雨の街灯 第1話
雨は、すべてを滲ませていた。ネオンも、信号も、人の影も。まるでこの街そのものが、自分の存在を曖昧にしようとしているかのようだった。男は街灯の下で立ち止まった。白い光が、濡れたアスファルトに滲んでいる。その光の中に、自分の影が伸びていた。細く、頼りない影だった。
「……終わった」
声に出してみたが、実感はなかった。本当に終わったのかどうか、自分でも分からなかった。ただ一つ確かなのは、もう戻れないということだった。ポケットの中の封筒を握りしめる。破産手続開始通知。その文字を見たときの感覚は、今も指先に残っていた。紙一枚で、人はここまで軽くなるのかと思った。いや、軽いのではない。空っぽになったのだ。
会社は、もうない。三年前、自分が立ち上げた会社だった。小さな工場だった。従業員は五人。古い倉庫を借りて、機械を並べて、夢だけを頼りに始めた。
「社長」
そう呼ばれた日のことを思い出す。くすぐったくて、誇らしくて、少し怖かった。自分が、この人たちの未来を背負っているのだと。だが、その未来を壊したのも、自分だった。判断を誤った。無理な投資だった。拡大すれば、軌道に乗ると信じていた。だが、現実は違った。取引先が倒れた。資金繰りが止まった。借金だけが残った。そして、終わった。
「……社長」
最後にそう呼んだのは、誰だっただろう。思い出せない。ただ、その声に応えられなかった自分だけが、はっきりと残っていた。男は歩き出した。行く場所はなかった。帰る場所も、なかった。家はまだある。だが、そこはもう「帰る場所」ではなかった。ただの箱だった。
雨は、止む気配を見せなかった。コートは濡れ、靴の中まで冷たくなっていた。それでも歩いた。止まれば、本当に終わってしまう気がした。不意に、光が見えた。街灯とは違う光だった。暖かい、橙色の光。路地の奥。見覚えのない場所だった。
「……こんなところに」
男は立ち止まった。小さな店だった。古びた木の扉。曇ったガラス。その奥で、ランプが揺れていた。なぜか、目を離せなかった。行く理由はなかった。だが、行かない理由もなかった。男は、扉に手をかけた。冷たい指先で、ゆっくりと押す。
扉は、音もなく開いた。
古い紙の匂いがした。
「……いらっしゃい」
声がした。静かな声だった。店の奥に、老人が座っていた。膝の上で、三毛猫が眠っている。
「未来屋古書店へ」
男は、何も答えられなかった。ただ、そこに立っていた。雨の音だけが、遠くに聞こえていた。
男は、しばらく入口に立ったままだった。中に入った理由を、自分でも説明できなかった。ただ、あの雨の中に戻りたくないと思った。それだけだった。
「どうぞ」
老人が言った。
「雨が強いようです」
男は振り返った。扉の向こうでは、確かに雨が降り続いていた。先ほどまで自分が立っていた街灯も、滲んで見えた。
「……失礼します」
男は店の中へ足を踏み入れた。扉が、ひとりでに閉まった。小さな音がした。店内は静かだった。壁一面に本棚が並んでいる。古びた本ばかりだった。革の背表紙。色褪せた布張り。文字の消えかけたタイトル。
老人は、男を見ていた。
「お疲れのようですね」
その言葉に、男はわずかに眉を動かした。
「……そう見えますか」
「ええ」
老人は穏やかに言った。
「ここへ来る方は、皆そうです」
男は答えなかった。ただ、近くの椅子に腰を下ろした。体が、急に重くなった気がした。三毛猫が、ちらりと男を見た。だがすぐに、また目を閉じた。
老人が言った。
「何か、失われましたか」
男の胸が、わずかに痛んだ。失われた。その言葉は、正しかった。
「……会社を」
気づけば、口にしていた。
「潰しました」
老人は、何も言わなかった。
「自分の会社です」
男は続けた。
「三年前に作った」
喉が乾いていた。
「守れませんでした」
その言葉を言った瞬間、胸の奥に何かが落ちた。重いものだった。
老人は、静かに聞いていた。
「従業員も」
男は俯いた。
「路頭に迷わせました」
言葉にすると、現実になった。逃げていたものが、形を持った。
「信じてくれていたのに」
拳を握る。
「俺を」
震えていた。
「……全部」
声が掠れた。
「俺のせいです」
店の中は静かだった。雨の音も、もう聞こえなかった。
老人が、ゆっくりと口を開いた。
「そうですか」
それだけだった。慰めも、否定もなかった。
男は顔を上げた。
「……責めないんですね」
老人は、少しだけ首を傾けた。
「私が、ですか」
「はい」
男は言った。
「馬鹿だとか」
喉が詰まる。
「無責任だとか」
言われると思っていた。そう言われるべきだと思っていた。
だが老人は、静かに言った。
「それは、あなたがすでに自分で言っていることです」
男は言葉を失った。
「これ以上、必要でしょうか」
男は答えられなかった。必要なかった。もう十分に、自分を責めていた。
老人は、本棚へ視線を向けた。
「あなたの本が、あります」
男は顔を上げた。
「……本?」
老人は、立ち上がった。ゆっくりと歩く。一冊の本を取り出した。古びた本だった。表紙に、文字はなかった。
老人は、それを男の前に置いた。
「失敗録です」
男の心臓が、強く脈打った。
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