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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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雨の街灯 第3話

 棚の奥から取り出された古書は、他の本よりもわずかに重く見えた。革の表紙は黒に近い濃茶色で、長い年月に触れられてきたせいか、柔らかな鈍い光を宿している。老人はそれを慎重に机の上へ置いた。乾いた音が、静かな店内に小さく響いた。


「これは……」


 男は思わず身を乗り出した。


「あなたの失敗録です」


 老人は静かに言った。


 男の喉が鳴った。


 逃げたい、という衝動が一瞬胸をよぎる。見たくない。知りたくない。自分の失敗を、改めて形として突きつけられることが、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。


「開けば、何が見えるんです」


 声がかすれた。


「未来の断片です」


 老人は答えた。


「ただし、それは確定した未来ではない。あなたが選び取るかもしれない、可能性の一つです」


 可能性。


 その言葉が、胸の奥に沈んだ。


 そんなものが、自分にまだ残されているのだろうか。


 男は震える手を見つめた。かつて契約書に何度も署名してきた手。成功を疑わなかった手。だが今は、何一つ掴めないまま空を彷徨っている。


「……見る資格なんて、俺にあるんですか」


 老人は微かに目を細めた。


「未来に資格など必要ありません」


 その声は、柔らかくも揺るがなかった。


「あるのは、向き合う意志だけです」


 店内が静まり返る。


 ランプの火が、小さく揺れた。


 男は唾を飲み込んだ。


 胸の奥で、何かが軋んでいた。後悔。恐怖。絶望。そして――わずかな、言葉にできない感情。


 希望、と呼ぶにはあまりにも弱いものだった。


 老人の手が、ゆっくりと古書の表紙に触れた。


「準備はいいですか」


 男は、すぐには答えられなかった。


 視線を落とす。机の木目がぼやけて見えた。自分は、何を失ったのか。会社だけではない。仲間の信頼。家族の笑顔。自分自身への誇り。


 全て、自分の手で壊した。


 それでも。それでも、もし――


「……はい」


 声は小さかったが、確かに出た。


 老人は、ゆっくりと頷いた。

 そして、古書を開いた。瞬間、空気が変わった。男の視界の端で、光が滲んだ。


 それは最初、小さな揺らぎだった。だが次の瞬間、紙の上から淡い光が溢れ出した。霧のように広がり、空間を満たしていく。


「これは……」


 男は息を呑んだ。


 光の中に、影が生まれた。


 形を持ち始める。


 机。


 椅子。


 壁。


 見覚えのない場所だった。


 いや――


「……違う」


 男は呟いた。


 見覚えがないはずなのに、なぜか胸がざわめく。


 それは古びた小さな部屋だった。広くはない。壁には傷があり、床も擦り減っている。だが窓から差し込む光は、柔らかく温かかった。


 そして。一人の男がいた。作業着姿で、机に向かっている。背中が見える。その背中に、見覚えがあった。


「……俺、か」


 男の声が震えた。


 幻影の中の男が、顔を上げた。


 やつれた顔だった。だが、その目には――


 光があった。


 かつて失われたはずのもの。


 諦めではなく。


 絶望でもなく。


 静かな、意志。


 幻影の男は、木材を手に取った。ゆっくりと触れる。その手つきは慎重で、だが迷いはなかった。


 そして、小さく息を吐いた。


「……よし」


 呟いた。


 その声は、確かに男自身のものだった。

 だが、今の自分とは違っていた。壊れた人間の声ではなかった。何かを――もう一度、始めようとする者の声だった。

 男の胸が、大きく脈打った。

 これは何だ。これは、本当に――


「未来、なのか……」


 誰にともなく、呟いた。

 老人は、答えなかった。

 ただ静かに、その光景を見つめていた。


 幻影の中の男は、しばらく木材を見つめていたが、やがて工具を手に取った。古びた作業台の上には、削りかけの板がいくつも並んでいる。決して立派な工房ではない。壁の染みも、窓枠の歪みも、そのままだ。それでも、そこには奇妙な静けさがあった。かつて自分が立っていた、あの慌ただしい事務所とはまるで違う。電話の音も、怒鳴り声も、責任を押し付け合う空気もない。ただ、木の匂いと、光だけがある。


 男はその光景に、言葉を失っていた。


「これは……どういう……」


 老人は静かに言った。


「あなたが選ぶかもしれない場所です」


 幻影の男が、刃を当てる。木を削る音が響いた。静かで、規則正しい音だった。焦りはない。一削りごとに、確かな手応えを確かめているようだった。その姿を見ていると、胸の奥に奇妙な感覚が広がっていく。懐かしいような、そして痛むような感覚。


 思い出したのだ。起業する前、自分はものづくりが好きだった。数字ではなく、形のあるものを作ることが好きだった。だが会社を大きくするにつれて、そんな時間は消えていった。効率、利益、拡大。それだけを追い続け、気が付けば、自分が何を好きだったのかさえ忘れていた。


「……こんな未来が、本当に」


 幻影の男が手を止める。額の汗を拭い、ふっと息を吐いた。その表情には疲れがあった。だが同時に、満たされたような静けさがあった。失敗も、後悔も、すべてを知った上で、それでも立っている者の顔だった。


 胸が締め付けられた。


「どうして……」


 言葉がこぼれた。


「どうして、こんな顔ができる」


 自分は、すべてを失ったのに。仲間を裏切り、信頼を壊し、何も残らなかったのに。なのに、あの自分は――まだ立っている。


 そのとき、幻影の中で扉が開いた。


「先生」


 若い声だった。一人の青年が入ってきた。作業着姿で、どこか不器用そうに立っている。


「頼まれてた棚、できました」


 幻影の男が振り向く。


「ああ、見せてくれ」


 青年が差し出す。拙い作りだった。角は少し歪み、表面も粗い。かつての自分なら、苛立ちを覚えただろう。こんなものは商品にならないと、突き返したはずだ。

 だが、幻影の男は違った。


「……よくできてる」


 静かに言った。

 青年が目を見開いた。


「本当ですか」


「ああ」


 幻影の男は棚を撫でた。


「失敗した跡がある。だが、それがいい」


 青年は戸惑っていた。


「いい、んですか」


「失敗したってことは、作ったってことだ」


 その言葉は、静かだった。だが、確かな重みがあった。


「作らなかった人間には、失敗もできない」


 男の胸が、強く脈打った。


 それは――かつて、自分が誰かに言いたかった言葉だったのかもしれない。

 だが、言えなかった。成功ばかりを求め、失敗を許さなかった。だから最後には、自分自身の失敗も許せなくなった。


 幻影の青年が、頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 その声は、震えていた。

 幻影の男は、小さく笑った。


「次は、もっと良くなる」


 確信している声だった。


 その瞬間、男の目の奥が熱くなった。


 なぜだ。なぜ、自分は――こんな未来を、見せられている。

 老人が静かに言った。


「失敗は、終わりではありません」


 男は、何も言えなかった。

 幻影の中の自分が、再び木を削り始める。その音が、胸の奥に深く響いていた。

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