雨の街灯 第2話
男は、その本を見下ろした。表紙には何も書かれていない。ただ古びているだけの本だった。だが、不思議と目を逸らせなかった。まるで、自分自身を見せられているような気がした。
「……これが」
喉が乾いていた。
「俺の……」
「ええ」
老人が言った。
「あなたの失敗録です」
男の指先が、わずかに震えた。
「開けば、分かります」
老人の声は穏やかだった。男は、すぐには触れなかった。触れた瞬間、何かが決定的になってしまう気がした。だが、すでに決定的に失っているのだという思いもあった。逃げてきた。倒産した日から、ずっと。最後の整理を終え、工場の鍵を閉めた日。従業員たちの顔を見られなかった。最後まで「社長」と呼んでくれた声に、振り返ることができなかった。
男は、本に手を伸ばした。冷たい感触だった。ゆっくりと、開く。
瞬間、光が溢れた。
「――!」
思わず目を細める。光は、文字になった。ページの上に、文字が浮かび上がっていく。
『株式会社東和精機 設立』
男の心臓が跳ねた。それは、自分の会社の名前だった。忘れたことなど、一度もない名前だった。
文字は、続いていく。
『資本金五百万円』
『従業員五名』
『代表取締役 ――』
自分の名前。胸が締め付けられた。
光は消えなかった。今度は、景色になった。工場だった。見慣れた工場。機械の音。油の匂い。
「社長!」
声。振り返る。若い社員だった。笑っていた。
「見てください、これ!」
手には、加工したばかりの部品。
「うまくできました!」
誇らしげだった。男は、息を呑んだ。覚えている。あの日だ。
「……ああ」
幻影の中の自分が、笑っていた。
「いい出来だ」
その声は、自信に満ちていた。信じていた。未来を。この会社の未来を。
光景が変わる。机。書類の山。数字。赤字。借入金。男の顔から、笑みが消えていく。電話。
「もう少し待ってください」
必死に言っている。
「必ず立て直します」
だが、声は届かない。
光景が揺れる。社員たちの顔。不安。それでも、信じようとしている目。
「社長……」
その声。男の胸が、強く痛んだ。
光が、さらに強くなる。そして――止まった。
工場の前だった。シャッターが、閉まっている。貼り紙。
『閉鎖』
男は、動けなかった。知っている。この日のことを。忘れたことなど、一度もない。
シャッターの前に、幻影の中の自分が立っていた。背中が、ひどく小さく見えた。鍵を握りしめたまま、動けずにいる。男は、その背中を見ていた。あれは、自分だ。すべてを失った日の自分だった。
幻影の自分が、ゆっくりとシャッターに手を触れた。
「……すまない」
かすれた声だった。誰に向けた言葉なのか、分からなかった。社員に対してか。会社に対してか。それとも――自分自身に対してか。シャッターが下りる。重い音が響いた。それは、終わりの音だった。男の胸の奥で、同じ音が響いた。あの日、自分は確かに終わったのだと思った。もう二度と、何かを始める資格はないと。
幻影の自分は、振り返らなかった。そのまま歩き出した。逃げるように。背中を丸めて。男は叫びそうになった。待て、と。逃げるな、と。だが、声は出なかった。
光景が揺らぐ。雨の夜だった。街灯の下。幻影の自分が、立っている。今の自分と同じ場所。同じように、濡れながら。
「……終わった」
同じ言葉。同じ声。男は息を呑んだ。これは、過去だ。さっきまでの自分だ。だが――光は、消えなかった。
変わった。幻影の自分が、顔を上げた。その先に、何かがある。男は目を凝らした。小さな建物だった。古びた看板。明かりの灯った窓。工場だった。知らない工場だった。
幻影の自分が、ゆっくりと近づいていく。扉を開ける。中には、古い機械が一台だけ置かれていた。誰もいない。幻影の自分は、その機械に手を触れた。迷っている。震えている。それでも――スイッチを入れた。
機械が、動き出す。低い音。懐かしい音。幻影の自分の顔が、強張る。それでも、止めない。材料を手に取る。ゆっくりと、加工を始める。その手は、不器用だった。ぎこちなかった。だが――止まらなかった。
男の胸が、強く脈打った。
「……なんだ」
思わず呟く。これは、知らない光景だった。自分は、こんな未来を知らない。終わったはずだった。
あの日、すべては終わったのだ。
そう信じることでしか、自分を保てなかった。なのに――なぜ、あの自分は立っている。
幻影の自分は、ひとりで作業を続けている。汗を流しながら。何度も手を止めながら。それでも、また動かす。やがて、小さな部品が出来上がった。完璧ではない。だが、形になっていた。
男は気づいた。あの顔を、自分は知っている。初めて機械を動かした日の顔だ。恐れていた。だが同時に――信じていた。
幻影の自分が、それを見つめている。その顔に――微かな光があった。
男の呼吸が、止まった。
胸の奥で、何かがほどけた気がした。それが何なのか、男にはまだ分からなかった。
男の胸が、強く脈打った。それは、絶望の鼓動ではなかった。
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