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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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工房の木屑 第4話

 本を閉じたあとも、男はしばらく動けなかった。胸の奥で、何かが静かに変わり始めているのを感じていた。恐怖が消えたわけではない。だが恐怖の奥に、別の感覚があった。微かな熱だった。


「見えましたか」


 老人が穏やかに尋ねた。


 男はすぐには答えられなかった。言葉を探していた。だが、どんな言葉も足りない気がした。


「……あれは」


 やっと絞り出す。


「未来……ですか」


 老人は微笑んだ。


「未来の一つに過ぎません」


 否定でも肯定でもない答えだった。


「選ばれなかった未来かもしれないし、これから選ぶ未来かもしれない」


 男は本を見下ろした。


「俺は……ああなれるんですか」


 声には、疑いと願いが混ざっていた。


 老人は少しだけ首を傾けた。


「未来は決まっておりません」


 静かに言う。


「ですが、可能性は失われておりません」


 その言葉が胸に落ちる。


「失敗した瞬間、人は未来を失ったと思い込むものです」


 老人は続けた。


「ですが実際に失われるのは、失敗する前と同じ未来だけです」


 男は顔を上げた。


「……同じ未来」


「ええ」


 老人は頷く。


「違う未来は、まだ残っております」


 違う未来。


 その言葉が、心の奥で広がった。


「失敗は終わりではありません」


 老人の声は変わらず穏やかだった。


「分岐点です」


 男の胸が微かに震えた。


「分岐点……」


「どちらへ進むかは、あなたが決めることです」


 老人は男の手元を見た。


「その手で」


 男は自分の手を見た。節だらけの手。木屑が染みつき、傷が刻まれた手。誇りだった手。だが同時に、壊した手でもあった。


「……この手は」


 知らず、呟いていた。


「まだ……使えるんでしょうか」


 老人は即座に答えなかった。少しの沈黙のあと、静かに言った。


「あなたは、なぜ木を削るのですか」


 男は息を止めた。


 なぜ削るのか。


 考えたこともなかった。ただ当たり前に削ってきた。だが今、その理由を問われていた。


「……そこに」


 言葉を探す。


「形があるからです」


 自然に出た言葉だった。


「木の中に、形がある」


 老人は頷いた。


「ええ」


 男の胸がわずかに熱を帯びた。


「それを、外に出したい」


 そうだ。それが理由だった。


「ならば」


 老人は静かに言った。


「その形は、まだ木の中にあります」


 男の喉が動いた。


「失敗で消えたわけではありません」


 老人の言葉は、深く、ゆっくりと染み込んでいく。


「削る者が、手を止めただけです」


 男は息を呑んだ。


「形は、待っております」


 その言葉を聞いた瞬間、工房の光景が脳裏に浮かんだ。削りかけの木。途中で止まった曲線。未完成のままの形。


 あれは、終わったのではない。


 待っているのか。


「……俺を」


 思わず口に出た。


 老人は微笑んだまま、何も言わなかった。だがその沈黙が、何よりの答えだった。男の胸の奥で、小さな音がした。凍っていた何かに、ひびが入る音だった。


 ひびは、静かに広がっていった。音はしない。だが確かに、胸の奥で何かがほどけ始めていた。


「……待っている」


 男は繰り返した。


 その言葉は、不思議な重みを持っていた。これまで、自分が木を待たせているなどと考えたことはなかった。木はただの材料だった。削られるもの。形にされるもの。だが今は違った。あの工房の隅に立てかけたままの材木が、まるでこちらを見ているような気がした。


「怖いですか」


 老人が静かに尋ねた。


 男は、少し考えてから答えた。


「……はい」


 正直な言葉だった。


「また壊すかもしれない」


 喉の奥が乾いていた。


「また、取り返しのつかないことになるかもしれない」


 老人は頷いた。


「そうでしょう」


 否定しなかった。


「その恐れは、消えることはありません」


 男は目を伏せた。


 やはりそうか、と思った。


「失敗を経験した者だけが持つものです」


 だが老人は続けた。


「そしてそれは、あなたの一部です」


 男は顔を上げた。


「……一部」


「ええ」


 老人の目は穏やかだった。


「失敗を知らぬ者の手は、確かに迷いがありません」


 ゆっくりと言う。


「ですが、失敗を知った手には、別のものが宿ります」


 男は黙って聞いていた。


「ためらいですか」


 思わず口にする。


 老人は、静かに首を横に振った。


「敬意です」


 その一言に、男の呼吸が止まった。


「敬意……」


「木に対する敬意。形に対する敬意。そして――」


 老人は男の手を見た。


「自分の手に対する敬意です」


 男は、自分の手を見つめた。長い間、信じてきた手だった。だが失敗してからは、裏切り者のように感じていた手。


「あなたは」


 老人が言う。


「自分の手を、許しておりませんね」


 図星だった。


 男は何も言えなかった。


「失敗したあの日から、ずっと」


 胸が締め付けられた。


 許していなかった。


 あの日の自分を。


 あの日の手を。


「許してやりなさい」


 老人は静かに言った。


「その手を」


 男の視界が揺れた。


「その手は、壊すためだけにあるのではありません」


 男の指先が、わずかに震えた。


「形を生み出すためにあるのです」


 その言葉が、深く落ちていく。


「失敗もまた、その手が生み出したものです」


 老人の声は変わらず穏やかだった。


「ならば」


 少し間を置く。


「次に生み出すものも、その手が決めることができます」


 男は息を吸った。胸の奥に、微かな熱が灯っていた。消えかけていた灯り。だが今は、確かにそこにあった。


「……俺は」


 言葉が自然にこぼれる。


「もう一度」


 喉が震えた。


「削っても、いいんでしょうか」


 老人は、微笑んだ。


「それを決めるのは、私ではありません」


 静かに言う。


「あなたです」


 男は目を閉じた。


 工房の匂いが蘇る。木屑の匂い。木の感触。鑿の重さ。すべてが、まだ自分の中に残っていた。

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