雨の街灯 第4話
木を削る音は、いつまでも続いていた。一定の速さで、静かに、迷いなく響いている。その音を聞いていると、不思議と胸の奥のざわめきが少しずつ静まっていくのがわかった。幻影の中の自分は、もう青年の方を見ていなかった。再び作業に集中している。まるで、それが当たり前であるかのように。特別なことではなく、日常の一部であるかのように。
男は、その背中から目を離せなかった。
あの背中は、何を乗り越えてそこに立っているのだろう。
倒産した絶望を。裏切ったという後悔を。すべてを失った現実を。
どうやって――
「……本当に、俺なのか」
声が震えた。
老人はすぐには答えなかった。ランプの火を見つめたまま、静かに言った。
「あなたが選ばなかった未来であり、選ぶかもしれない未来です」
選ばなかった未来。
その言葉が、胸に重く落ちた。
自分は何を選んできたのだろう。成功する道ばかりを探していた。失敗しない道ばかりを求めていた。安全で、確実で、賞賛される道ばかりを。
だが、その結果が――
今の自分だ。
幻影の男が、ふと手を止めた。窓の外を見ている。夕暮れだった。赤い光が差し込み、工房の中を染めている。その光の中で、男は目を細めた。
その表情は、穏やかだった。
男の胸が痛んだ。
自分は、あんな顔を最後にしたのはいつだっただろう。会社が大きくなり始めた頃か。それとも、初めて契約が取れた日の夜か。もう思い出せない。成功していたはずなのに、心はいつも追い立てられていた。止まれば終わると信じていた。走り続けなければ、自分には価値がないと信じていた。
だが、あの自分は違う。止まっている。
それでも――
壊れていない。
そのとき、幻影の中で再び扉が開いた。今度は中年の女性だった。両手に箱を抱えている。
「注文の品、受け取りに来ました」
幻影の男が振り向いた。
「ああ、どうぞ」
女性が箱を開ける。中には、小さな木の椅子が入っていた。子供用の椅子だった。丸みを帯びた形で、優しい手触りが伝わってくるようだった。
「……素敵」
女性が呟いた。
「本当に、ありがとうございます」
その声には、心からの安堵が滲んでいた。
「孫が、退院するんです」
幻影の男は、静かに聞いていた。
「長く入院していて……家に帰ったら、この椅子に座らせてあげたくて」
女性の目が、少し潤んでいた。
「きっと、喜びます」
幻影の男は、小さく頷いた。
「そうだといいですね」
それだけだった。
大げさな言葉は何もない。だが、女性は何度も頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
女性が去ったあと、工房に静けさが戻った。
幻影の男は、しばらく扉を見つめていたが、やがて椅子があった場所に目を落とした。そして、小さく息を吐いた。
その姿を見た瞬間、男の胸の奥で何かが崩れた。
理解してしまったのだ。
あの自分は――
誰かの役に立っている。
かつてのように、大きな会社を動かしているわけではない。何百人もの人生を背負っているわけでもない。だが、確かに、一人の人間の未来に触れている。
それは、かつて自分が求めていたものではなかったか。
「……こんなことが」
声が掠れた。
「俺に、できるのか」
老人は答えなかった。
ただ静かに、男を見ていた。
その沈黙が、問いを返しているようだった。
――あなたは、どうするのか。
幻影の中で、再び木を削る音が響いた。
その音は、まるで男の心を削っているようだった。不要なものを削り落とし、本当の形を露わにしていくように。
男は、拳を握りしめていた。
拳を握りしめたまま、男は動けなかった。胸の奥が熱い。痛みとも違う、だが確かに内側から広がっていく感覚だった。幻影の中では、木を削る音が変わらず響いている。その音は不思議と孤独には聞こえなかった。静かで、満ちていた。
なぜだ、と男は思った。
あの場所には、何もないはずだ。金もない。名声もない。成功と呼べるものもない。かつて自分が追い求めていたものは、一つもない。それなのに――
あの自分は、壊れていない。
「……どうしてだ」
思わず呟いた。
老人が静かに視線を向ける。
「何が、ですか」
「全部、失ったのに」
喉が詰まった。
「会社も、仲間も、信頼も……何もかも」
言葉にした瞬間、胸の奥の傷が開いたようだった。あの日の光景がよみがえる。頭を下げ続けた会議室。誰も目を合わせなかった社員たち。机の上に置かれた辞表。最後に出た事務所の、冷えた空気。
「もう、終わったはずだ」
自分の人生は。
だが、幻影の中の自分は終わっていない。木を削り続けている。生き続けている。
老人が言った。
「あなたは、何を失ったと思っていますか」
男は顔を上げた。
「……すべてです」
老人はゆっくりと首を振った。
「違います」
その一言が、静かに落ちた。
「あなたは、“一つの形”を失っただけです」
男は言葉を失った。
「形……」
「会社という形。成功者という形。周囲があなたに与え、そしてあなた自身も信じていた形です」
老人の声は穏やかだった。
「しかし、あなた自身まで失われたわけではない」
男は、息を止めた。
「あなたは今もここにいる」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
ここにいる。
それは、あまりにも当たり前のことだった。
だが――自分はずっと、いないものとして扱っていた。失敗した自分には価値がないと。終わった人間なのだと。
幻影の中で、木を削る音が止まった。
幻影の自分が、完成した何かを見つめている。小さな木の箱だった。蓋を開け、閉じる。その動作を、何度も確かめている。
やがて、満足したように頷いた。その表情には、かすかな誇りがあった。
男の胸が、大きく揺れた。
思い出したのだ。
初めて会社を立ち上げた日のことを。小さな事務所。古い机。何もなかった。だが、自分の手で作り上げているという実感があった。あのとき、自分は確かに――
生きていた。
「……俺は」
声が震えた。
「まだ……」
続きの言葉が、出なかった。怖かった。もし認めてしまえば。まだ終わっていないと認めてしまえば。また歩き出さなければならない。また失敗するかもしれない。また失うかもしれない。
老人が静かに言った。
「未来は、保証ではありません」
男は老人を見た。
「約束されたものではない。選び続けるものです」
幻影の中の自分が、箱を棚に置いた。その動作は、とても自然だった。特別な意味などないように見える。だが、その一つ一つが積み重なっていく。
男は、気づいた。あの未来は、奇跡ではない。一つの選択の、積み重ねだ。
逃げなかった選択。諦めなかった選択。自分を捨てなかった選択。
男の拳が、ゆっくりとほどけた。掌に爪の跡が残っていた。それを見つめながら、男は小さく息を吐いた。
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