、何かが変わるんですか」


 疲れた声だったが、かすかな棘があった。

 期待していると思われたくなかった。まだ何かを望んでいる人間だと、自分自身に知られることが、何よりも惨めだった。


「変わるかもしれません」


 店主は言った。


「変わらないかもしれません」


 男は、小さく笑った。


「ずいぶん正直だ」


「本は、嘘をつきません」


 男はその言葉を聞いて、初めて店主を見た。

 老人の顔だった。どこにでもいそうな、ただの老人。だが、その目だけは違っていた。何かを見てきた目だった。


「……ここに来た人は」


 男は言った。


「みんな、変わりたい人ですか」


「多くは」


 店主は答えた。

 男は頷いた。


「じゃあ、俺は違うな」


 本を指先で軽く叩いた。


「俺は、変わりたくて来たんじゃない」


 その仕草は乱暴ではなかった。むしろ、壊れ物を扱うような慎重さがあった。


「確認しに来ただけです」


「何を」


 男はランプを見た。

 炎が揺れていた。


「終わったのかどうか」


 店の空気が、少しだけ重くなった。

 本当は答えなど知っていた。とっくに終わっていることを。だが、それを自分の外側から告げられれば、完全に終わりになる気がした。

 三毛猫のワラが、カウンターの上で尻尾を揺らした。


「終わったと、思っているのですか」


 店主は尋ねた。


「思ってます」


 男は迷わず答えた。


「全部」


 その言葉には、迷いも怒りもなかった。ただ、事実を述べる声だった。


「仕事も」


 少し間を置いた。


「信用も」


 さらに、間を置いた。


「人も」


 そして、笑った。


「残ってるのは、この体だけだ」


 自分の腕を軽く叩いた。


「でも、それも時間の問題でしょう」


 冗談のように言ったが、冗談ではなかった。

 店主は、本を見た。男の失敗録。開かれていない、閉じたままの本。


「それでも」


 店主は言った。


「ここに来た」


 男は、すぐには答えなかった。しばらくランプを見ていた。炎の揺れを、目で追っていた。


「……昔」


 やがて言った。


「本が好きだったんです」


 店主は黙っていた。


「子供の頃」


 男の目は、遠くを見ていた。


「ずっと読んでた」


 その声は、少しだけ柔らかくなっていた。


「物語の中では、何度失敗しても、最後には何かが残るでしょう」


「ええ」


「だから信じてた」


 男は笑った。だが、それは懐かしさの笑みではなかった。


「自分も、そうなると思ってた」


 沈黙が落ちた。

 男は本を見た。


「でも」


 指先が、わずかに動いた。


「ならなかった」


 それだけだった。

 その一言に、すべてがあった。

 どこで間違えたのかは分からない。ただ、気づいたときには、物語の外側に立っていた。

 長い時間があった。取り返せない時間が。

 店主は、本に手を置いた。


「これは」


 静かに言った。


「あなたの物語です」


 男は見た。


「開けば、続きを知ることになります」


「続きを知って、どうなる」


「それは」


 店主は男を見た。


「あなたが決めることです」


 男は、本を見続けた。

 長い時間だった。ランプの火が揺れた。ワラが目を閉じた。やがて、男は手を伸ばした。ゆっくりと、本に向かって。

 指先が近づく。

 あと少しで触れる距離だった。だが――止まった。

 そのまま、動かなくなった。男の指が、震えていた。そして、手を引いた。


「……いい」


 小さな声だった。


「知らないままで」


 店主は何も言わなかった。


「終わった物語には」


 男は言った。


「続きを書く必要はない」


 それは諦めだった。だが同時に、決意のようでもあった。

 男は立ち上がった。椅子が、わずかに音を立てた。


「ありがとうございました」


 男は頭を下げた。礼儀正しい仕草だった。そして、扉へ向かった。手をかけた。止まった。


「一つだけ」


 振り返らずに言った。


「ここに来た人は」


「はい」


「本当に、変われるんですか」


 店主は答えた。


「変わったと」


 ランプの火が揺れた。


「信じられるようになります」


 男は、少しだけ笑った。


「そうですか」


 扉を開けた。霧が流れ込んだ。

 男は、その中へ出ていった。姿が、少しずつ見えなくなる。消える直前、男の背中は、少しだけ軽く見えた。

 扉が閉まった。静けさが戻った。ワラが椅子に飛び乗った。男が座っていた場所だった。

 くるりと回り、座った。


 店主は、本を見た。開かれなかった本。閉じたままの本。だが――表紙に、微かな光があった。ほんの、小さな光。ランプとは違う。本の奥から滲む光だった。まるで、誰かが中に灯りを置いていったように。


 店主は触れなかった。ただ、見ていた。やがて光は消えた。跡形もなく、本は、ただの本に戻った。だが、店主は知っていた。あの男は、何も持ち帰らなかったわけではない。そして、何も残さなかったわけでもない。店は、今日も待っている。失敗を抱えた者を。

 そして――灯りを、まだ知らない者を。

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