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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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霧とランプ 第3話

「今は、あなたです」


 その言葉は静かだった。だが青年の中で、それは雷のように響いた。否定しようとした。だが言葉が出なかった。

 否定すれば終わるはずだった。これは違うと、関係ないと、そう言い切ってしまえばいい。だが、それを口にした瞬間、自分が本当に失うものが何なのかを、彼はすでに知っていた。

 本が手の中にある。その重みが、何よりの証拠だった。逃げることはできないと、理解していた。


「……俺が」


 声は、自分のものとは思えないほど弱かった。


「店主……」


 現実感がなかった。だが、ページに書かれている記録は続いていた。自分がこの店に立ち、誰かの話を聞き、本を手渡し、言葉を告げている。その一つ一つが、断片的な記憶として胸に蘇り始めていた。


 雨の夜に来た青年。冬の風の中で泣いていた母親。罪を抱えた男。震える声で語られた失敗。

 それを聞きながら、自分はここに座っていた。

 この椅子に。この場所に。


「……どうして」


 青年は老人を見た。


「どうして俺は……忘れていたんですか」


 老人はランプの火を見つめたまま答えた。


「役目を終えたからです」


「役目……」


「店主は、ずっと店主ではいられません」


 その言葉は、どこか寂しげだった。


「人だからです」


 青年は黙っていた。


「失敗を受け止め続ければ、自分の中にも失敗が積み重なります。痛みも、後悔も、すべて」


 老人は静かに続けた。


「やがて限界が来ます」


 青年は、老人の顔を見た。深い皺。その奥にある目は、穏やかだった。だが同時に、長い疲れを湛えていた。


「だから、店は選びます」


「……何を」


「次の店主を」


 青年の胸が強く打った。


「あなたは、選ばれました」


 老人は青年を見た。


「そして、受け入れた」


 否定できなかった。本がここにある。それがすべてだった。


「……じゃあ」


 青年は言った。


「あなたは……」


 老人は微笑んだ。


「もう、店主ではありません」


 その言葉は、解放の響きを持っていた。


「ただの、老人です」


 青年は何も言えなかった。ただ、老人を見ていた。

 この人もまた、かつてここに座っていたのだ。自分と同じように、迷い、苦しみ、そして誰かを救ってきたのだ。

 老人が、静かに立ち上がった。椅子が小さく軋んだ。


「あなたに、お返しします」


 そう言った。

 青年の心臓が大きく打った。

 老人はランプに手を伸ばした。そして――青年の前に置いた。ランプの火が、揺れた。それはまるで、新しい命が灯ったようだった。


「これは……」


 老人は言った。


「未来です」


 青年はランプを見つめた。その光は、暖かかった。そして、逃げることはできないと知った。

 これは、自分の場所だった。


 ランプの火は静かに揺れていた。青年はそれを見つめたまま動けなかった。小さな炎に過ぎないはずなのに、その光は重かった。手を伸ばせば触れられる距離にあるのに、触れてしまえば何かが決定的に変わってしまう――そんな予感があった。


「……未来」


 自分の口から出た言葉は、どこか遠くのもののように聞こえた。

 老人は頷いた。


「ええ。この店の未来であり、あなたの未来です」


 青年はランプに手を伸ばしかけ、そして止めた。


「俺に……できるんですか」


 その問いは、弱さを隠せなかった。老人のように、あの記録にあった自分のように、誰かの失敗を受け止めることなど、本当にできるのか。自分はまだ、自分自身のことさえ受け止めきれていない気がした。


 老人は、すぐには答えなかった。代わりに、店の奥を見回した。棚に並ぶ無数の古書を、一本一本確かめるように視線を動かした。


「私も、同じことを聞きました」


 やがて、そう言った。

 青年は顔を上げた。


「昔、ここで」


 老人は微かに笑った。


「自分には無理だと、そう思っていました」


 青年は黙っていた。


「ですが」


 老人は続けた。


「できるかどうかではありません」


 一度、言葉を切った。


「やるのです」


 静かな声だった。だが、揺るがなかった。

 青年の胸に、その言葉が深く落ちた。できるかどうかではない。やるかどうか。そう言われた瞬間、本の中で見た光景が蘇った。ここに立っていた自分。誰かの話を聞いていた自分。あの自分は、迷っていなかった。


 いや――迷いながらも、逃げなかったのだ。


 青年はランプを見つめた。

 逃げることはできる。ここから出て、すべてを忘れたまま生きることもできるのかもしれない。だが、それではまた同じ場所に戻ってくる気がした。霧の中を彷徨い、何かを失くしたまま歩き続ける自分に。


 三毛猫のワラが、静かに青年を見ていた。その金色の目は変わらず澄んでいた。


「……俺は」


 声が震えた。

 それでも、言葉を続けた。


「逃げたくありません」


 老人は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。

 それだけで十分だった。


 青年は、ランプに手を伸ばした。指先が触れた瞬間、温もりが伝わった。小さな炎のはずなのに、その熱は確かだった。


 その時だった。店の奥で、本が一冊、音を立てて開いた。ぱらり、と。紙のめくれる音が、静かな店内に響いた。青年は顔を上げた。棚の一角で、一冊の古書が淡く光っていた。

 老人が言った。


「来たようです」


 青年は息を呑んだ。


「次の、来訪者が」

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