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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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工房の木屑 最終話

 目を閉じたまま、男は自分の手を握った。固く、節くれだった手だった。長い年月、木だけを相手にしてきた手。その手を、これほど長く見つめたことがあっただろうかと思う。いつもは考えるより先に動いていた。ただ削り、ただ形を生み出していた。だが今は違う。この手は、本当にまだ削れるのかと、自分自身に問うていた。


 ゆっくりと目を開く。


 老人は何も言わず、ただそこに座っていた。急かすことも、励ますこともない。ただ待っている。その姿は、工房で木が立っている姿と、どこか似ているように思えた。


「……もし」


 男は口を開いた。


「また壊したら」


 声はかすれていた。


「そのときは、どうすればいい」


 老人は少しだけ目を細めた。


「壊したときのことを、今から考えているのですね」


 男は頷いた。


「怖いからです」


 正直に言った。


 老人は、静かに頷き返した。


「では、そのときは」


 短く息をつき、答えた。


「壊したことを、見届けなさい」


 男は眉をひそめた。


「見届ける……」


「目を逸らさずに」


 老人の声は穏やかだった。


「なぜ壊れたのかを、見るのです」


 男は、あの日のことを思い出した。割れた音。崩れた形。逃げるように工房を出た自分。


 見ていなかった。


 壊れた理由を。


 壊れた形を。


「私は」


 老人が続けた。


「多くの失敗を見てきました」


 男は顔を上げた。


「失敗した者の多くは、壊れた瞬間に目を逸らします」


 静かに言う。


「そして、自分の手を信じられなくなる」


 胸が痛んだ。


「ですが」


 老人の声が、わずかに深くなる。


「壊れたものを最後まで見た者だけが、次に生み出すことができます」


 男は息を呑んだ。


「なぜなら」


「壊れた理由を知っているからです」


 その言葉は、重かった。


 男は、自分の手を見た。あの日、なぜ割れたのか。本当は分かっていた。焦っていたのだ。納期に追われ、木の声を聞いていなかった。乾ききっていない材を無理に削った。分かっていたのに、認めなかった。


「……俺は」


 呟く。


「逃げました」


 老人は何も言わなかった。


「壊したことから」


 声が震えた。


「自分の手から」


 店の中は静かだった。ランプの灯りが、わずかに揺れている。


「それでも」


 老人が言った。


「あなたの手は、ここにあります」


 男は、強く手を握った。


「逃げた手ではありません」


 男の胸が、わずかに揺れた。


「戻ってきた手です」


 その言葉が、深く染み込んだ。


 逃げたままではなかった。


 こうして、ここにいる。


「手は」


 老人が続けた。


「何度でも、戻ってくることができます」


 男は、ゆっくりと息を吸った。


 木屑の匂いが、確かに胸の奥にあった。

 男は立ち上がった。手に力が入る。工房の匂いも、木屑の感触も、すべてが現実のように胸に迫る。ランプの柔らかな光の中で、自分の手が動き出すのを感じた。震えていた指先が、少しずつ落ち着きを取り戻す。


 老人は静かに見守っていた。言葉はない。必要な言葉はすでに、男の胸に落ちていた。失敗も恐れも、すべて自分の手の一部であること。逃げたままではなく、何度でも戻ってくる手であること。そうして初めて、形を生み出すことができるのだ。


 男はゆっくりと、本を開いた。手元の木片に目を落とす。ひびが入り、欠けた部分もある。あの日の失敗の跡だ。だが今、恐怖ではなく、敬意がそこにある。木が教えてくれた形。手が導く形。失敗が次の形を示してくれている。


「……削ろう」


 自然に出た声だった。震えていたが、力は宿っていた。手に握る鑿は重い。しかしそれは、重荷ではなく、道具であり、仲間だった。


 最初の一撃を木に当てる。かすかな音。木屑が舞い上がる。だが恐怖はない。削るたび、失敗したあの日の感触も蘇る。壊れたあの音も、裏切られたと思ったあの感覚も、すべて手の中にある。逃げずに受け止めた今、それらは形を作る材料となる。


「大丈夫だ……大丈夫だ」


 心の中で繰り返す。過去の自分に向けた言葉。未来の自分への誓い。手は少しずつ、リズムを取り戻す。削る音が工房に響く。静かな、しかし確かな音。形が見えてくる。欠けた部分も、ひびも、次第に整えられ、木は新たな表情を見せる。


 青年の幻影が、脳裏に浮かぶ。あの頃の自分だ。震える指先。恐怖に押しつぶされそうな目。だが今の自分は違う。青年の手を導き、形を生み出す未来の自分。その視線と、胸の奥の熱が重なる。失敗も恐れも、すべて次の力になる。


 しばらくすると、椅子は完成に近づく。欠けた部分は修復され、曲線は滑らかになった。男は手を止め、呼吸を整える。達成感だけではない。安心感でもない。胸の奥で、静かに誇りが芽生えていた。


 老人が、そっと声をかける。


「うまくいきましたか」


 男は微笑む。まだ完全ではない。だがそれでもいい。手は戻った。形を生み出す力も戻った。失敗を抱えた手で、再び未来を削り出せるのだ。


「はい……これで、また前に進めます」


 老人は微笑んだまま、頷いた。ランプの光が優しく揺れる。店内は静かで、だが温かい。男の胸の奥にも、穏やかな熱が満ちていた。


 外を見ると、雨がやんでいた。木漏れ日が差し込み、工房の中に柔らかい光を落とす。男は手を拭き、再び木屑に触れながら、深く息を吸った。失敗の記憶も、恐怖も、すべて自分の一部となった。もう逃げる必要はない。手が、胸が、それを知っていた。


 男は本をそっと閉じる。古書店の空気は、静かに呼吸をしているようだった。手を見下ろすと、木片と鑿がまだそこにある。もう一度、形を削り出せる手が、確かに自分のものとして存在していた。


 深く息を吐く。未来はまだ白紙だ。だが手は戻った。失敗を抱えた手で、再び形を作る力が戻ったのだ。


 男は微かに笑った。


 未来は、自分の手の中にある。

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