霧とランプ 第4話
淡い光は、本の隙間から静かに漏れていた。まるで呼吸をしているように、明滅している。青年はランプに触れたまま、その光を見つめた。胸の奥で何かが動いた。恐れではなかった。もっと別の――覚悟に似た感覚だった。
「……もう」
言葉が自然に浮かんだ。
「来るんですね」
青年は、その言葉を口にした自分自身に驚いていた。つい先ほどまで、逃げることばかり考えていたはずだった。だが今は違った。来てほしいとさえ、思っている自分がいた。誰かの失敗を聞くことが怖いはずなのに、それでも、その誰かがここに辿り着けたことを――どこかで安堵していた。
老人は頷いた。
「店は、待ちません」
静かな声だった。
「迷っている者がいれば、応えます」
青年は本を見た。光は少しずつ強くなっていた。その中に、微かな影が揺れている気がした。まだ形にはなっていない。だが確かにそこに、誰かの気配があった。
「俺が……話を聞くんですね」
確認するように言った。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに定まった気がした。役目という言葉はまだ重かった。だが、拒絶する気持ちはもう残っていなかった。ここに立っている理由を、完全には理解していなくても、受け入れている自分が確かにいた。
老人は答えた。
「ええ」
それだけだった。だが、その一言がすべてだった。
青年の喉が動いた。逃げ場はなかった。だが不思議と、逃げたいとは思わなかった。怖さは消えていなかった。それでも、ランプの温もりが手の中にあった。それが、自分をここに繋ぎ止めていた。
三毛猫のワラが、するりと老人の膝から降りた。静かな足取りで床を歩き、青年の足元で止まった。そして一度、見上げた。
「……よろしく、と言っているようです」
老人が小さく言った。
青年は思わず息を吐いた。緊張が、少しだけほどけた気がした。
「……はい」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。猫にかもしれない。老人にかもしれない。そして――これから来る、まだ見ぬ誰かに。
本の光が、さらに強くなった。空気が揺れた。霧の匂いがした。店の扉が、ひとりでに軋んだ。ゆっくりと――開いた。
夜の霧が、外に広がっていた。その向こうに、人影があった。立ち尽くしている影だった。動けずにいるようだった。
青年の心臓が強く打った。あの夜の自分と同じだった。迷い、失い、ここに辿り着いた者の姿だった。
老人が、小さく息を吐いた。その表情は穏やかだった。
「あなたの最初の来訪者です」
青年は、頷いた。
最初――その響きは、始まりであると同時に、もう後戻りできないことを意味していた。これから先、自分は何度もこの瞬間を迎えるのだろう。誰かの絶望と向き合い続ける日々を。それでも、不思議と後悔はなかった。あの夜、自分もまた、こうして迎えられたのだから。
そして――いっぽ、前へ出た。
足は震えていなかった。扉の前に立った時、青年はそれに気づいた。胸の鼓動は速かったが、不思議と恐怖はなかった。霧の向こうに立つ影は、まだこちらに気づいていないようだった。ただ立ち尽くし、何かを失った者だけが持つ静かな絶望をまとっていた。
青年は、ゆっくりと口を開いた。
「――いらっしゃいませ」
声は、はっきりと夜に届いた。
影が動いた。驚いたように顔を上げたのがわかった。霧の隙間から、その表情がわずかに見えた。若い男だった。目には迷いと、疲れが滲んでいた。
「……ここは」
男の声はかすれていた。
青年は答えた。
「未来屋古書店です」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が静かに満ちた。初めて言ったはずなのに、ずっと前から言い続けてきた言葉のようだった。
男は戸惑ったまま、店の中を見た。棚に並ぶ本、ランプの光、そして青年の姿を順に見た。
「本屋……なんですか」
「はい」
青年は頷いた。
「失敗を、預かる店です」
男の表情が揺れた。その言葉が胸に触れたのだとわかった。男は視線を落とした。握られた拳が、小さく震えていた。
「俺は……」
言いかけて、止まった。
青年は待った。急かさなかった。あの夜、自分がそうされたように。
沈黙が流れた。だが、それは重くはなかった。語るために必要な時間だった。
やがて男は、消えそうな声で言った。
「失敗しました」
青年の胸に、その言葉が静かに落ちた。
「全部……無駄にしました」
青年は、ゆっくりと頷いた。
「そうですか」
それ以上は言わなかった。
男は顔を歪めた。
「笑わないんですか」
「笑いません」
青年は答えた。
「ここでは、誰も笑いません」
男の目が、わずかに見開かれた。
青年は一歩、横に退いた。
「どうぞ」
店の中へと、手で示した。
男は迷っていた。だがやがて、小さく息を吸い、一歩を踏み出した。霧の中から、店の光の中へ。その瞬間、本棚のどこかで一冊の本が、静かに音を立てた。
ぱらりと、青年はその音を聞いた。理解していた。物語が、始まるのだと。
男が店の中に入った時、背後で扉が静かに閉まった。霧は遮られ、ランプの光だけが残った。
青年は男を見た。そして、言った。
「お話を、聞かせてください」
それは、あの夜――自分が救われた言葉だった。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




