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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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霧とランプ 第1話

 気がついたとき、青年は霧の中に立っていた。白い霧だった。濃く、遠くは何も見えない。前も後ろもわからない。街の音も消えていた。車の音も、人の声も、何も聞こえない。まるで世界に自分一人だけが残されたようだった。


 青年は動かなかった。動けなかった。なぜここにいるのかわからなかった。さっきまで何をしていたのかも思い出せない。頭の奥に空白があった。大切な何かがそこにあったはずなのに、今はない。ぽっかりと穴が空いているようだった。


 胸の奥がざわついていた。不安だった。このままここにいれば、自分は本当に消えてしまうのではないか。そんな恐怖があった。

 青年は歩き出した。理由はなかった。ただ立ち止まっていることに耐えられなかった。足音は聞こえなかった。霧がすべてを飲み込んでいるようだった。


 そのとき、光が見えた。


 小さな光だった。霧の奥で揺れている。消えそうで消えない光だった。青年は足を止めた。

 見てはいけない。


 なぜかそう思った。あの光に近づけば、何かを思い出してしまう。忘れていた何かを。忘れたままでいたほうがいい何かを。

 だが目を逸らせなかった。胸の奥が強く脈打っていた。光はただそこにあるだけなのに、まるで呼んでいるようだった。


 青年は歩き出した。一歩ずつ近づく。光は逃げなかった。やがて形が見えてきた。古いランプだった。橙色の火が静かに灯っている。その下に建物があった。木造の小さな店だった。

 青年は立ち止まった。こんな場所に店があるはずがない。だが確かにそこにあった。

 看板が見えた。古びた板に文字が刻まれている。青年は読んだ。


 未来屋古書店。


 その名前を見た瞬間、胸の奥が強く痛んだ。理由はわからない。だが知っている気がした。この店を。この名前を。

 思い出そうとした。だが何も浮かばない。霧が記憶を覆っているようだった。

 扉の向こうに気配があった。誰かがいる。そう感じた。


 青年は迷った。入るべきではない。そんな気がした。だが同時に、入らなければならないとも思った。ここに答えがある。自分が失くした何かの答えが。

 手が震えていた。恐怖なのか期待なのかわからなかった。

 青年は扉に手を伸ばした。木の感触が指先に伝わる。冷たいはずなのに、どこか温かかった。


 ゆっくりと扉を開けた。鈴の音が鳴った。


 店の中は薄暗かった。本が並んでいる。壁一面に古書が並んでいる。そして老人がいた。椅子に座り、青年を見ていた。

 老人は言った。


「いらっしゃい」


 その声を聞いた瞬間、青年の胸の奥で何かが揺れた。懐かしさにも似た感覚だった。

 老人は続けた。


「未来屋古書店へようこそ」


 その言葉を聞いたとき、青年は理由もなく、この場所に来ることが決まっていたのだと感じていた。

 老人の声は静かだった。だがその静けさは、霧の静けさとは違っていた。そこには確かな重さがあった。長い時間を生きてきた者だけが持つ重さだった。


 青年はしばらく何も言えなかった。老人の顔を見ていた。初めて見るはずだった。だが胸の奥で何かが引っかかっていた。


 知っている。そんな感覚があった。だが思い出せない。


 老人は青年を見つめていた。急かすこともなく、ただ待っていた。


 やがて青年は口を開いた。


「……ここは」


 声がかすれた。


「ここは、どこですか」


 老人は微かに微笑んだ。


「本屋です」


 当たり前のことを言うように答えた。

 青年は眉をひそめた。


「そういう意味じゃなくて」


 老人は頷いた。


「あなたが来る場所です」


 意味がわからなかった。


「どうして俺が」


 老人は答えなかった。その代わりに、近くの棚へ手を伸ばした。一冊の本を取り出す。古びた本だった。

 そして青年に差し出した。


「探しているのでしょう」


 青年は本を見た。

 黒い表紙だった。題名はなかった。


「……何を」


 老人は言った。


「失くしたものを」


 その言葉を聞いた瞬間、青年の胸が強く締め付けられた。


 失くしたもの。その言葉は、胸の奥にある空白に触れた。青年は無意識に本を受け取っていた。重かった。見た目よりもずっと重かった。

まるで、中に何かが詰まっているようだった。


 青年は表紙を見つめた。指先が震えていた。なぜ震えているのかわからなかった。開いてはいけない。そんな気がした。だが同時に、開かなければならないとも思った。

 老人が言った。


「思い出しますか」


 青年は顔を上げた。


「……何を」


「あなた自身を」


 その言葉に、息が止まった。

 自分自身。それを、自分は忘れているというのか。


「……俺は」


 言葉が続かなかった。

 自分が何者なのか。わからなかった。名前は。思い出せる。だがそれだけだった。それ以外は。空白だった。どうして。どうして自分は。

 老人は静かに言った。


「ここに来た人は皆、本を開きます」


 青年は本を見た。


「開けば、戻ります」


「……何が」


「あなたが捨てたものが」


 捨てた。その言葉が胸に刺さった。

 捨てた覚えなどなかった。だが、胸の奥で、何かが軋んだ。

 老人は続けた。


「開くかどうかは、あなたが決めてください」


 それだけ言って、黙った。店の中は静かだった。ランプの火が揺れていた。

 青年は本を見つめていた。自分の手の中にある本を。これを開けば、何かが変わる。戻るのかもしれない。戻ってしまうのかもしれない。

 青年は、動けなかった。

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