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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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霧とランプ 第2話

 青年は本を見つめ続けていた。黒い表紙は光を吸い込むようで、見ているだけで自分の中の何かまで吸い取られていく気がした。指先に伝わる重みが、ただの紙の束ではないことを告げていた。まるでこれは、物ではなく時間そのものだった。自分が過ごしてきたはずの、しかし思い出せない時間の重さだった。


 開かなければならない。そう思うのに、指が動かない。


 開いてしまえば、戻れなくなる気がした。何に戻れなくなるのかはわからない。ただ、今のこの「何も知らない自分」には戻れなくなる、そんな予感があった。


 老人は急かさなかった。ランプの火を見つめたまま、静かに口を開いた。


「怖いですか」


 青年は少し考えた。


「……わかりません」


 本当は怖かった。だが、何が怖いのかがわからなかった。

 老人は頷いた。


「それでいいのです」


「いいんですか」


「ええ。人は皆、同じ顔をします」


 老人はゆっくりと青年を見た。


「自分の失敗を知る前は」


 失敗。

 その言葉に、青年の胸がざわめいた。失敗したのか。自分は。何を。


「俺は……何をしたんですか」


 思わず聞いていた。

 老人は少しだけ目を細めた。


「それを決めるのは、私ではありません」


 そう言って、本を顎で示した。


「そこにあります」


 青年は視線を落とした。本は何も語らなかった。ただそこにあった。

 自分のものだと言われても、実感はなかった。だが否定もできなかった。この店に入った時から、自分はずっと何かを探していた。その何かが、今、目の前にあるのだと感じていた。


 青年は息を吸った。そして、表紙に手をかけた。その瞬間、三毛猫が鳴いた。


「……ニャア」


 驚いて手を止めた。猫は老人の膝の上で目を開けていた。金色の目が青年を見ていた。


「ワラです」


 老人が言った。


「この店の看板猫です」


 ワラはじっと青年を見ていた。その目は、不思議なほど静かだった。まるで、すべてを知っているような目だった。


「この子も、見てきました」


「何を」


「ここに来た人たちを」


 青年は猫を見返した。猫は瞬きを一つしただけだった。


「そして、あなたも」


 その言葉に、青年の心臓が強く打った。


「……俺も」


 老人は頷いた。


「ええ」


 それ以上は言わなかった。だが、それだけで十分だった。ここに来たことがある。そう言われた気がした。青年は本を見た。指先に力を込めた。逃げてはいけない。なぜか、そう思った。

 ゆっくりと、表紙を開いた。その瞬間、光が溢れた。白い光だった。ランプの光ではなかった。本の中から溢れていた。

 青年は目を見開いた。

 文字があった。無数の文字だった。ページいっぱいに書かれていた。それは――自分の字だった。

 青年の呼吸が止まった。

 見覚えがあった。忘れていたはずなのに、知っていた。震える手で、最初の一行を読んだ。そこには、こう書かれていた。


『未来屋古書店 店主の記録』


 世界が、音を失った。青年は動けなかった。

 意味を理解することを、心が拒んでいた。だが、目は文字を追っていた。次の行を。そして、その名前を見た。


 ――店主 ーーーー。


 それは、自分の名前だった。

 青年の喉が鳴った。だが、それが息なのか声なのか、自分でもわからなかった。視線は文字に縫い付けられたまま動かない。店主――その下に書かれている名前は、間違いなく自分のものだった。忘れていたはずなのに、見た瞬間に理解してしまった。これは他人ではない。自分だ。


「……違う」


 かすれた声が漏れた。


「こんなはずない」


 だが否定の言葉とは裏腹に、胸の奥で何かがほどけ始めていた。固く閉ざされていた扉が、軋みながら開いていく感覚だった。本の文字が、ただの記録ではなく、記憶として胸に流れ込んでくる。

 霧の夜。震える足で歩いたこと。

 あてもなく彷徨い、そしてこの店を見つけたこと。


 ランプの光。古書の匂い。そして――一人の老人。

 青年は顔を上げた。目の前にいる老人を見た。

 老人は、静かに青年を見返していた。その目は変わらなかった。あの夜と同じ目だった。


「あなたは……」


 言葉が震えた。


「俺は……ここに来たことがある」


 老人は、ゆっくりと頷いた。


「ええ」


 それだけだった。だが、それで十分だった。

 胸の奥で、何かが決定的に繋がった。


 青年は本に視線を戻した。ページをめくる。そこには、自分がここに来た夜のことが書かれていた。


 失敗したこと。すべてを失ったと思ったこと。未来などないと諦めたこと。そして、この店で言葉をもらったこと。


 ーー失敗は終わりではありません。


 その一文を見た瞬間、記憶が溢れた。声が蘇った。この老人の声だった。あの夜、自分はこの言葉に救われた。救われて、そして――青年の手が止まった。

 次のページ。

 そこに書かれていたのは、知らないはずの記録だった。


 店に立つ自分。誰かの話を聞く自分。ランプの火を灯す自分。


「……これは」


 声が震えた。


「俺が……店主に……」


 老人が言った。


「なりました」


 静かな声だった。否定を許さない声だった。青年は老人を見た。


「どうして」


 老人は少しだけ微笑んだ。


「あなたが選んだからです」


「選んだ……」


「失敗を抱えた人を、受け止めることを」


 青年は言葉を失った。そんな記憶はなかった。だが、本には書かれていた。自分の字で。確かに。逃げ場はなかった。

 青年は震える声で言った。


「……あなたは」


 老人は答えた。


「前の店主です」


 その言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。

 理解した瞬間、世界が揺らいだ気がした。前の……店主。では今は。

 青年の喉が動いた。


「……じゃあ」


 老人は静かに言った。


「今は、あなたです」

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