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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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雨の街灯 最終話

 男が息を吐いた瞬間、幻影の光がわずかに揺らいだ。まるで、その心の変化に呼応するかのように。工房の中で、未来の自分が棚に置いた箱にそっと触れている。その指先は慎重で、そして優しかった。かつての自分は、こんなふうに何かに触れていただろうか。数字や契約書ではなく、形あるものに。


 男の胸に、静かな痛みが広がった。それは後悔だった。だが、それだけではなかった。後悔の奥に、まだ残っている何かがある。それを、はっきりと認めるのが怖かった。


「……あの未来を」


 男は口を開いた。


「俺は、本当に選べるんですか」


 老人はすぐには答えなかった。ランプの火を見つめ、そして静かに男を見る。


「未来は、与えられるものではありません」


 男はその言葉を待った。


「あなたが選んだ瞬間にだけ、生まれるものです」


 選ぶ。

 その言葉が、胸の奥で重く響いた。


 自分はずっと、失ったものばかりを見ていた。失敗した過去に縛られ、そこから動けずにいた。だが――もし、まだ選べるのなら。


 幻影の中で、未来の自分が椅子に腰を下ろした。静かに目を閉じている。疲れているのだろう。だが、その顔には安らぎがあった。逃げ続けている人間の顔ではなかった。立ち止まり、自分の足で立っている者の顔だった。


 男は、その姿を見つめながら思った。

 自分は、逃げていたのだ。倒産した日から。


 すべてが終わったと思い込み、何も選ばないことで、自分を守っていた。選ばなければ、失敗もしない。傷つくこともない。そうやって、時間だけを過ごしてきた。


 だが、それは――生きているとは言えなかった。


「……怖い」


 言葉が、自然にこぼれた。

 老人は何も言わず、聞いていた。


「また失敗するかもしれない」


 喉が震えた。


「また、誰かを失望させるかもしれない」


 それが一番怖かった。

 自分自身よりも。誰かの期待を裏切ることが。


 幻影の中で、未来の自分が再び立ち上がった。そして、作業台に向かう。迷いのない動きだった。恐怖がないわけではないだろう。それでも、手を動かしている。


 男は気づいた。

 あの自分も、きっと怖かったはずだ。それでも――止まらなかった。

 老人が静かに言った。


「失敗を避けることはできます」


 男は顔を上げた。


「何も選ばなければいい」


 その言葉は、静かだった。


「だが、それは同時に、何も得られないということです」


 男の胸に、深く突き刺さった。


 何も選ばない。


 それが、今までの自分だった。

 生きているのではなく、ただ終わりを待っているだけの自分。


 幻影の光が、少しずつ薄れていく。


「あ……」


 男は思わず手を伸ばした。

 未来の自分が、消えていく。工房が。光が。消えてい。

 その瞬間、強く思った。

 消えてほしくない、と。あの未来を。あの自分を。失いたくない、と。

 光が、完全に消えた。古書店の静けさが戻る。

 机の上には、開かれた古書だけが残っていた。

 男は、しばらく動けなかった。

 胸の奥で、何かが確かに変わっていた。


 古書の頁は、もう光っていなかった。ただの紙に戻っている。そこに何が書かれているのか、男には読めなかった。文字は滲み、意味を結ばない。ただ一つわかるのは、さっきまで確かに未来があったということだけだった。


 男は、震える指で頁の端に触れた。冷たい感触だった。幻影の中で見た木の温もりとは、まるで違う。


「……終わったんですか」


 掠れた声で言った。

 老人は静かに頷いた。


「はい」


 それだけだった。


 男は俯いた。胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚があった。何か大切なものを見て、それを失った直後のような感覚だった。


 だが――完全な空虚ではなかった。穴の奥に、小さな何かが残っている。

 熱だった。


「……あの未来は」


 男はゆっくり顔を上げた。


「まだ、消えていないんですか」


 老人は、わずかに微笑んだ。


「未来は、元から存在しているものではありません」


 静かな声だった。


「あなたが選び続ける限り、何度でも生まれます」


 男は、その言葉を反芻した。

 何度でも。

 その意味が、胸の奥に染み込んでいく。


「……俺は」


 言葉が途切れた。


 怖さは、消えていなかった。外に出れば、何も変わらない現実が待っている。借金も、失った信用も、戻らない。


 それでも。それでも――


 幻影の中で見た自分は、確かに存在していた。

 失った後の自分が。それでも、生きていた。

 男は、深く息を吸った。肺の奥まで、冷たい空気が入ってくる。

 こんなふうに息をしたのは、いつ以来だろうと思った。


「……もう一度」


 声に出した。

 自分自身に言い聞かせるように。


「もう一度、やってみます」


 老人は、何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。それで十分だった。

 男は立ち上がった。足はまだ重い。だが、動いた。確かに、自分の意志で。


 扉の前で、ふと振り返った。


 古書店は変わらずそこにある。ランプの光。棚に並ぶ無数の古書。そして、椅子の上で眠る三毛猫。猫は一度だけ目を開け、男を見た。まるで、見送るように。


 男は小さく頭を下げた。


「……ありがとうございました」


 老人は微かに微笑んだ。


「失敗は、終わりではありません」


 男は、その言葉を待った。


「未来を作るための、材料です」


 胸の奥で、何かが静かに灯った。

 男は扉を開けた。外は、夜だった。


 冷たい空気が頬に触れる。だが、不思議と寒さは感じなかった。空を見上げる。雲の切れ間に、小さな星が見えた。

 男は、歩き出した。一歩。そして、もう一歩。

 背後で、扉が閉まる音がした。振り返らなかった。もう、必要なかった。

 男の足取りは、まだ頼りない。だが、その歩みは確かだった。

 失敗を抱えたまま。それでも――未来へ向かって、歩いていた。

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